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利根(重巡洋艦)

とね

「利根」とは、大日本帝国海軍の重巡洋艦のひとつ。
目次 [非表示]

この軍艦をモチーフにした「艦隊これくしょん」のキャラクターは、「利根(艦隊これくしょん)」を参照。


概要編集

「利根」は日本海軍の利根型重巡洋艦の1番艦として、三菱重工業長崎造船所で昭和9年12月1日起工、昭和12年11月21日進水、昭和13年11月20日竣工した。艦名は二等巡洋艦の命名慣例に従って、関東地方を流れ「坂東太郎」の異名をとる利根川にちなんで名づけられた。

重巡洋艦であるにもかかわらず、河川名が付けられた理由は最上型重巡洋艦(当初は軽巡洋艦であり、改装後も書類上は二等巡洋艦)5番艦として計画されたためである。

後に再設計により重巡洋艦(書類上は最後まで二等巡洋艦)となるが、艦名はそのまま使用された。

最初の計画では、最上型と同じ15.5cm砲を装備するいわゆる条約型として起工しており、諸外国に通知した時の数値は、基準排水量8,636トン、水線全長187.21mである。

しかし、友鶴事件第四艦隊事件での教訓によって計画を変更、20.3cm主砲2連装4基8門を艦首に集中配置する事によって艦尾を空け、水上偵察機搭載能力を増した独特のシルエットを持つ1万t級の重巡洋艦として就役する。

艦の前部に主砲塔4基を集中し、後部を飛行機発進甲板・水上偵察機待機所とした、第二次世界大戦当時としては珍しい艦型である。

航空巡洋艦として、艦隊の索敵を担当した。


伊吹型(改鈴谷型とも)重巡洋艦「伊吹」が未完成に終わったため、「利根」と「筑摩」は日本海軍が完成させた最後の重巡洋艦となった(なお、「伊吹」は建造途中で軽空母に変更されたので、例え完成したとしても「利根」と「筑摩」が日本海軍最後の重巡洋艦である事に変わりは無い)。


wikipediaより


なお、主砲を前甲板に“俵積み”様に積み上げ、しかも第3,4砲塔が後方(艦橋の方)を向いているという、

そんな装備(法)で大丈夫か?

な配置をしているが、砲弾の相互干渉による初期の不具合を解消した後は

大丈夫だ、(全く)問題ない

だったという。

主砲の門数こそやや劣ったものの、最初から20.3cm砲を搭載し、友鶴・第四艦隊の両事件の教訓を建造時から採り入れた無理のない設計・構造、主砲の爆風の懸念なく多数の搭載機を運用できる長所など、日本重巡の一つの完成形と言える艦である。


竣工~太平洋戦争中盤まで編集

姉妹艦「筑摩」とともに、昭和14年5月20日付けで第二艦隊第六戦隊を編成、艦籍は横須賀鎮守府(横鎮)に置かれる。同年11月15日、改めて第八戦隊を編成。さらに同年12月1日、艦籍が舞鶴鎮守府(舞鎮)に移る。小型艦や旧型艦ばかりだった舞鎮において、最大かつ最新鋭の艦であり、「舞鶴戦艦『利根』『筑摩』」「とねちく」の愛称で親しまれた。

太平洋戦争では空母機動部隊の直衛艦として、真珠湾攻撃ミッドウェー海戦第二次ソロモン海戦南太平洋海戦マリアナ沖海戦を転戦、この間一度も損傷することが無かった。この間の昭和19年1月1日付けで、第八戦隊の解隊により所属が第七戦隊(「熊野」「鈴谷」)に移っている。


なお同年3月9日、通商破壊作戦「サ号作戦」に従事中の「利根」はインド洋上で英国商船ビハール号を発見、撃沈。第16戦隊の左近允尚正司令官の命を受けた黛治夫艦長の指示で、捕虜とした民間人ら65人を殺害する戦争犯罪行為「ビハール号事件」を働いている。


レイテ沖海戦群~帰還~終戦編集

昭和19年10月、レイテ沖海戦群を迎える。利根はレイテ沖海戦群を生き延びた数少ない重巡でもある(なおかつ内地に帰還できたのは、ほかに青葉があるだけ)。

サマール島沖の遭遇戦では、「鳥海」、「鈴谷」、そして姉妹艦「筑摩」が次々に被弾・落伍する中、「羽黒」とともに敵空母群に猛撃を続けた。主砲弾だけでも407発を発射している。そんな中で旗艦「大和」から集合命令がかかる。「利根」の艦長・黛治夫大佐は「羽黒」に対し「われ右舷に魚雷三本あり、統制魚雷戦に参加す」「敵空母四隻に対し共同魚雷戦を行いたし」と2度にわたり追撃参加を要請するも、第五戦隊司令部が下した反転の決断に「羽黒」が従ったこともあり、「利根」もやむなくこれに従い、反転した。

日本本土に帰還した「利根」は、翌年2月まで舞鶴海軍工廠で損傷復旧工事とさらなる対空兵装の強化が施される。工事完了後は呉に回航されるが、燃料不足もあり「青葉」、「大淀」、「榛名」、「日向」、「伊勢」とともに呉軍港に係留される。昭和20年3月19日の空襲ののち、大淀とともに能美島(現在は江田島市の一部)に移動、ここで改めて係留され、特殊警備艦(いわゆる浮き砲台)となる。

呉軍港は同年7月24日と28日にも2度の空襲を受け、「利根」はほかの艦とともに損傷、最後まで抵抗を試みるも遂に大破着底。翌月の広島市への原爆投下を目の当たりにしながら、終戦を迎えた。


戦後編集

終戦後もしばらく放置されていたが、「榛名」、「青葉」、「大淀」の後を追うように浮揚されて呉に曳航され、昭和23年に解体された。


なお、例のビハール号事件の顛末だが、黛艦長は捕虜殺害を命じた左近允司令官の指示を一度拒否していたことが認められ、禁錮7年という罪の重さに比べて比較的軽い処置が下されている(左近允司令官が全ての元凶であるとされ死刑になった)。


現在、江田島市能美地区には本艦の慰霊碑とともに「軍艦利根資料館」がある。平屋建ての一軒家にすぎないものの、本艦の大型模型や貴重な資料や遺品が収められている。


また、「利根」の艦名を継いだ海上自衛隊の沿岸護衛艦に、あぶくま型6番艦「とね」があり、これが3代目になる。


最後の蒸気レシプロ巡洋艦・初代「利根」編集

「利根」の名を持つ日本海軍の艦船としてはほかにも、日露戦争~第一次大戦期に活躍し、最後の蒸気レシプロ巡洋艦でもあった同名の防護巡洋艦があり、初代利根は第二水雷戦隊の初代旗艦を務めていた。ただし当時ニ水戦はあまり重要な部隊でなかったことと、水雷戦隊旗艦の任務が駆逐艦母艦に近かったこともあり、適当な巡洋艦を旗艦に据えていただけだったとする説もある。

その後就役した筑摩型防護巡洋艦からは蒸気タービン巡洋艦となったため、初代利根型はこの1隻のみで終わった。


ミッドウェー海戦‐利根4号機の蹉跌編集

前述の通りの南雲機動部隊の一員としてミッドウェー海戦に参加していた利根だが、この時に艦隊周辺海域の哨戒策敵に出す予定であった搭載機零式水上偵察機利根4号機カタパルトの故障によって予定より30分ほど遅れる、という有名な事故が起きている。この遅れて発進した偵察機が南雲機動部隊に奇襲をかけようと出撃してきていた空母3隻を有するアメリカ海軍16・17任務部隊を発見し、「どーせヤンキーは逃げたンだろ(意訳)」と先入観を持っていた日本側が大混乱に陥る事態をとなる。

この後、南雲機動部隊が右往左往している間にアメリカ側からの攻撃機隊が五月雨式に来襲し、出撃準備をしていた日本空母4隻のうち3隻が瞬く間に撃沈され全滅するといういわゆる運命の5分に直面することになる。

この事から後々の戦史研究家やオタクから「あの時利根4号機が予定通りに出撃していればもっと早くにアメリカ機動部隊を発見できて、余裕をもって対処できたろうに…」というような愚痴めいたことを度々言われることになる。

(もっともこの事案、利根の艦長や戦隊参謀レベルが「カタパルトの故障?そんなのあったっけ?(意訳)」「あーハイハイ…遅れた原因て何だっけ?(意訳)」と、そもそも事案があったのかすら不明瞭な証言を揃ってしていて、また一説には隣の区域を飛んでいた姉妹艦筑摩の偵察機は策敵に失敗していることからむしろ発進が遅れたから敵艦隊を発見できたのは?という可能性もあり、この『通説』を鵜呑みにするのは危険といえる。)


戦史研究や架空戦記において編集

上記のように戦史を知る者たちにとっては『もし利根4号機が予定通りに発進していたら』というifを妄想せずにはいられない案件であるが、その結果としてアメリカ機動部隊を返り討ちにしてミッドウェー島もハワイも占領できて日本TUEEEで大東亜戦争に勝つる!…と考えるのは虫が良すぎるというもの。

たしかに、架空戦記揺籃期にはそんな「火葬戦」と揶揄される作品がゴマンと溢れ(揶揄的に「タイムパトロールがミッドウェイ直前の利根のカタパルトを捜索していると時間犯罪者がゴロゴロ逮捕される」、と表現されたものである。)その内容を無邪気に信じていた人も多い筈だが、そもそもGNPだけで10~20倍に及ぶアメリカとの国力の差は局所々々での勝利だけでは埋め難いところという事をお忘れなく…。


関連項目編集

日本海軍 重巡洋艦 航空巡洋艦 筑摩(重巡洋艦) 羽黒(重巡洋艦)

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