近衛前久(1536~1612)とは、16世紀から17世紀初頭に活躍した公家である。
五摂家のひとつである、近衛家の16代当主。父は近衛稙家で母は久我通言の養女・源慶子。
いわゆる諸国を流浪した関白として有名な人物で、ライバルの九条稙通と大体同じような生涯を送った後、豊臣秀吉を朝廷に引き入れた。
藤原忠通の長男・近衛基実に始まる摂家の中ではもっとも長子の家系・近衛流。ところが平清盛に接近しながらも近衛基実があっけなく亡くなった結果、遺児の近衛基通は叔父・松殿基房と対立する。結局母・平盛子を間に挟むことでいったんは収まったが、この平盛子も亡くなると松殿基房の君臨、それに対する平清盛の逆襲といった応酬が繰り広げられ、最終的にふんわり平家と接近したまま治承・寿永の乱を終えてしまう。
源義仲と接近してしまった松殿家が没落した一方、摂関の御鉢はその弟・九条兼実が源頼朝と結びつくことで手に入れてしまう。ところが、源頼朝が九条兼実に代わり源通親をビジネスパートナーとした建久七年の政変で、ふんわり近衛基通が復権する。さらに承久の乱の後に近衛家実が失点を重ね、九条道家が一時期復活したことで、ふんわり近衛流と九条流が相争ったまま摂家は五家が担っていったのである。
以後南北朝時代には近衛家平・近衛経平の二家が両朝で相争っていき、最終的に北朝に着いた近衛経平の家が近衛家となっていった。その子孫・近衛政家は応仁の乱で近衛殿を失い、宇治を仮住まいとし、最終的に残っていた御霊殿を屋敷とする。以後、近衛政家・近衛尚通・近衛稙家と代々将軍からの偏諱を得た一方で、足利義晴の妻・慶寿院は近衛稙家の妹・足利義輝の正室も近衛稙家の娘である。
この結果生じたのが、いわゆる「足利-近衛体制」である。近衛一門が足利将軍家の側近と化し、足利義輝期に実態があったのかどうかはともかく、少なくとも足利義晴期には足利将軍家・近衛家の両輪がそろって中央は機能していた。この「足利-近衛体制」で近衛稙家とともに要になったのが、近衛晴嗣、つまり近衛前久で、近衛稙家弟の久我晴通、大覚寺義俊、聖護院道増、縁戚の徳大寺家出身の梅仙軒霊超、女性である慶寿院、足利義輝正室といった人々が、外戚として足利将軍家を支えていったのである。
ただし、近衛稙家の弟で一乗院覚誉だけ動向がわからないが、一乗院覚慶、つまり足利義昭が近衛稙家の猶子となって一乗院門跡となったのは、何かつながりがあったともいえる。
この一方で足利義維ら反幕府勢力に接近したのが九条稙通であった。結果、幕府と歩調を合わせる近衛流と、その下で雌伏の時を過ごす九条流に状況が変じたのである。
天文5年(1536年)に近衛稙家が二条尹房に変わって関白になった一方で、近衛晴嗣は天文9年(1540年)に正五位下に直叙され、翌年には従三位に任じられた。しかし、天文10年(1541年)に近衛稙家が関白から降りた際、一条房通と鷹司忠冬が関白をめぐって争い、九条流対近衛流の対立が引き続き持ち込まれていたようである。
その後天文15年(1546年)に足利義輝が将軍となると、近衛家は引き続き将軍家に仕えた。さらにこの時期に近衛晴嗣は禁裏の猶子となっており、公家の中でも別格の地位となったのである。そして右大臣を経て天文23年(1554年)に19歳で関白となった。
しかし、この一方で天文18年(1549年)の江口の戦いでの細川晴元の敗戦で、足利義晴は京都を追われた。これに近衛家も与同したようで、ともに近江国に在国したようである。一方で中央では九条稙通の復権が起こった。天文22年(1553年)の足利義輝の朽木在国でも、近衛稙家・近衛晴嗣父子もそろって在国したようである。
とはいえ、彼は天文24年(1555年)に足利義晴の偏諱を捨て、近衛前久に改名している。ここにあるように完全に武家と一体化したわけではないようだが、このことで何かあったわけではないようだ。
こうした度重なる将軍家の危機をみて、彼は長尾景虎と意気投合し、彼の力を借りて足利義輝を助けることを思いついたようだ。かくして永禄2年(1559年)には長尾景虎の上洛を促すため越後に下向しており、関東管領の軍勢を使って幕府復興を果たすべく、関東出兵中の長尾軍の最前線で情勢を景虎に伝える役目を担うこともあった。しかし、思うようにいかず永禄5年(1562年)に京都に戻った。
そして永禄8年(1565年)に永禄の変が起こると、近衛前久、および老齢で病気だった近衛稙家は全く動けず、結果的に足利義昭には全く味方できなかった。これは足利義昭方として積極的に行動した二条晴良や結果的に足利義昭陣営にいた九条稙通とは対照的であった。
この間、永禄9年(1566年)に近衛稙家が死んだ。加えて、足利義昭の上洛の折には三好三人衆が近衛前久を襲撃するという噂まで上がり、三好三人衆はこの打消しに奔走したようだ。ところが結局永禄11年(1568年)に上洛してきた足利義昭には足利義栄派だと扱われてしまい、近衛前久は出奔する。現職の関白がいなくなってしまったので、二条晴良が代わって繁栄を謳歌した。ちなみにこの頃家督を息子に譲っている。
近衛前久は息子とともに大坂・丹波を流浪していたが、二条晴良が彼らの上洛を抑えつけていた。結果、近衛前久は六角承禎・浅井長政・三好三人衆らと手を結んでいたことを島津貴久に伝えており、かつての九条稙通と同様、反幕府勢力の関白となろうとしたようだ。
ところが、足利義昭の追放と、信長包囲網の壊滅が進む。足利義昭が彼のいた反幕府勢力についたことがどのように作用したのかはよくわからないが、三好義継や荻野直正らのもとを移動していったようだ。そしてついに天正3年(1575年)に織田信長が正親町天皇に帰洛を奏請し、ようやく京都に戻って来た。織田信長としては彼に敵対する理由も特になく、織田信長と協力して薩摩に下向して島津氏との回路を整備するといったことをやってのけ、朝廷での地位を回復したようである。
なお、正親町天皇は蘭奢待を近衛前久、九条稙通のどちらにも与えているようだ。
近衛前久は本願寺教如を猶子としていた関係から、天正8年(1580年)の本願寺との講和で強いリーダーシップを発揮し、織田信長にも頼りにされていった。
ところが、天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、黒幕は近衛前久であるという噂が流れたため、剃髪し、徳川家康を頼って遠江へ下る。なお、息子・近衛信基は在京していた。立花京子がかつて朝廷黒幕説を唱えたことで、彼もサブカル本だと怪しい怪しい言われているが、大体論破されているので注意が必要である。
近衛前久の本能寺の変関与は置いておいても、彼を陥れた佞人にとってはうまい具合いき、それは九条流にとっても都合がよかった。かくして徳川家康の斡旋でようやく帰洛したが、羽柴秀吉と徳川家康が対立すると本能寺の変のトラウマもあってか羽柴秀吉に気を使って今度は奈良に逃れる。とはいえいわゆる佐久間道徳謀反事件の解決に近衛家は取り組み、これで羽柴秀吉から信頼を得たようだ。
こうして諸々を解消するとようやく京都に落ち着くことができ、以後は京都政界で重鎮として活動した。このように戦乱の世の中で諸国を流浪する日々を送ったが、公家としての教養は失わず、歌や書に優れた才を見せた。
やがてついに二条昭実と息子・近衛信輔が関白をめぐって争い、羽柴秀吉の公家社会介入を呼び込む関白相論が起こる。近衛前久は羽柴秀吉介入の張本人であったが、九条稙通のめんどくさい反論があってかはともかく、豊臣という新しい姓を創設しての関白・豊臣秀吉誕生であった。
豊臣秀吉は当初は近衛信輔に関白を譲るつもりだったはずが、候補が養子・誠仁親王六宮、実子・鶴松とどんどん摂家衆から離れていき、近衛信輔は他の摂家の人々に追い詰められていく。結果、近衛信輔は乱心し、内覧就任を要請すら断られた。
かくして朝鮮出兵に同道したいといった事件から息子・近衛信輔は薩摩に左遷される。これは関白を世襲にするために摂家への見せしめもあったともいわれているが、とはいえとして自らの素行に原因があったことは近衛前久も近衛信輔も自覚しており、近衛前久らは前田玄以に取り次いでもらい近衛信輔の赦免に動いている。結果として文禄5年(1596年)に近衛信輔は許された。
この間近衛信輔が近衛信尹に名を改める。さらに関ヶ原の戦いの後に徳川家康が公家社会の第一人者であった近衛信尹を屈服させた結果、征夷大将軍宣下を得る。近衛前久・近衛信尹はこれに対して相応の覚悟で臨んだが、実らなかったようだ。
かくして、大坂の陣すら起きる前に亡くなった。まさに朝幕の綱引きの過度期であった。
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4 ななしのよっしん
2020/05/09(土) 00:28:04 ID: N/vUWCrrVL
信長のシェフで出てきて初めて知ったけどこんな人いたんだなw
5 ななしのよっしん
2020/05/27(水) 13:54:09 ID: N96g1j2Dii
上杉謙信のこと調べてて遭遇し、
そういえば信長のシェフにも出てたなと思い出した
しかしこいつほんと何なんだ
6 ななしのよっしん
2022/11/11(金) 07:47:44 ID: IT5HX02Nuz
この時代のお公家さんもくっそアグレッシブだからなw
資金を回すためにもいろんなところに顔出していくスタイル
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/23(月) 20:00
最終更新:2024/12/23(月) 20:00
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