釣り野伏
つりのぶせ
島津義久が考案したとされる戦法。簡単に言うと囮を使って敵を包囲した後殲滅する。主に寡兵(兵が少ない状態)の時に使われる。
やり方としては
- 兵を3等分し2部隊(伏兵)を一ヶ所忍ばせ、残った1部隊(囮)を敵の前方に配置する。
- 囮は敵軍を挑発し、伏兵を忍ばせている場所までおびき寄せる。(釣り)
- 敵が3部隊の中心に来たら囮は反転し、伏兵は姿を現す。(野伏)
- 包囲殲滅する。
図↓
この戦法は寡兵で大軍に勝つことができる戦法の1つである。しかし発動するのは非常に難しい。特に囮部隊は高い難易度を持っている。
というのも釣り野伏は寡兵でやることが多くかつもとの兵力を3等分するため囮部隊と敵軍には大きな兵力差が生じる。また退却は「敵に背を向けて逃げる」ため全滅に陥りやすく、また敵に感づかれないように「自然な退却」をしなければいけない。そのため熟練した兵士と戦局を冷静に判断でき、兵士との信頼関係が高い指揮官が必要となる。
戦場もいつも伏兵に適した地形というわけではなく、伏兵の潜伏地点まで敵がこないこともありそのような時に迅速に敵軍の側面攻撃をするよう迂回するなど伏兵側にも高い技術が要される。
軍勢
釣り野伏は島津軍の必勝戦術として有名であり、朝鮮出兵の際には数倍の明・朝鮮連合軍を島津義弘が撃退している。
雑誌『忘却の日本史』によると、天文24年(1555年)に大隅国帖佐に於いて、祁答院良重に対して島津忠将・島津尚久兄弟が行ったものを主要な釣り野伏の最初に挙げている。次いで永禄8年(1565年)大隅国門倉坂にて、肝付兼続に対し島津以久・島津家久が行ったとしている。
更に、永禄11年(1568年)に義弘配下の遠矢良賢・黒木実利がウズラ狩りを装い(この当時はウズラの鳴き声が珍重されていた)、日向国真幸院の桶平城に籠る伊東勢を伏兵の元へ誘引して討っており、また翌永禄12年(1569年)に島津家久が大隅国の大口城に籠る菱刈および相良勢を自ら荷駄隊に化けて誘引し、伏兵の元へ誘い込んで首級136を討ち取っている。
九州の大名が類似した作戦を多く使っており、有名な使用者としては立花道雪や高橋紹運がいる。また、紹運の甥の吉弘統幸は「西の関ヶ原」と呼ばれる石垣原の戦いにて結果的には敗北したものの釣り野伏を使いあの天才知将黒田官兵衛に大損害を与えている。
囮を使い敵をおびき寄せた後に包囲殲滅という戦法は世界的に見ればモンゴル帝国のチンギス・ハンなどのモンゴル軍が使っていたらしい。
ただし、これらと島津勢との圧倒的な違いは、釣りの役目を大名島津義久の弟たる義弘・家久が担っていた点にある。
当時の戦は総大将を倒しさえすれば終わるものであり、しかも大名の弟を討ったとなれば大殊勲である。当然、敵は常以上に躍起となって追い掛けて来る、それが狙い目であった。
勿論、義弘・家久にはそれだけの胆力が、近侍する配下は命を賭しても義弘・家久を断じて討たせないという気概がなければ成功しえないものである。
使われた代表的な戦い
- 木崎原の戦い・・・元亀3年(1572年)、島津軍300人が伊東軍3000人を包囲殲滅。この勝利によって伊東氏は主だった将が失われ、外征は叶わなくなったのみならず伊東義祐の寵臣による元からあった内部不和も顕著となって、急速に衰退の一途をたどっていく。
囮部隊指揮官:島津義弘
- 耳川の戦い・・・天正6年(1578年)、島津軍20000~30000人が大友宗麟軍30000~40000人に勝利。これの勝利で島津はじっくりと九州南部の足固めが可能となったのみならず、肥後の名和氏・城氏が接近してくるなど、九州中部・北部へと進出する力を得ることになる。
囮部隊指揮官:島津征久、北郷久盛(討死)
(北郷隊は高城への補給中に奇襲された形となり、誘引に失敗し壊滅。島津征久の別働隊が誘引役を引き継いでいる)
- 沖田畷の戦い・・・天正12年(1584年)、有馬・島津連合軍6000人が龍造寺隆信軍25000人に湿地などを利用して包囲殲滅。当主である隆信が討ち死にし、島津・大友・龍造寺の九州三国志のバランスが崩壊した。
囮部隊指揮官:赤星統家
- 堅田合戦・・・天正14年(1586年)、豊後侵攻中の島津家久は道中にある大友氏家臣の佐伯氏の居城栂牟礼城を無視できず、土持親信に2000人の兵を与え攻略を命じた。佐伯氏の客将となっていた伊東旧臣の智将・山田匡徳が軍配を握り800人の兵を率いてこれを迎撃。中山峠や府坂峠といった地の利を生かした釣り野伏せを仕掛け、これを壊滅させた。島津が逆に釣り野伏せを食らった珍しい事例
囮部隊指揮官:佐伯正惟
囮部隊指揮官:伊集院久宣
- 泗川の戦い・・・慶長3年(1598年)、朝鮮出兵(慶長の役)にて島津義弘軍6000~7000人が数倍とも数十倍ともいわれている明・朝鮮連合軍に大勝。
囮部隊指揮官:川上忠実
- 石垣原の戦い・・・慶長5年(1600年)、大友軍(2000人)の吉弘統幸が釣り野伏で黒田官兵衛軍10000人に大損害を与える。しかし結果的に敗北し、統幸は戦死。
囮部隊指揮官:宗像鎮統(討死)
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