須田寛とは、JR東海の初代社長兼鉄道ファンである。退任後はJR東海の会長・相談役・顧問・参与を務めていた。2024年12月13日に老衰のため逝去(享年93歳)。
1931年京都府出身で、1954年に京都大学を卒業し日本国有鉄道に入社。研修後の初任地は静岡鉄道管理局(現在のJR東海静岡支社)で、後に名古屋鉄道管理局、本社旅客局などを歴任。旅客局長を経て1984年に国鉄常務理事となった。
鉄道の営業制度に精通しており、聞けばだいたいの答えが返ってくるうえに鉄道雑誌にも実名で回答を寄せるなどしていた。また、在来線の優先席を設定する際に区別するために別のものを使用するよう指示した結果既存の新幹線用モケットを使うこととなり、その色から結果としてシルバーシートの生みの親となった(この件はのちに「チコちゃんに叱られる」でもJR東海の東京本社にやってきた取材陣に直接語っている)。
また、80年代に入ると回送列車を利用したホームライナーや、増収策の一貫としてフルムーン夫婦グリーンパスや青春18きっぷを世に送り出している(ただし、青春18きっぷの商標はJR東海ではなくJR東日本が持っている)。
一方、常務理事時代には国鉄の全国一体での民営化案の策定にも関わっている。当初は分割案には反対であったため1987年の分割民営化にあわせて辞職するつもりでいたが、JR東海の初代社長就任要請があったため、それまでの経緯から驚きつつ受諾。結果、本州3社で唯一国鉄出身者が初代社長に就任することとなった。
※もっとも、政治家サイドではJR各社の初代社長に国鉄出身者を就けないという流れでもあったため、経緯を抜きにしても驚くのには無理のないことであった。
民営化後JR東海の初代社長に就任すると、星野仙一の監督就任で盛り上がっていた中日ドラゴンズのホームであった当時のナゴヤ球場へのアクセスのためにナゴヤ球場正門前駅をJR貨物の名古屋港線に臨時駅として設置するために陣頭指揮を取った。また、貴重な車両の保存を行うために佐久間レールパーク(→リニア・鉄道館)を構想・開設するなどしている。
また、JR東海の減価償却費が不足する問題を解決するために新幹線鉄道保有機構の解体と東海道新幹線設備買取を総合企画本部長(当時)の葛西敬之と共に実行した。解体に前後して行われたリース料改訂の際には「事前の想定から大きなズレがなければその場で決めていい」と打ち合わせのうえ葛西に一任している。
1995年に社長を退任し会長に就任(後任は葛西敬之)。2004年に会長を退任して相談役に就任し、2021年に非常勤の顧問となった。また、2007年から2022年までは鉄道友の会の会長も務めていた。
なお、営業制度以外にも車体色の見分けにも精通している。東海道新幹線(とリニア中央新幹線)の車体色といえば「白地に青帯」だが、JR東海の開発陣が整備技術の進歩もあり「少し色変えてもわからんだろう」とちょっと明るめにしたところ、車両をみた須田に「色変えたでしょ」と即座に見破られた。
これが影響しているのかは不明だが、N700SやL0系に至るまで形式エンブレム以外は輝度の差はあれどJR東海の営業用新幹線車両で「白地に青帯」以外の採用はなく、結果的に「白地に青帯の車両に乗れば東京から京都・大阪に、大阪・京都から東京に行ける」というイメージが出来上がっている。
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最終更新:2025/06/10(火) 18:00
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