概要
天保8年2月8日、三条実万の四男として京都に生まれた。母は土佐藩主、山内豊策の三女である紀子。
兄の公睦が没したため世嗣となり、安政元年に禁色昇殿を許された。
父の実万は内大臣、議奏など朝廷の要職にあったが、幕閣、諸大名等、また橋本左内等の志士とも連絡があり、攘夷派公卿として活躍したが、安政5年に井伊直弼が大老となるに及んで、落飾を命ぜられ、翌年には没してしまった。
この時、実美は23歳で、三条家31代当主となる。この頃から急速に政治への関心を深めていった。もともとは父と異なり公武合体を主張していたが、幕府の腰が重く、状況が遅々として進まないことに苛立ち、徐々に攘夷派、討幕派に傾いていった。一時は、公武合体を主導していた岩倉具視などを失脚に追い込んでいる。
文久2年9月、勅使として副使姉小路公知と共に従弟である土佐藩主山内豊範の護衛により江戸に下り、攘夷の決行を督促する勅書を将軍徳川慶茂に授けた。
この頃が実美の生涯で最も華やかな時代であった。
しかしながら、翌文久3年の将軍上洛を機に、尊王攘夷派の勢力は拡大したかに見え、8月13日には尊攘祈願として大和国行幸が実現すると思われながら、薩摩・会津両藩の結合により中止せざるを得なかった。
この結果、尊攘派はたちまちの内に失脚せざるを得なくなり、実美ら七卿は京を追われ、長州兵らと共に長州へ向かった。このようにして公武合体派が完全に主導権を握ることになった。俗に言う「八月十八日の政変」および「七卿落ち」である。
これはまた孝明天皇の満足されるところでもあった。
元治元年、失意の中にあった実美は鶯の声を聞いて、「鶯は何の心もなる竹の 世を春なりとうちはいて啼く」と詠んでいる。
更に慶応元年には長州から築洲大宰府へと流離の日々を送ったが、慶応3年の王政復古に伴い、ようやく官位が復旧されて、12月27日に大宰府から京に帰り、この日実美は新政府の議定となった。
この時、新政府の舵取りを手動していたのは、かつての政敵であった岩倉具視であった。実美は、岩倉と連携することに難色を示したが、両者と交友があった中岡慎太郎が仲介し、連携が実現した。明治元年、岩倉とともに新政府の副総裁(席次において、上から2番目の役職)となり、外国事務総督を兼任、更に関東監察使となった。
江戸が東京と改められ、鎮将府を置くに及び、実美は鎮将を兼ね、駿河以東十三国の政務委任を命ぜられた。
明治2年には右大臣となり、明治4年には太政大臣兼神祇伯宣教長官に任じた。
以後、朝鮮問題、佐賀の乱、台湾出兵、江華島砲撃事変、西南戦争等の処理にあたり、明治18年の責任内閣制度の創定に至るまで右大臣を務めた。
明治22年には、内大臣ながら一時内閣総理大臣を兼任し(ただし、臨時のことであったので、歴代の総理大臣には含めないことが多い)、明治24年にインフルエンザにかかり、53歳をもって波乱に富んだ一生を終えた。
人物
三条家は五摂家に次ぐ清華の内でもその首に数えられる名家で、家学として香道、音楽がある。
実美もそれらを学び、それぞれの道に長じた。
また和漢の学(国学ならびに漢学)に通じ、特に歌にも優れたものがあった。
上述の長州、筑前に追われた時に詠じた和歌は、自らこれを『西瀕遊草』と名づけ、また明治維新後の遺詠は高崎清風が編纂して『難四之可他延』と題されて今日に残る。
書画にもまた優れていたといわれている。
母の紀子は、土佐藩主の山内家の出であり、そのため土佐藩士たちとは交流があった。特に中岡慎太郎とは親しく、慎太郎が土佐を脱藩して浪人だった頃、実美は慎太郎を随臣として召し抱えている。慎太郎はそこまで身分が高くないにもかかわらず、様々な勢力との連絡役をこなせたのは、三条家の後ろ盾があったためである。
幕末においては、諍いが絶えない薩長の間を取り持ち、双方の顔が立つように立ち回っている。公家の中でも名門で、実直かつ温厚な実美の人柄の良さは、大勢から認められており、対立しがちな新政府の潤滑油であり、そのため仲裁役を負うことが多かった。ただ、征韓論政変では、西郷派と大久保派の間にあって収拾がつけられず、ついに寝込んでノイローゼになってしまう結果をもたらしており、自己主張の少ない、政治家としては今一つ物足りなさを感じさせる人であった。
内閣制度発足の際は伊藤博文と並ぶ内閣総理大臣最有力候補であり、両者の出身身分の圧倒的な差(清華家出身の三条と、貧農出身で親の養子縁組により武士となっていた伊藤)から三条に決まりかけていたが、宮中会議で井上馨が「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と発言したことがきっかけで流れが変わり、イギリスへの留学経験があり英語(イギリス英語)が堪能であった伊藤が初代総理となった。