村上雅則(1944年5月6日~)とは、南海ホークス、阪神タイガース、日本ハムファイターズに所属していた元プロ野球選手であり、日本人初のメジャーリーガーとしてサンフランシスコ・ジャイアンツに所属した経験を持つ。
OB | |
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村上雅則 | |
基本情報 | |
出身地 | 山梨県北都留郡七保町 |
生年月日 | 1944年5月6日 |
身長 体重 |
183cm 72kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1962年 |
引退 | 1982年 |
経歴 | |
選手歴
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プロ野球選手テンプレート |
高校時代は先輩投手であった柴田勲に影に隠れており、甲子園でも春に1度登板した程度でプロからはほとんど注目されていなかったが、唯一南海ホークスの監督であった鶴岡一人が興味を示し、1962年に南海に入団する。
63年はコーチからフォーム修正を命じられたことで肘を故障してしまい、一軍登板はわずか3試合であった。
そんな中64年、鶴岡監督は若手に経験を積ませるため、メジャーのサンフランシスコ・ジャイアンツのスプリングキャンプに村上雅則、高橋博、田中達彦の3名を送り込む。この時点で3人には「3か月で帰国」と伝えられていた。
キャンプ地において村上は他の二人と共にA級に所属し、紅白戦やオープン戦で好投、シーズンが始まると他の二人がルーキー・リーグに落とされる中、一人A級のフレズノ・ジャイアンツでプレーを続け、南海への帰国期限が過ぎても南海からは帰国要請が来なかった為、リリーフとして49試合に登板し、11勝7敗、防御率1.78という成績を残す。
A級の試合スケジュールは8月31日を持って全て終了するのだが、そんな時村上に「至急、メジャーに合流してくれ」という連絡が入る。実はジャイアンツの監督であるアルビン・ダークから「優秀な左投手はいないか?」との連絡が入っており、村上が推薦されたのである。なんと村上は前代未聞の2A、3Aをすっ飛ばしメジャーリーグに昇格&日本人初のメジャーリーガーになるという偉業を成し遂げる。
村上は31日深夜にジャイアンツの遠征先であるニューヨークに到着すると、9月1日にシェイ・スタジアムに移動、記者に対し「夢のようだ」と語った。
初登板となったニューヨーク・メッツ戦では8回3点リードという場面で登板し、1回を1安打2三振で無失点に抑えている。また9月29日のコルト45´s戦(現・アストロズ)では9回同点の場面から11回までを無失点に抑え、メジャー初勝利を達成、この年は9試合に登板し、1勝1セーブ、防御率1.80という成績を残す。
しかしこの年のオフ、村上がここまで活躍するとは全く予想していなかった南海側は村上を日本に連れ帰ろうとするが、メジャー側と結んだ契約の中に「キャンプ参加選手の中に獲得したい選手がいた場合、1万ドルを支払えば契約することが出来る」という内容が記載されていたためすでに1万ドルを支払っていたメジャー側と二重契約問題に発展、一時は鶴岡監督自らが交渉に赴くが中々両者は合意に至らず、最終的に日米のコミッショナーが話し合いになるまでに事が大きくなってしまった。
結局「65年はジャイアンツでプレー、66年からは南海に戻る」という条件で両者が合意したため、村上は65年も引き続きジャイアンツに所属し、45試合に登板し74と1/3回を投げ、4勝1敗8セーブ、防御率3.75という成績を残す。また、6月29日にはMLBで初安打を記録し(後述)、8月15日の終戦記念日には「村上デー」として唯一先発マウンドに立っている。
66年からは南海に復帰し、68年には18勝を挙げる活躍を見せ、70年~72年には3年連続で二桁勝利を挙げている。
74年オフにトレードで阪神タイガースへ移籍するもわずか一年で再び放出されるが、トレード先の日ハムで復調し、移籍二年目の77年と翌78年にはリーグ最多登板を記録し、78年には12勝をあげる活躍を見せた。
82年にはひじ痛のため2試合しか登板出来ず、球団から非公式に構想外である旨を伝えられたため、引退を決意する。しかし、二軍には他に投手コーチが居ないのに自分につく肩書きが2軍投手コーチ補佐であることに反発し、そのまま自由契約となってしまった(当時の日ハムはコーチ一年目は補佐という肩書きをつける決まりがあった)。
翌年、かつて所属したサンフランシスコ・ジャイアンツのオフィスをアポなしで訪ね、キャンプに参加出来ることになった。結局契約は叶わなかったが、ジャイアンツで一年間打撃投手を務め、球団への義理を果たした。
帰国後ニッポン放送で三年間解説者を務めた後、87年にようやく日本ハムファイターズの二軍投手コーチに就任した。
その後は指導者や解説者、サンフランシスコ・ジャイアンツ極東担当スカウトとして活躍し、現在はNHKのメジャーリーグの解説などを務めている。
メジャーでは「マッシー」というあだ名で呼ばれ親しまれており、選手としてもハンク・アーロン(2打数、無安打、1三振2四球)やピート・ローズ(4打数、2安打、2本塁打、1三振)と言った今ではレジェンドとして扱われている選手たちとも対戦成績がある。
またMLBでの日本人初安打をサンディ・コーファックスから記録しているが、コーファックスは村上がMLB在籍時絶頂期で、「彼からヒットを打つのはフォークでコーヒーを飲むぐらい難しい」と言われたほどだった。しかし村上はコーファックスに意表をついたセーフティ・バントを決行し安打を記録した。村上は”僕は投手で打撃では自慢できることはないが、唯一の勲章がコーファックスからヒットを打ったただ一人の日本人だということだ。”と言っている。
本人もメジャーには未練があったようで、「本当は日本に戻らずにずっとメジャーでやっていたかった」とのちに語っている。
なお村上に次ぐ日本人メジャーリーガーは95年の野茂英雄が登場するまで30年間現れなかったため、それまでは村上はただ一人のメジャーリーガーだった。最近は野茂が一番最初だと勘違いしている人も増えたのが非常に悲しい。
選手としては左腕から繰り出されるキレのあるストレート、カーブ、シンカーを武器にし、メジャーでは投球回以上の三振を奪っている。
通算:20年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 防御率 |
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NPB(18年) | 566 | 41 | 5 | 103 | 82 | 30 | 0 | .557 | 1642.1 | 452 | 758 | 3.64 |
MLB(2年) | 54 | 0 | 0 | 5 | 1 | 9 | 0 | .833 | 89.1 | 23 | 100 | 3.43 |
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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