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南太平洋海戦

みなみたいへいようかいせん

アメリカ側呼称は「サンタクルーズ諸島海戦」。 太平洋戦争の大規模な艦隊戦での日本艦隊最後の勝利として知られる。
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概要編集

1942年10月26日、ソロモン諸島シェパード諸島バヌアツ)の間、サンタ・クルーズ諸島の北の海域で行われた日米両軍の機動部隊による海戦

日本軍の戦術的勝利であったが多数の航空機と搭乗員を失い、主目的であるヘンダーソン飛行場ガダルカナル島)占領はできず、日本海軍による一時的な海上封鎖も解かれる事となった。


参加兵力編集

日本軍編集

第二艦隊(司令長官近藤信竹中将)編集

第四戦隊(司令官近藤信竹中将) 重巡洋艦愛宕(旗艦)、高雄

第三戦隊(司令官栗田建男少将) 戦艦金剛、榛名

第五戦隊(司令官高木武雄少将) 重巡洋艦妙高、摩耶

第二航空戦隊(司令官角田覚治少将) 航空母艦隼鷹

第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将) 軽巡洋艦五十鈴

 第十五駆逐隊(司令佐藤寅治郎大佐) 駆逐艦黒潮、親潮、早潮、陽炎

 第二十四駆逐隊(司令中原義一郎中佐) 駆逐艦海風、涼風、江風

 第三十一駆逐隊(司令清水利夫大佐) 駆逐艦長波、巻波、高波

付属 神国丸、健洋丸、日本丸、日栄丸

高雄型重巡洋艦「愛宕」(2)(再投稿)(第二艦隊旗艦愛宕)

第三艦隊(司令長官南雲忠一中将)編集

本隊編集

第一航空戦隊(司令官南雲忠一中将) 航空母艦翔鶴(旗艦)、瑞鶴、瑞鳳

第四駆逐隊(司令有賀幸作大佐) 駆逐艦嵐、舞風

第十六駆逐隊(司令荘司喜一郎大佐) 駆逐艦初風、雪風、天津風、時津風

第六十一駆逐隊(司令則満宰次大佐) 駆逐艦照月

重巡洋艦熊野

駆逐艦浜風

航空母艦「翔鶴」(真珠湾攻撃時)(再投稿)(第三艦隊・第一航空戦隊旗艦翔鶴)

前衛編集

第十一戦隊(司令官阿部弘毅少将) 戦艦比叡(旗艦)、霧島

第七戦隊(司令官西村祥治少将) 重巡洋艦鈴谷

第八戦隊(司令官原忠一少将) 重巡洋艦利根、筑摩

第十戦隊(司令官木村進少将) 軽巡洋艦長良

第十駆逐隊(司令阿部俊雄大佐) 駆逐艦秋雲、風雲、巻雲、夕雲

第十七駆逐隊(司令北村昌幸大佐) 駆逐艦浦風、磯風、谷風

補給部隊 駆逐艦野分  国洋丸、東栄丸、旭東丸、豊光丸、日朗丸、第二共栄丸

戦艦比叡(第十一戦隊旗艦比叡)


アメリカ軍編集

第六十一任務部隊(司令長官トーマス・キンケイド少将)編集

第十六任務部隊(司令長官トーマス・キンケイド少将)編集

航空母艦エンタープライズ(旗艦)

戦艦サウスダコタ

第四巡洋艦戦隊(司令官マウロン・ティスデール少将) 重巡洋艦ポートランド(旗艦)、軽巡洋艦サン・ファン

第五駆逐艦戦隊(司令チャールズ・セシル大佐) 駆逐艦ポーター、マハン

第十駆逐隊(司令トーマス・ストークス中佐) 駆逐艦カッシング、プレストン、スミス、モーレー、カニンガム、ショー

 (第六十一・第十六任務部隊旗艦エンタープライズ)

第十七任務部隊(司令長官ジョージ・マレー少将)編集

航空母艦ホーネット(旗艦)

第五巡洋艦戦隊(司令官ハワード・グッド少将) 重巡洋艦ノーサンプトン(旗艦)、ペンサコラ、軽巡洋艦サン・ディエゴ、ジュノー

第二駆逐隊(司令アーノルド・トゥルー中佐) 駆逐艦モリス、アンダーソン、ヒューズ、ラッセル、バートン、マスティン

アメリカ海軍 航空母艦ホーネット(第十七任務部隊旗艦ホーネット)


第六十四任務部隊(司令長官ウィリス・リー少将)編集

戦艦ワシントン(旗艦)

重巡洋艦サンフランシスコ

軽巡洋艦ヘレナ、アトランタ

駆逐艦アーロンワード、ベンハム、フレッチャー、ランスダウン、ラードナー、マッカラ

「ノースカロライナ」級戦艦(第六十四任務部隊旗艦ワシントン)


第六十三任務部隊(司令長官オーブリー・フィッチ少将)編集

ヘンダーソン基地 戦闘機28機、艦上爆撃機20機、雷撃機2機

エスピリッツサント基地 戦闘機24機、重爆撃機39機、爆撃機12機、飛行艇32機

ニューカレドニア基地 戦闘機61機、爆撃機29機


海戦前の状況編集

1942年8月7日の連合軍のガダルカナル島上陸より始まった同島を巡る戦いでは8月27日の第二次ソロモン海戦において日本艦隊は多数の航空機を失い、空母龍驤を撃沈されたうえにガダルカナル島への増援となる輸送船団も阻止され敗北を喫したが、空母エンタープライズを撃破した。

更に潜水艦部隊は31日に空母サラトガを撃破、9月15日には空母ワスプを撃沈し、空母勢力のバランスシートは大きく日本側に傾くこととなった。


10月11日、日本艦隊はヘンダーソン飛行場奪取を図る日本陸軍第十七軍の支援の為に大挙してトラック島泊地を出撃。

13日にはアメリカ機動部隊が出現した報告も基地航空隊偵察機より寄せられていた。


13日夜から14日未明にかけ、第三戦隊の戦艦金剛榛名を中核とする第2次挺身攻撃隊がヘンダーソン飛行場へ艦砲射撃を行い、同飛行場のカクタス航空隊の航空機96機のうち54機を破壊しガソリンタンクを炎上させる深刻な損害を与えた。

これは15日のガダルカナル島への日本軍第二師団揚陸作戦に対する大きな支援であったが、破壊された機体から燃料を抜き、飛行場周辺の捜査で半ば忘れられていたドラム缶の燃料350缶を発見してなんとか二日分の燃料を搔き集めて手作業で注油し、(日本側が存在を知らなかった為に被害を受けなかった)戦闘機用滑走路である第2飛行場から出撃したのべ120機にも及ぶアメリカ軍機の必死の反復攻撃で、夜明けまでには人員・重火器すべてと食糧・弾薬八割を揚陸していたとされる6隻からなる輸送船団は輸送船3隻を失うなどの甚大な被害を受け、揚陸した物資も大半が焼き払われる事となり、あまりの空襲の激しさに7隻の駆逐艦からなる護衛隊司令官である第四水雷戦隊司令官高間完少将は揚陸を一旦中止して正午に佐渡丸、埼戸丸を護衛して泊地を離れ、15時に陸軍第一船舶団長伊藤忍少将に再度反転しての揚陸を打診するも月明かりがある事から来るなとされ、佐渡丸、埼戸丸は人員は全て揚陸させたものの、その他の物資はほぼ手つかずの状態であったがやむなく帰投する事となった。



日本側は第二艦隊が17日から18日に、別行動をとった第三艦隊は16日から18日に洋上補給を行い第十七軍の総攻撃支援に備えた。

17日、第二航空戦隊がヘンダーソン飛行場へ空襲を行うが隼鷹の97式艦上攻撃機からなる爆撃隊が全滅するなど損耗が激しいばかりで効果は薄く、更には20日に第二航空戦隊旗艦の空母飛鷹が出火し、それが原因で機関故障となった為に旗艦と搭載機を空母隼鷹に譲りトラックへ引き返していった。


アメリカ側では艦砲射撃を受けたヘンダーソン飛行場の滑走路は一両日中に復旧され、不足する燃料もC47による空輸があり、また輸送船2隻、魚雷艇母艦1隻、艦隊曳船1隻という使用できる艦艇を搔き集めて編成された輸送部隊による緊急輸送がウィリス・リー少将の第64任務部隊の護衛のもとに行われ、第一航空戦隊の空襲で駆逐艦1隻を撃沈されるも、曳船1隻が損傷しただけで18日に到着して補給に成功し、ヘンダーソン飛行場のカクタス航空隊は一息つく事が出来た。

しかし、強力な日本海軍の存在は補給面で依然としてガダルカナル島のアメリカ軍には脅威であり、補給路の安全を確保するには日本海軍をヘンダーソン飛行場周辺から排除する必要があった。

16日、突貫工事の末に修理なったエンタープライズは戦艦サウスダコタと共に真珠湾を出撃、24日にはガダルカナル方面で唯一残された空母であるホーネットを中心とする機動部隊と合流して第六十一任務部隊(司令官トーマス・キンケイド海軍少将)を形成した。

南太平洋部隊司令官ウィリアム・ハルゼー海軍中将は、第六十一任務部隊にはサンタクルーズ諸島北方を航行した後に南西に針路を転じて日本機動部隊に備えること、第六十四任務部隊(司令官ウィリス・リー海軍少将)に対してはレンネル諸島付近に進出して待機し、ガダルカナルへの日本艦艇による増援・攻撃があれば阻止することを命じた。


20日、第十七軍の総攻撃が22日と決定され、第二艦隊は20日午後、第三艦隊は21日早朝から南下を開始した。

21日午後、総攻撃が23日に延期され、両艦隊は再び北上した。

22日午後、日本艦隊は再度南下を開始。第三艦隊司令部はレンネル諸島にある戦艦を中心とした敵部隊は未だ発見できない敵機動部隊からこちらの目を引き付ける為の囮ではないかと考え、その為に南雲提督は夜に重巡洋艦筑摩、駆逐艦照月を分派しサンタクルーズ方面からの敵襲を警戒して東方の索敵にあたらせた。

23日午前11時、南雲提督は阿部提督率いる前衛を分派。午後に陸軍総攻撃の再度延期が知らされ、艦隊は再び北上することとなる。

分派した筑摩がエスピリットサント基地のPBY(カタリナ飛行艇)に発見され、夕刻の第三艦隊に合流前に雷撃を受けており、また本隊の駆逐艦浜風も敵機を発見している状況から、第三艦隊参謀長草鹿龍之介少将は同一海面を何度も往復する危険を繰返さず北寄りに行動する事を南雲提督に認めさせ、その旨を単艦行動させた駆逐艦に連合艦隊司令部に宛てて打電させるも、南下を始めた第二艦隊を孤立させかねないこの行動は連合艦隊司令部の機嫌を損ね、二度にわたる連合艦隊長官命令で第三艦隊は24日20時頃に南下を始めた。

25日00時20分、第十七軍がヘンダーソン飛行場を占領したという報は三十分後に誤報と判明し、再び第三艦隊本隊は反転したが、前衛はそれを知らずに南下を続け、8時頃にそれを知らされ反転することとなった。

しかし本隊は7時30分、前衛もPBYに発見され、12時50分~13時50分の間、戦艦霧島B-17の爆撃を受ける事態となったが被弾は無かった。

13時頃、第十七軍から19時頃に攻撃を再開する旨の連絡を受けて日本艦隊は再び南下を開始した。


26日00時50分頃、PBYの爆撃で空母瑞鶴が至近弾を受け、この事態に南雲提督は自ら艦橋にあがるや艦隊の反転を指示。この決断は、アメリカ哨戒機の報告をエスピリットサント基地が受信して第六十一任務部隊に転電されたのが約二時間後であった為に効を奏した事となった。

北上しながら第三艦隊本隊は0245分に九七式艦上攻撃機13機からなる二段索敵を、前衛も02時15分に水上機7機からなる索敵を、03時に第二艦隊も索敵を実施した。

一方、索敵機から敵機動部隊発見の報を聞いたヌーメアのハルゼー提督も「攻撃せよ。繰り返し攻撃せよ」と艦隊に命を下した。

かくして南太平洋海戦は開幕した。


経過編集

03時45分の日の出の後、04時58分、偵察機より敵機動部隊発見の報が第三艦隊に届き、05時25分、旗艦である空母翔鶴の飛行隊長村田重治少佐率いる零戦21機、九九式艦上爆撃機21機、九七式艦上攻撃機20機からなる第一次攻撃隊が発艦した。

一方、03時頃にエンタープライズを発艦した16機からなる2機一組のSBDドーントレス艦上爆撃機の索敵部隊の一組が04時17分に第三艦隊前衛を、一組が0450分頃に本隊を発見。更に本隊を発見した別の一組は雲間より05時40分に急降下爆撃を敢行し、第一次攻撃隊を発艦させた空母瑞鳳に爆弾一発を命中させ直径15mに及ぶ穴を飛行甲板に開け火災を生じさせたが、火は間もなく鎮火された。しかし瑞鳳は発着艦不能となり駆逐艦舞風初風の護衛のもと北に退避した。この戦闘でアメリカ側に被害はなく、零戦3機が失われ、何よりも第一航空戦隊の攻撃隊護衛戦闘機と直衛機の役割の多くを担っていた瑞鳳の退場は日本側にとって痛いものであった。

そのような状況の中で第二次攻撃隊発艦の準備がなされていたが、空母瑞鶴の雷撃機の発艦作業が遅れた為に南雲提督はミッドウェーの轍を踏まない為に06時10分に翔鶴より零戦5機、九九式艦上爆撃機19機からなる攻撃隊が、45分に瑞鶴より零戦4機、九七式艦上攻撃機16機からなる攻撃隊が発艦準備完了次第別々に飛び立つ事となった。

また第二艦隊に属している第二航空戦隊では07時14分に志賀淑雄大尉率いる零戦12機、九九式艦上爆撃機17機からなる第一次攻撃隊を発艦させている。

アメリカ側では索敵機からの敵機動部隊発見の報告を受け、05時30分に第十七任務部隊のホーネットからF4Fワイルドキャット戦闘機8機、SBD15機、TBFアヴェンジャー艦上雷撃機6機からなる第一次攻撃隊を発艦させ、続いて06時頃に第十六任務部隊のエンタープライズからF4F8機、SBD3機、TBF8機の第二次攻撃隊、更に再びホーネットから06時15分、F4F7機、SBD9機、TBF9機の第三次攻撃隊が発艦していった。

日本軍の第一次攻撃隊はアメリカ軍第一次攻撃隊とすれ違ったが、日本側は気づかなかった為に交戦に至らなかった。しかし次に遭遇したアメリカ軍第二次攻撃隊には瑞鳳の零戦9機が襲いかかりF4F3機、TBF2機を撃墜、F4F1機、TBF2機を損傷させたものの自隊も4機損失、1機損傷の被害を受けた上に弾薬を撃ち尽くして攻撃隊より脱落し護衛戦闘機は半減する事となった。

06時55分、日本軍第一次攻撃隊は敵機動部隊を発見し攻撃に移った。第十六任務部隊はスコールの中にあり発見されず、第十七任務部隊が攻撃の矢面に立つ事となった。また上空直衛機はホーネットのレーダーが同一方向の味方攻撃隊と敵との区別が早い段階で出来なかった事などから展開が遅れ、この為に第一次攻撃隊は効果的な戦闘機の迎撃を受けることなくホーネットに対して見事な爆雷同時攻撃を行うことに成功し、攻撃終了後には爆弾四発の被弾、機関室付近に魚雷二発被雷、更に艦爆、艦攻各1機の体当たりを受けて船足が止まり右舷に8度傾斜して火災に包まれたホーネットが残された。しかし迎撃機・対空砲火による第一次攻撃隊の被害も甚大であり、隊長の村田少佐機を含む九七式艦攻10機、零戦3機、九九式艦爆10機を失い、更に零戦2機、九九式艦爆5機、九七式艦攻6機を不時着で失う事となった。

それに対してアメリカ軍攻撃隊では第一次攻撃隊のTBF隊はSBD隊を見失い、07時頃に前衛を発見して攻撃。第二次攻撃隊も前衛を、そして第三次攻撃隊も第三艦隊本隊を見つけることが出来ずに07時30分頃に前衛を攻撃することとなり、見事に第三艦隊前衛は敵の攻撃の大部分を吸引することとなった。攻撃は東端に位置した筑摩に集中され、07時25分以後爆弾三発、至近弾一発を被弾し艦橋・射撃指揮装置が大破、左舷前部機械以外の主機械は使用不能となる大損害を筑摩は受け、駆逐艦谷風浦風に護衛されてトラックに向け離脱した。同じ第八戦隊の重巡洋艦利根の方はスコールに入り無事であった。

しかしアメリカ軍の攻撃を前衛が全て吸引することは出来ず、アメリカ軍第一次攻撃隊のSBD15機は第三艦隊本隊を補足する事に成功し、上空直衛の零戦15機との交戦で2機を撃墜され(そのうち1機は零戦の体当たりによるもの)、2機は被弾で引き返したものの、残る11機は07時27分頃より雲間より降下して旗艦翔鶴を狙い、低空に留まり翔鶴の回頭方向から緩降下爆撃を敢行して三発の命中弾を与え発着艦不能とすることに成功した。だが日本側はミッドウェーの教訓を生かし、レーダーで第二次攻撃隊発進完了5分前には敵攻撃隊を捉えていた翔鶴では甲板にはホースから水が流され、可燃物は極力搭載せず、可燃物で放棄出来るものは海上に破棄し、燃え易いペンキも剥がされていた事から、被爆後に再度の攻撃を恐れて北西方面に駆逐艦照月の護衛のもと離脱して約五時間後には発生した火災も鎮火した。翔鶴被爆の折に艦長の有馬正文大佐は翔鶴を敢えて戦場に残すことで瑞鶴への攻撃を吸引すべきと主張したが、第三艦隊司令部としては貴重な正規空母を喪う危険を冒す訳にはいかず、その意見は受け入れられなかった。

一方、08時20分頃より攻撃を開始した日本軍第二次攻撃隊は、ホーネットは再起不能と判断してエンタープライズに攻撃を集中した。その攻撃でエンタープライズは爆弾二発を被弾し前部エレベーターが使用不能となったが、爆撃機と雷撃機の攻撃が同時にならなかった為に雷撃は容易に回避することが出来た。また発着艦も未だ可能であった。この他にアメリカ軍は空襲前に駆逐艦ポーターが不時着したエンタープライズの雷撃機を救助しようとして当の雷撃機から放たれた魚雷により沈没。駆逐艦スミスが九七式艦攻が体当たりを受け一時炎上する被害を受けた。これに対し日本軍の損害も先の第一次攻撃隊同様に甚大で零戦2機、九九式艦爆12機、九七式艦攻10機が未帰還となり、その中には翔鶴隊指揮官関衛少佐機、瑞鶴隊指揮官今宿滋一郎大尉機が含まれていた。

この攻撃より凡そ一時間後に今度は第二航空戦隊の第一次攻撃隊が低く立ち込めた雲間よりエンタープライズを奇襲した。

この折にアメリカ側はサウスダコタのレーダーが日本軍機を捉えて警告していたが、飛行甲板の応急処置が終わったエンタープライズに着艦しようとした上空直衛機を誤射して撃墜するハプニングを起こし、友軍機を不明機と誤認していると判断したエンタープライズにより射撃を制止されるなどの混乱が生じており、絶好のタイミングといえたが、低い雲の為に攻撃時に速力を落とさざるをえず、格好の対空砲火の目標となりエンタープライズには至近弾を与えるに留まった。また軽巡洋艦サン・ファンとサウスダコタがそれぞれ一発被弾し、前者は艦尾に命中して一時航行の自由を失い、後者は命中した第一砲塔は装甲の分厚さで被害は無かったものの、その折に発生した破片が艦橋の艦長トーマス・ガッチ大佐の首に刺さり、当たり所が悪ければもう少しで命も危ういところであった。これに対して攻撃側は九九式艦爆11機を損失することとなった。

上記のような再三の日本軍の攻撃を受け、ホーネットは航行不能となり、エンタープライズは損傷と自身とホーネットの艦載機を収容して95機の積載によりで空爆に対して極めて脆弱な現状に戦雲利あらずと察したキンケイド提督は艦隊の撤退を決意した。

第二艦隊司令長官近藤提督は08時18分に第二航空戦隊を第三艦隊に預け、自らは第二艦隊をして敵艦隊に向け進撃させた。第二航空戦隊司令官である隼鷹の角田提督は駆逐艦黒潮早潮の援護のもと、翔鶴被爆後に南雲提督より指揮権を委ねられた第三艦隊本隊と合流すべく北西に向かい、10時22分頃に水線上に第三艦隊のマストを見るや針路を東方に向け、11時6分に白根斐夫大尉率いる零戦8機、九七式艦攻7機からなる第二次攻撃隊を発艦させた。攻撃隊は重巡洋艦ノーサンプトンに曳航されつつあるホーネットを発見し、これに魚雷一本を命中させるも零戦2機、九七式艦攻5機が未帰還となった。

前進する第二航空戦隊は第一次攻撃隊などを収容し、その中から零戦6機、九九式艦爆4機からなる志賀淑雄大尉を隊長とするこの海戦で両軍最後の攻撃隊となる第三次攻撃隊を編成して13時35分に出撃させ、放棄されたホーネットに爆弾一発を命中させ、攻撃隊は全機帰還した。

一方、第三艦隊本隊でも瑞鶴で零戦2機、九九式艦爆2機、爆装の九七式艦攻6機の第三次攻撃隊が編成され瑞鳳飛行隊の田中一郎中尉(索敵にあたっており、母艦の戦線脱落で瑞鶴に着艦していた)の指揮の下、11時15分に出撃し、絶望的な状況となって総員退艦準備中のホーネットに命中弾を一発与えて全機が帰還している。

一方、敵艦載機の攻撃圏内を脱し、火災もおさまった翔鶴では夕刻にようやく南雲提督をはじめとする第三艦隊司令部が嵐に移乗し、翔鶴、瑞鳳には初風、舞風を護衛としてトラックに向かわせ、自らは瑞鶴、第二航空戦隊に追いつくべく南下を始めた。

撤退する敵艦隊を追撃する第二艦隊は、敵方に進出せよとの命令に従わずに北西に退避する第三艦隊前衛を再三の進撃命令でようやく進撃させ、追撃を続けたが結局捉える事が出来たのは航行不能となって総員退艦となり、処分の為に駆逐艦マスティンアンダーソンが魚雷三本を命中させ、更に300発余りの砲弾を使ったにもかかわらず左舷に45度ばかり傾斜し炎に包まれ誘爆を繰り返しながらも沈まなかったホーネットのみであった。連合艦隊司令部からは可能ならばホーネットを捕獲するように指示があったが到底曳航出来る状態でなく、22時頃に駆逐艦巻雲秋雲が各二本の魚雷を命中させて処分した。

27日04時55分、連合艦隊司令長官山本五十六大将から引き上げ命令が出され、日本艦隊の燃料も尽きかけていたが、02時に索敵機を出していた近藤提督はその報告を聞くまで諦めず敵発見の報告が無かった事からようやく11時に第三艦隊前衛を指揮下から外し、トラックに向かうように指示し、第二艦隊も洋上補給の後にトラックに向かわせた。

南雲提督座上の嵐は07時頃に瑞鶴、隼鷹と合流して旗艦を瑞鶴に移し、28日の05時頃に前衛と合流してトラックに向かった。


結果編集

戦いは日本艦隊の勝利に終わり、アメリカ側をして「最悪の海軍記念日」と言わしめ、アメリカのガダルカナル方面で使用可能な空母は一時的に無くなり、未だに瑞鶴、隼鷹を擁する日本艦隊が遂にこの海域での主導権を握ったかと思われた。

だが、この海戦で92機と145名のパイロット、そして真珠湾以来の残されたベテランパイロットの殆どを失った日本側にこの勝利を活かす余力は無かった。

対して74機と39名のパイロットを失ったアメリカ側は応急処置をしただけのエンタープライズをすぐさま戦場に投入し、ヘンダーソン基地の航空兵力共々、日本陸軍第38師団を乗せた輸送船団阻止を果たし、やがて日本軍はガダルカナル撤退という終わりの始まりを迎えることとなる。


逸話編集

●本来本来、南雲提督より先任であり、連合艦隊副司令長官的な立場で南太平洋海戦に参加した艦隊全てを指揮出来る身分でありながら、機動部隊の行動に口を挟むことなくサポート役に徹し、第二航空戦隊という航空機の傘を南雲に預けて、敵艦隊に進撃した第二艦隊司令長官近藤提督の指揮を評価した海軍軍人は多いとされる。

それとは対照的に第三艦隊前衛の司令官である阿部提督は26日の04時26分に敵機を発見したことから北西に退避を30ノットで始め、自隊の索敵機の敵機動部隊発見の報告を知らされたり、第二艦隊の敵艦隊に向かうとの無電を受信しながらも退避を続け、06時15分に南雲提督の敵艦隊への前進命令を受けて漸く東方に進みだすも30分後には速度を落としたり、筑摩被爆後は北西に針路をとり退避を続け、近藤提督の再三の進撃命令で漸く15時頃に第二艦隊の北方18㎞の地点に東進をはじめるなどその指揮を批判される事が多いという。


●この海戦において角田覚治少将の三次に渡る猛撃と進撃は彼の猛将ぶりを一躍有名にさせた。


●飛行場奪回をはかるガダルカナルの陸軍支援の為に出撃した日本艦隊ではあるが、第二艦隊所属の第三戦隊の艦砲射撃、第二航空戦隊の空襲以外はガダルカナルの敵を積極的に叩く行為は見せておらず、第三艦隊の目的も飛行場を奪取したならば、占拠した飛行場に航空隊を進出させ残敵掃討にあたるというものであったという。

艦隊決戦思想に固まり、陸軍支援という思想が無かった為かミッドウェーの雪辱を果たす事に燃える草鹿参謀長をはじめ海軍幕僚には陸軍支援よりも敵機動部隊撃滅を重視する傾向が強かったともいわれる。


珊瑚海海戦と同様に翔鶴が損傷するなか瑞鶴は無傷で、敵の一機は翔鶴被弾後に瑞鶴に向かったが上空直衛機に落とされたとも言われ、それを見た将兵は瑞鶴は本当に運が良い艦だと思ったという。

また珊瑚海海戦で翔鶴・瑞鶴の第五航空戦隊の指揮をとった原提督はこの海戦では第八戦隊司令官として旗艦利根の艦上にあったが、僚艦の筑摩が被爆するなかスコールに入り難を逃れており、幕僚の中には珊瑚海海戦でも旗艦瑞鶴がスコールに入り難を逃れた事から意図的なものではないかという疑惑を抱いた者もいたという。


●第二次ソロモン海戦では攻撃機としては機敏な艦爆をまず出撃させて敵迎撃機にあたらせ、敵空母の対空砲火などを削って後に鈍重な雷撃機で止めを刺す戦法が取られたが、艦爆がエンタープライズを撃破したものの雷撃機を出撃させる前に接触を索敵機が失って取り逃した為か、予想外の甚大な損害を艦爆隊が受けた為か、この海戦では攻撃隊には再び爆雷連合編成が取られた。


●正規空母二隻に軽空母一隻を付け、攻撃隊を正規空母搭載機が担当する代わりに軽空母が戦闘機を多目に搭載して自隊防御に使うという運用法は第二次ソロモン海戦では龍驤をヘンダーソン飛行場空襲に使って撃沈された為に機能しなかったが、本海戦では部分的に機能した。


●第三艦隊を機動部隊本隊と前衛に分け、前衛を本隊より敵に向け突出させ、敵により接近した偵察、攻撃隊の往復に於ける目印、主力を爆撃機としたことから撃沈困難となった敵艦で損傷したものは可能ならば前衛部隊で撃沈するという目的のこの戦法は第二次ソロモン海戦より使用されていたが、本海戦で敵攻撃隊の攻撃の大部分を吸引する事で一応の成功を見る事となり、これは引き続きマリアナ沖海戦でも第二艦隊を中核とした戦力で使用された。アメリカ側にもレーダー・ピケット艦の運用法の先駆け的なものとして評価されているようである。しかし、前衛艦隊に選ばれた艦の艦長達からは、自分達を矢面にする気ではないかと不満を持たれたという。


●日本軍は無線傍受で敵の呼び出し符号が三種類ある事から三隻の空母が行動中と考え、トラックへの帰途で関係者からの証言からそのうち二隻を撃沈したと考えたが、隼鷹関係者からはもっと多いとの主張がなされ三隻撃沈という事となった。一方で連合艦隊司令部は接触機の報告・戦闘速報から四隻の空母を撃沈したと判断し、10月27日の大本営海軍部の発表では空母四隻、戦艦一隻、艦種不明艦一隻を撃沈とされた。陽炎・巻雲が得た捕虜から米軍の参加空母はエンタープライズとホーネットのみと知らされても、海軍はそれを信じず、真珠湾で修理中だったサラトガの動向を捕虜が知らない事からサラトガを第三の空母と判断したという。

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