トキノミノル
まぼろしのうま
「初出走以来10戦10勝、目指すダービーに勝って忽然と死んでいったが、あれはダービーをとるために生まれてきた幻の馬だ」――吉屋信子
生年月日 | 1948年5月2日 |
---|---|
死没 | 1951年6月20日 |
性別 | 牡 |
毛色 | 鹿毛 |
父 | セフト |
母 | 第二タイランツクヰーン |
母の父 | Soldennis |
5代内のインブリード | The Tetrarch3×4/Ayrshire5×5 |
競走成績 | 10戦10勝 |
生産者 | 本桐牧場 |
馬主 | 永田雅一 |
第二次世界大戦終結から間もない中央競馬において、生涯戦績10戦10勝(うちコースレコード7回)を誇り、その名をとどろかせた競走馬。無敗のまま1951年の皐月賞と日本ダービーを制した優駿だったが、破傷風のため日本ダービーから一月も経たずに死んでしまうという悲劇に見舞われ、死後「幻の馬」と呼ばれた。
その死を悼んで題材とした映画が作られた他、1966年には東京競馬場にブロンズ像が作られ、顕彰馬制度が発足した1984年には、第1回顕彰馬として選出されている。
誕生
1948年5月2日、北海道三石郡三石町(2006年に日高郡静内町と統合、新ひだか町と改名)の牧場で誕生。幼名(血統名)は「パーフェクト」。
なかなか買い手が付かなかったところに、名騎手にして名調教師であった田中和一郎(たなか わいちろう)を通じて、大映社長であった永田雅一(ながた まさいち)に紹介される。
元々永田は買う気がなかったのだが、田中や牧場主の説得を受け、100万円で購入した。
ただ、決して安くはない買い物をしたにもかかわらず(この頃の100万円は現在の貨幣価値にすると約2億円)、永田はあまりこの馬に関心を示さなかった。
そのため、3歳馬(現在の年齢計算上では2歳馬)になっても改名させてもらえず、後述の問題も相まってほとんどの騎手からはタッグを組むことを敬遠されてしまう有様であった。
岩下密政との出会い~伝説の始まり
しかし、そんな最中、パーフェクトのポテンシャルを見出し、鞍上に乗ることを希望した一人の騎手がいた。その男こそが岩下密政(いわした みつまさ)である。
岩下は、第二次世界大戦前から活動し20年近くのキャリアを持つ、田中厩舎所属のベテラン騎手で、安定した騎乗スタイルに定評があったものの、戦前~戦時中の重賞勝利数がわずか3つで、戦後直後5年間の通算勝利が50にも満たないなど、長らく低空飛行状態であった。
そうして1950年7月23日、岩下とのタッグで函館競馬場で行われるデビュー戦を迎えることになったが、練習中に気性の荒さが出てしまい、出走練習のやり直しを命令されたうえ出走登録を拒否されてしまった。栗林友二(最強の牝馬と言われるクリフジのオーナーとして知られる)の仲立ちで改めて出走登録させてもらい出走が許されたものの、当日もスタート直前のゲートインの際に鞍上の岩下を振り落とすというトラブルをやらかした。だが、いざレース本番に入ると、恐ろしいほど順調なレース運びを見せ、気が付けば8馬身差で圧勝してしまった。
ところで馬主であった永田はというと、パーフェクトを購入した事をすっかり忘れてしまっていたため、パーフェクトのデビューウィンを田中からの電話で知らされた時、「何だそれは!?」と言い返してしまった。呆れた田中が「私があなたに勧めたあの馬なんですけど……」と突っ込みを入れると、永田は腰を抜かし、態度をコロッと変えて狂喜乱舞したという。
数日後田中の厩舎を訪ねた永田は、パーフェクトの快挙にすっかりご満悦な様子で、パーフェクトを「トキノミノル」と改名させたのだった。「トキノ」は元々大映初代社長であった菊池寛が馬主として所有馬に付けていた冠名であり、「菊池さんが生前叶えられなかった競馬に掛けた夢や願いを実らせてほしい」という願いが込められている。
以後トキノミノルは、岩下とのタッグで連戦連勝、1951年5月13日に中山競馬場で行われた第11回皐月賞では、当時のコースレコードであった2分3秒0をマークし、見事優勝した。この時の単勝支持率は73.3%であり、令和6年現在も破られていない記録である。
勝利の女神に見放されつつあった岩下にとっても、トキノミノルとの出会いはまさしく奇跡のような出来事であった。
だが…………。
故障からの復帰~日本ダービー制覇
皐月賞の翌日、中山からトキノミノルが無事に帰還したものの、どこか歩き方がおかしくなっていた。それから10日ほど後、右前脚の蹄にヒビが入っていたことが判明する。
実はトキノミノルは生まれた時から右前脚が弱く、そこを庇いながら走る傾向にあった。岩下もその歩き方の癖に前々から気付いており、レース中はなるべく脚に負担がかからないよう慎重に走らせることを心掛けていた。
そんなこともあり、日本ダービーに向けての調教を軽めにせざるを得なかったのだが、それに対して、普段穏やかな人格者として知られていた田中が「なぜ追わないんだ!」と珍しく声を荒げてしまうこともあった。不運にも、右前脚をかばうあまり左前脚の具合も悪化したばかりか、高熱にうなされるようになり、食欲も衰えていった。永田はこの事態を懸念し、日本ダービーへの出走断念も本気で検討するようになった。
ところが、6月1日に入り、トキノミノルの病状は急激に回復。結果的に日本ダービーへの出走が決まるも、それまでの調整不足のせいか、関係者から不安の声が上がった。こうした経緯もあってか、本番では念のため蹄と蹄鉄の間にフェルトを挟む、という処置を行った。
かくして岩下とのタッグで臨んだ6月3日の第18回日本ダービー。序盤から中盤までは故障を恐れてかなり後方を走らざるをえなかったが、向こう正面でスパートを掛けると一気に先行していた他の馬を引き離し、終わってみれば1馬身差で優勝を果たす。
無敗のまま日本ダービーを制した名馬に近寄ろうと観客の一部が馬場に殴り込んでしまうという混乱の中で記念撮影をするハメになってしまった。
競馬ファンの間からは「菊花賞もいけるぞ」という声も飛び、永田も「菊花賞も取ったらアメリカ遠征も考えている」と発言するなど、まさしく永田ラッパの面目躍如であった。
早すぎる最期
しかし日本ダービーから5日後、厩務員からトキノミノルに元気がないという報告があったが、この時は調教を休ませた程度で特に大きな対策を取らなかった。しかし、日にちが経過するにつれて、再び食欲不振に陥ったり、歩行がおぼつかなくなったりするなど、徐々に様子がおかしくなり、それから約1週間後には目が赤くなっているのが見つかり、結膜炎と判断された。
ところが、結膜炎を疑った次の日には、些細な物音に過敏に反応したり、全身が固まったように動かせなくなったりするなど、さらに症状が悪化したため詳しく調べてみたところ、破傷風であることが判明(現在では、上記の症状はいずれも破傷風の前徴および主症状であることが判明)。すぐさまそちらの治療に切り替えることとなった。
永田は「なんとかして助けてやってくれ! 金は惜しむな! ダービーの賞金もみんな使え! 競走生命がなくてもいい。なんとしても命だけは助けてやってくれ!!」と田中や獣医に必死に頼み込んだ。
永田や岩下も加わっての懸命な看病もあり、一時は回復に向かっているかのように思われていた……(この時実際に治療に投じられた資金は、当時の日本ダービー1着賞金の100万円とも、それ以上とも言われている)。
しかし、その矢先であった6月20日、破傷風の主症状である筋肉硬直と痙攣が再発、全身がまともに動かせないほど病状が急激に悪化してしまう。
そして懸命な応急処置も甲斐なく、食事すらできないほどにまで衰弱、獣医はこれ以上の見込みはないと診断した。
その日、岩下は別件のため外出していたが、容態悪化を知らされ、その夜、慌てて府中の田中厩舎に駆け付けてきた。岩下がすっかり弱り切っていたトキノミノルのもとに飛び込み「どうした? どうした!」と声を掛けると、トキノミノルは聞き慣れた相棒の声に安堵したかのように目を閉じていった。
そして、1951年6月20日22時34分、無敗のまま日本ダービーを制したトキノミノルは、薬石効なく敗血症との合併症により、永田、田中、厩務員や獣医をはじめとする関係者、記者やレポーターなどのマスコミ関係者、そして唯一無二の相棒・岩下に看取られながら、4歳(旧表記。2001年以降の表記では3歳)という短すぎる生涯を終えたのであった。
最後を看取った記者一人であった橋本邦治は、「これがあのダービー馬か、と目を疑いたくなるような、寂しい姿だった」と回想している。
墓は東京競馬場の一角に建てられ、2022年現在は同競馬場正門前の馬霊塔に改葬されている。
そして、1966年には、同競馬場パドック脇にトキノミノル像が建てられ、除幕式には永田が参列した。現在も東京競馬場の待ち合わせ場所として知られている。
トキノミノルの死は社会にかなりの影響を与え、女流小説家で馬主でもあった吉屋信子が毎日新聞に寄せた追悼文に記した「幻の馬」が、この悲運の名馬の代名詞となった。
1955年にはこの馬をモチーフにした映画「幻の馬」が、永田が社長を務めていた大映の東京撮影所(現在の角川大映スタジオ)によって制作され、大映系映画館で上映されている。
また、トキノミノルが死んだ当時、破傷風は、白血病や癌、結核と同様、いわゆる「不治の病」と見なされており、効果的な治療法が確立されていなかった。その原因菌である破傷風菌にかかったタイミングについては2022年現在も複数説存在しているが、「これからは二度と彼のような犠牲者を生み出させない」という反省も込めて、闘病時の記録が多くの医師・獣医師や医学者たちにとって貴重な研究資料となり、馬のみならず人間にとっても有効なワクチンや治療薬、そして予防策などが開発される手掛かりとなった。 そして、競走馬には破傷風の予防接種が義務付けられたため、トキノミノルと同じ運命を辿った馬は一頭も出ていない。
トキノミノルの死後、永田は自ら管理した馬に対し「トキノ」の冠名を付けることはなかったが、上記の兆候が出ていたにもかかわらず出走を決断した永田はじめ陣営の姿勢に対しては、トキノミノルの死から四半世紀以上経っても、「そこまで大事にしているなら、せめてダービーの時点で休養させるべきだったのではないか」「結局トキノミノルの死は永田氏はじめ周囲の人間のエゴが招いた悲劇だったのではないか」などと批判する声も少なくない。
主戦騎手の岩下は、トキノミノルへの思い入れが非常に強く、タッグを組んでいた時に生まれた息子の名前を「実(みのる)」にするほどだった。トキノミノルの死後に受けたインタビューでも、最期まで抱えていた右前脚の障害について触れつつ「せめて悪い脚をきちんと治した状態で一度は走らせたかった」とその死を惜しんでいた。
トキノミノルの死後は別の馬とタッグを組んで活動を続けていたが、1959年を以って引退するまで重賞勝利わずか2勝と再び勝ち運に恵まれなくなった。引退後は田中と同じく調教師の道に進むも、1972年7月7日、調教師仲間との飲み会の帰り道で交通事故に遭い、59年の生涯を閉じた。
北海道新ひだか町三石地区の農協・JAみついしでは、三石地区で収穫された米を「トキノミノル(ときの稔)」と言う名称で販売しているが、その由来はこの馬からきている。
また、2月に行われる3歳馬重賞・共同通信杯は副名称を「トキノミノル記念」としており、彼の名を今に伝えている。ちなみに、中央競馬史上重賞名に馬名が冠されたものはこの他に、セントライト、シンザン、ディープインパクトが現在も残っており、奇しくもすべてが3歳馬限定の重賞である。
1984年、中央競馬において記録的・文化的に顕著な貢献があった馬を後世に伝えるという趣旨の「顕彰馬制度」が発足し、同年行われた第1回選考でトキノミノルが顕彰馬に選出された。
2022年現時点では、ハイセイコー、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアン、ディープインパクトなどの後世の馬に比べて投票獲得数こそ低いものの、名馬のランキングでは度々その名前がランクインするほど、競馬ファンでは今でもその伝説が広く語り継がれている。
実際、2000年に行われた「20世紀の名馬大投票」では第44位(獲得投票数:1,898票)、2010年に行われた「未来に語り継ぎたい不滅の名馬たちランキング」では第36位、2015年に行われた「未来に語り継ぎたい名馬 BEST100」では第75位、それぞれ100位以内を維持している。
実は、生涯無敗記録では国内調教馬に限ったとしてもベスト3に入っていない。また、10戦して10勝0敗の競走馬はトキノミノル以外に2頭いる(アクチブハトリとスズノライデン)。
しかし上記の2頭はいずれも地方競馬でしか走った事が無かったのに対し、トキノミノルの場合は皐月賞や日本ダービーという日本最高峰の舞台を走りレースレコード7回更新という記録、その圧倒的な実力(10馬身以上の大差を付けて勝った事すらある)、右前脚が殆ど使えず(左前脚にも慢性的な故障を抱えていた)、若くして急死したという悲劇性、そして時代背景が相まって人々に強く印象付けられ、『幻の馬』として記憶に残る事となった。
余談だが、日本国内の競走馬の生涯無敗記録は、2021年現在、1位ホウリン(16戦16勝)、2位ツルマルサンデー(15戦15勝)、3位クリフジ(11戦11勝)となっている。
ウマ娘化
※右腕に注目されたし。
しかし、とあるキャラの正体がトキノミノルのウマ娘ではないかとの推測がある。
現状、「トキノミノル」タグが付けられている作品は大半がそのキャラにまつわるものである。もっとも、当該キャラに「脚が悪い」という設定はなく、ウマ娘には追いつけても某ヒトミミには追いつけないこともあるのだが…
『幻の馬』トキノミノル(競馬コラム&ニュース「ウマフリ」掲載)
トキノミノル(「久米裕選定 日本の百名馬」より、アイケー血統研究所公式サイト掲載)
グリーンファーム:永田氏の遺族の意向を受けて、永田氏の勝負服を引き継いでいる。
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