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しぬどんどん

しぬどんどん

しぬどんどんは、『鎌倉殿の13人』で毎回のごとく登場人物が次々と死んでいく怒涛の展開のこと。
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概要編集

しぬどんどんとは、2022年のNHK大河ドラマ鎌倉殿の13人』にて毎回のごとく起こる登場人物が次々と死んでいく怒涛の展開を同時期に放送されている同局の連続テレビ小説ちむどんどん』に掛けて誕生したワードである。当初はSNS上で使われるスラングに過ぎなかったが後にマスコミも使用するようになった


他にも朝ドラのタイトルと鎌倉殿の作風を掛けたパロディはいくつか作られている。

全部、黒い。

きるきる家族

キール

ダイダイエヴリバディ

マッサツ

ちゅうさつ

あさしん

あさしんが来た

ただいまホネ

死にやがれ!

『(助かると思ってたのに)うそやん

トウ姉ちゃん

『(注意が)さんまん


朝から晩までしぬどんどん編集

同時期の日曜日放映の特撮やアニメでも、「最初の3話連続で退場者が出た上、その後も退場者が度々続出している『仮面ライダーギーツ』」「プロローグ段階で死者続出で、基本設定が鬱展開を予感させる『水星の魔女』」の放映も始まり、2022年(特に後半)は朝から晩までヘビーな内容のコンテンツが放映されることとなった。


SNSでは「日曜朝のしぬどんどん 日曜夜のしぬどんどん」などの声も上がった。


2024年大河トラマ『光る君へ』で藤原隆家を演じる竜星涼は「ちむどんどん」に出演していたが、NHKのインタビューで当時を振り返りちむどんの撮影スタジオ内では「今日は誰が死ぬんだろう」と話題になっていたことを回想している。


退場者リスト編集

以下に退場者リストを示すが、第35話では逆に「今回は誰も死んでない!」(※)と視聴者からびっくりされてしまったりしたりしている。

  • ※回想シーンで毒殺描写のある政範を除いた場合。

同じタイトルで複数の退場者がいた場合は、退場の原因が違うもののみ表の欄を分けるものとする。


話数退場者退場の原因及び殺害などの犯人、()内は推定備考
第1回千鶴丸善児
第2回なし
第3回源頼政自害
以仁王逃走中に落命
第4回なし
第5回堤信遠北条宗時
山木兼隆(北条宗時)
工藤茂光・北条宗時善児
第6回なし
第7回長狭常伴(三浦義村)
第8回なし
第9回江間次郎善児
第10回大庭景親上総広常
佐竹義政上総広常
第11回平清盛病死後白河法皇&文覚の呪い
義円源行家源義経の教唆。
伊東祐親・伊東祐清(善児)作中では「自害した」とされているが、善児が持っていた短刀が血に染まっている。史実では祐親は自害、祐清は処刑(頼朝)または倶利伽羅峠で戦死(義仲軍)
第12回なし
第13回なし
第14回なし尚、次回からは死亡と退場のオンパレードであるため、現時点での死亡者がいなかった期間が本作で最長である(12~14)
第15回上総広常梶原景時、善児実行犯は梶原景時であり、善児は殺人ほう助。
第16回木曽義仲源範頼軍
今井兼平(源範頼軍)平家物語によると自害
第17回源義高藤内光澄
一条忠頼仁田忠常
藤内光澄斬首(立会人は北条義時と工藤祐経)伊豆の武士。史実では頼朝の御家人の郎党
武田信義頼朝に屈服させられ退場。没年は1186年説(『吾妻鏡』)と1194年説があり、1186年以降の史料にも名前が登場しているため、1194年に亡くなった可能性が高まっている
第18回安徳天皇、二位尼(平時子)、平知盛入水壇ノ浦の戦い
平宗盛平清宗(斬首)本作品では親子の対面を果たしたあと、斬首の描写はなくそのままフェードアウト
第19回源行家「鎌倉方に捕まり、首をはねられるのは、これより少し後のこと」
第20回藤原秀衡病死
藤原頼衡善児史実では泰衡に討たれている
里(郷御前)、里の娘源義経
源義経自害自害シーンが直接描写されなかったことから、「この作品の義経のことだからどこかへ逃げ延びているのでは?」という説も一部浮上している
武蔵坊弁慶(藤原泰衡軍)こちらも、直接の死亡シーンは描写されていない。
第21話藤原泰衡(河田次郎)
河田次郎斬首(源頼朝の命)
八重(八重姫)鶴丸救出後、川に流される
第22回後白河法皇(病死)
河津祐泰工藤祐経の襲撃史実では1176年の出来事であり第2話の時期に相当
第23回工藤祐経曽我五郎
曽我十郎(仁田忠常)
曽我五郎梶原景時による斬首宣告
第24回大姫病死
源範頼、農民夫婦善児第31話で、善児に殺害された農民夫婦が、トウの両親であったことが判明する
一条高能(1198年に病死)作中時系列では第24話終了後
第25回あき(稲毛女房)3年前に病死したことが語られた
第26回源頼朝落馬による衰弱死作中では後鳥羽上皇が「飲水の病(=糖尿病)ではないか」と推測している
第27回佐々木秀義戦死(史実では1184年)第一次三日平氏の乱。義村から「もう死にました」と言及された。実際に死亡したのは第17話あたり。なお、三日平氏の乱は『平清盛』最終回で伊藤忠清の後日談で触れられている
千葉常胤(1201年に病死)義村から「もうすぐ死にます」と言われたが、28話で再登場を果たす
第28回三幡病死
土肥実平(病死?)史料によって没年が錯綜しており、これより前の1191年に死去したとも、あるいは1220年までは存命であったとも伝わる
土御門通親(1202年に病死)作中時系列では第29話-第30話の間に薨去
岡崎義実(1202年に病死)第24話にて出家・引退済
第29回梶原景時梶原景季戦死
三浦義澄
安達盛長(病死)
第30回阿野全成処刑(八田知家)
平知康罷免→帰京(※第47話にて「押松」の名前で再登場)史実では比企の乱の直前に帰京したという記述を最後に史料から名前が消えている
第31回頼全(源仲章の沙汰)
比企能員仁田忠常
せつ(若狭局)トウ
道、比企宗朝、比企時員(北条軍)
第32回仁田忠常自害史実では北条軍により戦死
九条兼実(1207年に病死)作中時系列では第38話-第39話の間に薨去
一幡トウ
比奈(姫の前)自ら申し込んでの離縁。離縁より4年後に死去
第33回源頼家善児トウ善児については、前回でこれでもかとフラグが立っていたため、今回のサブタイトルを「終 善児」と裏読みする人が多かった
第34回北条政範平賀朝雅による毒殺史実では病死
第35回なし珍しく誰も死んでいない
第36回畠山重保戦死(和田義盛、三浦義村・胤義)
畠山重忠(愛甲季隆)
稲毛重成処刑(三浦義村・胤義)
足立遠元自身の所領に戻る史実では1207年3月3日を最後に資料から名前が消える
第37話ちえ鎌倉を去る珍しく誰も死んでいない(物語から退場はしたが)
第38話平賀朝雅誅殺(義時の命)
第39回なし珍しく...と思いきや心が死んでそうなのが約1名
第40回和田胤長の娘(荒鵑)病死
第41回和田義盛、朝比奈義秀、和田義直、和田義重戦死(和田合戦)義秀は生存説もある
巴御前戦場から離脱
和田胤長(和田合戦後、義時の命で処刑)作中時系列では第41話終了後
第42回北条時政病死史実では1215年に没しており、本作ではそれより3年後の死である
八田知家隠居
丹後局(1216年に病死)作中時系列では第42話終了後
第43回なし珍しく誰も死んでいない
第44回なし鶴岡八幡宮に雪が降りはじめる
第45回源仲章源実朝公暁
公暁三浦義村
第46回阿野時元挙兵目前に義時の差し向けた兵に囲まれ自害
第47回源頼茂、伊賀光季朝廷軍
最終回北条義時ある意味で義時の半身とも言える人なお、この回で実質義時にとどめを刺したような形になるのはあの人だが、その前にのえがこの人に協力してもらって得た毒を義時に盛っている

じゃあ、逆に作中で死ななかったのは?編集

死亡時系列が48話中(1221〜1224年)かそれ以降の人物を千世(西八条禅尼)が没した1274年まで没年順に記す(※但し、本編の未来に登場する徳川家康や本編で死亡した北条義時は除く)。尚、死因の項目における()内は推定あるいは殺害犯(指示犯・共犯含む)、明記しない場合は原則病死か老衰。

なお、駒若丸以降、義時の玄孫・北条時輔(時宗の兄)など(史実では)千世存命中に亡くなっている『北条時宗』に登場する一部の人物も加えている。その間でも宮騒動・宝治合戦・二月騒動と地獄ぶりは健在で『鎌倉殿』に登場する人物の二世や三世たちが関与する。

年数死亡者死因及び殺害などの犯人備考
1221年藤原秀康斬首承久の乱
三浦胤義自害承久の乱。享年36
三善康信時期としては承久の乱直後。ドラマ本編では康信の死の描写はなく、老骨に鞭打って政務の場に現れるシーンが最後の登場となっている
1224年運慶
のえ(伊賀の方)伊賀氏の変直後に危篤になったとされている
1225年慈円
大江広元彼の死をもって、13人の宿老が全員表舞台から去る
山内首藤経俊釈放後、鎌倉御家人になり梶原景時糾弾の連判状に署名。史実では89歳という中世日本では異例の長寿で天寿を全うした。ドラマでは第10回で退場
北条政子最終回での言葉通りとなる
1227年実衣(阿波局)
1228年りく(牧の方)第38話で一度退場したが最終話にて再登場。1228年に四十九日法要が行われた記録がある
1229年藤原兼子
1238年小山朝政史実では84歳と長寿だった
1239年後鳥羽上皇最後まで京に戻ることは無かった
三浦義村1168年生年説を取れば享年は72
1240年北条時房
1241年長沼宗政兄と弟には及ばないが79歳と長寿だった
1242年北条泰時
1245年北条朝時翌年の宮騒動で長男・光時は流罪、四男・時幸は自害
1247年駒若丸(三浦光村)、三浦泰村毛利季光自害(北条時頼、安達景盛・義景・泰盛)宝治合戦。泰村は義村の次男、季光は大江広元の四男。こちらは『時宗』第1回で描かれている。
1248年安達景盛
1253年安達義景景盛の嫡子、泰盛の父。
1254年結城朝光兄二人をさらに超える長寿で87歳まで生きた
1256年(矢部禅尼)史実では泰時とは離縁している
三寅(九条頼経)宮騒動後、将軍職を追われ京に追放されていた
九条頼嗣頼経の子。最後の摂家将軍。彼もこの時点で父同様、将軍職を追われ京に追放されていた
1259年藤原国通きくの再婚相手
1261年北条重時
1263年北条時頼義時の曾孫
1264年北条長時重時の次男(嫡子)、義宗の父で赤橋流の祖
1270年北条時茂重時の三男、常葉流の祖
1272年北条時輔誅殺(北条時宗の命を受けた北条義宗)二月騒動。義時の玄孫、時頼の庶長子
北条時章、北条教時誅殺(時宗配下の被官)二月騒動。朝時の次男と五男
1273年北条政村69歳まで生きたが執権経験者の中では時政に次いで長寿…というより4代経時以降で享年50歳以上が政村に11代大仏宗宣と15代金沢貞顕だけと執権経験者の多くが短命と言えなくもないが
1274年宗尊親王初代皇族将軍。当時は将軍職を解任されていた。泰時が逝去した年に生まれ千世が逝去する前に亡くなっている。
千世(西八条禅尼)第45回で退場(帰京)。史実では第一次元寇(文永の役)が発生する1ヶ月前まで生き82歳の長寿を全うした。ちなみにこの10年後に北条時宗が逝去する
没年不明平盛綱1250年頃までには逝去していたとされる
巴御前91歳まで生存。兄・今井兼平(1184年討死、享年33)に義仲(1184年討死、享年31)や義盛(1213年討死、享年67)の享年などを考慮すると、執権が経時か時頼の時代まで生存していた可能性が高い。本編では41話で物語からは退場している
文覚第27回で三左衛門事件に連座し佐渡に配流。史実ではその後、1203年に再流刑先の対馬へ移送中に九州で客死したとされているが、生没年を不明としている書籍もあり、詳細は不明。最終話にて意外な形で再登場し、隠岐で後鳥羽法皇と再会し頭をカジカジした
二階堂行政実朝が将軍に就任してからは隠居しているが、承久の乱以降の消息が一切不明
つつじ(辻殿)
きく1228年以降
トウ架空のキャラクター

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鎌倉殿の13人

ハバネロ大河

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