「帰ろう、帰ればまた来られるから」とは、日本海軍の軍人木村昌福(きむら まさとみ)司令官の発言である。
前年にミッドウェー海戦の陽動として日本が占領していたアリューシャン列島だったが、アメリカ軍の空襲により島の日本軍と補給部隊は損害を受け、アリューシャン列島は孤立化していた。そして1943年5月、アメリカ軍が奪還を目指して攻撃をかけてきた。 ここで日本軍は一つの判断ミスを犯す。アメリカは本土に近い順に攻撃をかけてくると思い、より本土に近いキスカ島に兵力6000人余りを集めたが、アメリカは日本とアリューシャンの連絡口となるアッツ島に先に猛攻撃をかけ、2500人余りしかいなかった兵力は5月30日に玉砕、アッツ島はアメリカ軍に占領され、キスカ島は完全に孤立無援となってしまった。
一方、大本営は5月20日、アリューシャン列島の放棄を決定。海軍にキスカ島守備隊の撤退(というか救出)が依頼された(ちなみに、守備隊はほとんどが陸軍である)。
作戦名は「ケ号作戦」と名付けられた。(ケとは乾坤一擲を意味している。)
最初は潜水艦による救出作戦が行われるが失敗、おまけに貴重な伊号潜水艦を3隻も失う羽目になった。
これにより海軍は作戦変更。高速の水雷戦隊で隙を突いて一気に接近、守備隊を収容して脱出するという作戦に切り替えられる。
その指揮官となったのが、第一水雷戦隊(一水戦)の司令官に着任したばかりの木村少将だった。
まず木村は、敵がすでにキスカ島を包囲しており、さらに近くに敵の飛行場があるため、すぐに敵の攻撃機が飛んでくる間合いにあることを知り、この地域特有の濃霧に紛れて素早く決行するしかないと決める。更に、作戦完遂には、最新鋭の電探(要はレーダー)を持つ船が必要だと上申し、最新鋭の高速駆逐艦「島風」を配備してもらった。また、霧の中でアメリカの艦と誤認させることを狙って、一水戦旗艦の軽巡「阿武隈」の煙突1本を塗りつぶしたり、駆逐艦「響」には偽装の煙突を付けたりと工作もして、作戦に取り掛かった。
しかし、作戦決行日の7月12日になって、運悪く霧が晴れてしまう。その後、海上で作戦決行日を3日過ぎるまで粘ったが、とうとう霧は出ず、最終的に木村は、一旦帰投を決断する。
このときに彼が、目の前にあるキスカ島へ突入を主張する部下に向かって告げたのが、この言葉だった。
「帰ろう。帰れば、また来られるからな」
こうして作戦の本拠地だった幌筵島(パラムシル島。千島列島の一つで、当時海軍基地があった)に戻った木村は、直属の上官や参謀のみならず、連合艦隊司令部や大本営からも激しい批難を浴びた。だが彼は一見飄々とそれを受け流しつつ、じっと機をうかがっていた。
(なお、この批難も云われのないものばかりではなく、1か月以内には確実に作戦の前提条件になる濃霧が晴れてしまいアメリカ軍が総攻撃をかけてくるであろうこと、さらに基地の重油も残り少なくあと一度しかやり直せない、という状況だったことも考慮すべきである)
そして、1週間後、再び濃霧発生の予報を受けて、木村は再度出撃する。ただ、このとき上司にあたる第5艦隊司令部も軽巡「多摩」で督戦のため(要するに「てめえ逃げるなよ、見張ってるからな」)付いてきた。余談だが、本当は司令部は重巡「那智」で来るつもりだったが、燃料不足のために「那智」が動かせず、「多摩」になったというオチがある。
7月29日。先行して天候の情報収集をしていた潜水艦からの連絡を受け、木村は「多摩」の司令部に電文を送る。
「本日ノ天佑我ニアリト信ズ適宜反転サレタシ」(今日の運勢はラッキーのようだ。後は任せて適当にお帰りください)
濃霧の中、部隊はキスカ島に一気に接近。途中で旗艦の軽巡「阿武隈」と駆逐艦「島風」が敵艦を発見して魚雷を打ったが、実はそれは島だった、というくらいに霧は深かった。
しかし、その霧が、部隊が島にたどり着いた一瞬だけなぜかきれいに晴れる。
この機を逃さず、島に残っていた守備隊5200名をわずか55分のピストン輸送で収容し、部隊はそのまま島から全力で離脱。再び立ち込めた深い霧に助けられ、全艦欠けることなく脱出に成功した。
ちなみに、日本軍は知る由もなく、戦後に明らかになったことだったが、アメリカ軍はこの前日、濃霧の中でレーダーで艦影を発見して猛砲撃を加えた(砲弾600発以上を発射した)。そして、「これでジャッ○は全滅だぜHAHAHA」と部隊を一度撤退させて補給を行い、2日後再び海域の封鎖を再開した。つまり、その日だけぽっかりと、アメリカ軍がいない状況だったのだ。当然ながら、前日「猛攻撃」を受けた日本の艦は実在しない(この誤認はレーダーの不具合によるものと考えられている)。
こうして、守備隊全員を無傷で収容し、天候調査のために先行していた潜水艦も含め参加した全艦船が無事に帰投と、「キスカ島撤退作戦」は、戦史上まれにみる大成功をおさめ、「奇跡の作戦」と謳われるとともに、木村司令官も、その慎重な判断が成功を招いたとして一転して高く評価されることとなる。
この撤退の二週間後、米軍は艦船100隻、兵員34000名を投入して、置き去りにされた犬3匹と「ペスト患者施設」のニセ看板が置かれた無人のキスカ島を占領することとなる。(米戦史家モリソン曰く『最も実戦的な上陸演習』と皮肉られた。)
東宝、円谷特撮が手がけた1965年公開の三船敏郎主演の邦画。完成度の高い霧中の艦隊行動の特撮映像は、記録映像を流用してるのではないかと言われたほどの評価をうけた。一見の価値有り。
ブラウザゲーム「艦隊これくしょん ~艦これ~」(2013)が流行すると、プレイヤーはモチーフとなった幾つかの太平洋戦争史に改めて興味を持った。その内の一つが「帰ろう、帰ればまた来られるから」であった。
戦闘で残存体力ゼロとなると永久に失われるユニット(艦娘)を守るためには、作戦を強行してはならない。という戦術シミュレーションのセオリーをも言い表した懐の深いこの言葉と、キスカ島の奇跡の作戦は、艦娘達を失いたくない「提督」達の愛の戒めと共に、また広範に知られる事となったのだった。
また、ゲーム中には「キス島撤退作戦」というステージが存在し、キスカ島撤退作戦がモチーフとなっているとされている。駆逐艦のみで編成された艦隊でないと攻略不可能である等、難所として認知されている。2015年7月のメンテ以降は、駆逐艦隊に軽巡洋艦が1隻のみ編入できるようになったがそれでも難しい。
掲示板
291 ななしのよっしん
2024/03/29(金) 10:36:11 ID: hZ0O5jsKkF
「帰ろう、帰ればまた来られるから」
ゆうしゃは リレミトを となえた。
292 ななしのよっしん
2024/03/29(金) 11:11:22 ID: 5bTUPv3GMg
>>285
レイテには、かち込むべきだったよね。
かち込んでも意味がなかったのが判明したのは、実は割と最近の事で、当時の米兵も「突入されていたら、上陸部隊は壊滅状態になっていた」と証言しているのよね。
293 ななしのよっしん
2024/03/29(金) 20:46:47 ID: VFvswMPLPc
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最終更新:2025/01/11(土) 20:00
最終更新:2025/01/11(土) 19:00
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