和田義盛
わだよしもり
父・義宗は祖父・義明の嫡子だったが早世してしまう。義盛は嫡孫だったものの幼少だったため後継者の座を叔父・義澄に譲り成人してからは和田を称した。
治承4年(1180年)、平家打倒の兵を挙げた源頼朝に呼応し三浦党も挙兵、しかし、「石橋山の戦い」で頼朝軍が敗れたことを知った三浦一族は一旦引き返そうとしたが、鎌倉由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇、合戦が始まってしまった。
合戦で疲弊した三浦軍は本拠・衣笠城に籠ったが平家方数千に攻められて落城。義盛らは義明に促され城から脱出するが義明は討ち死にした。
海上で北条時政と合流した三浦一族は再起を目指す頼朝とも安房で合流、地域の有力者である千葉常胤・上総広常も頼朝方に加わり、平家側についていた畠山重忠や河越重頼ら秩父平氏も頼朝側に加わった。このとき、義盛は頼朝に対して「勝利の暁には侍所の別当に任じてほしい」と直訴し、聞き入れられている
勢いを盛り返した頼朝は常陸の佐竹義政を討ったのち鎌倉に凱旋、大倉に御所を構えて本拠に定め、約束通り義盛を侍所別当に任じた。
元暦元年(1184年)8月、頼朝の弟・源範頼が1000余騎を率いて平家追討に出陣すると義盛も軍奉行として参陣、当初は兵糧と船の調達に苦労し義盛自身も関東へ帰ろうとしていたらしい。しかし、翌元暦2年(1185年)1月には北条義時・足利義兼らと豊後国へと渡り、平家軍を破る。のち源義経の軍が熊野・伊予水軍などと共に合流。同年3月25日、壇ノ浦の戦いで平家は滅亡。
平家滅亡に功があった頼朝の弟・義経が頼朝と対立し、奥州藤原氏に身を寄せる。
文治5年(1189年)6月、藤原秀衡の後を継いだ泰衡が義経を討ち、その首が鎌倉に届けられた。このとき首実検を義盛と梶原景時が担当した。義経征伐を口実に頼朝は奥州攻めを決定、奥州藤原氏を滅亡させる。
建久元年(1190年)9月、頼朝の上洛に際して先陣を任され、左衛門尉に任じられる。
建久3年(1192年)、侍所別当職を梶原景時と交代。しかし、景時が代理という事前の約束を反故にして別当職に居座り続けたため、義盛は恨みを募らせることとなった。
建久8年(1198年)暮、頼朝が急な病で倒れ、正月を過ぎた建久9年(1199年)に死去、源頼家を支える「十三人の評定衆」の一人に選ばれる。
建久9年(1199年)10月、梶原景時が結城朝光を告発する事件が起き、これに不満をもった御家人66人が景時に対する告発状を大江広元に提出。侍所別当の件もあり景時を恨んでいた義盛が中心となった。結果、景時は失脚。正治2年(1200年)、上洛途中に一族郎党とともに討たれる結果となる。この後、義盛は侍所別当に復職する。
建仁3年(1203年)9月、頼家が危篤になり、頼家の子・一幡を推す比企一族と、頼朝の次男・千幡(後の3代将軍・源実朝)を推す北条氏の間で争いが起き、北条時政は比企能員を謀殺し残る一族も攻め滅ぼしている。
このとき、義盛は北条氏とともに比企一族を攻め滅ぼす戦いに参加するが、直後、奇跡的に目覚めた頼家から時政の首を取るよう命じられ、時政にこのことを報告している。
千幡が後継者になることを朝廷に報告した幕府は、これらのこともあわせて頼家を伊豆・修善寺に追放、翌元久元年(1204年)、時政にはなった刺客に襲われ暗殺されてしまった。
元久2年(1205年)、畠山重忠が謀反の疑いで討たれるが、重忠が率いる兵は少数であり、武装もしていなかったため無実であり、北条時政の謀略であったことが発覚する。
直後に時政は3代将軍・源実朝を廃して娘婿の平賀朝雅を後継にしようとする企てが発覚するが、実朝の母・政子と叔父・北条義時の反対にあい失敗、時政は失脚後出家、伊豆に追放されることとなった。
建暦3年(1213年)2月、一族のなかで頼家の子を擁立して北条氏を討つ計画が発覚、多くのものが許されるなか、首謀者である甥・和田胤長だけは許されることはなかった。
胤長の旧邸は執権・北条義時により乱の鎮圧に功のあった別の御家人に下げ渡され、これに怒った和田一族はついに挙兵し「和田合戦」が発生する。義澄の嫡子で従弟の三浦義村に裏切られてしまったが、義盛に常盛・朝比奈義秀・義直らの息子たちや義盛に味方した愛甲季隆らの奮戦もあり激闘になる。しかし、最も可愛がっていた四男の義直が討たれたことを知り号泣。義直の後を追うように討たれた。享年67歳。
和田家は長男・常盛の嫡子で孫の朝盛や曾孫の家盛などは生き残ったが、承久の乱で朝盛は三浦胤義や大内惟信(平賀朝雅の甥)らと共に後鳥羽上皇方に付き家盛とは敵味方になる。朝盛は敗北後逃亡したが捕縛され、家盛は北条時氏に従い活躍した。
三男・朝比奈義秀は巴御前との子供ともされているが、年代が合わないうえ、そもそも巴御前が架空の人物である可能性があるため半分創作の類であるとされる。しかし、地元の人々にとっては心の支えである。
子孫は尾張佐久間氏となり、戦国時代に佐久間信盛や佐久間盛政・安政・柴田勝政・勝之の四兄弟を輩出する。江戸時代において大名になった安政や勝之の子孫は改易されたが信盛や勝政の系統は旗本として幕末まで続いた。佐久間象山は一説に安政の子孫とも言われている。
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