日比谷焼打事件(ひびややきうちじけん)とは、日露戦争の講和条約として結ばれたポーツマス条約の内容に怒りを覚えた民衆による暴動事件である。
日露戦争において、日本はロシアに勝った。多くの戦死者を出しつつも、大国ロシアを相手にアメリカを仲介としてポーツマス条約を結び、判定勝ちの結果を得ることに成功した。
しかし、講和条約の内容にはロシア側の賠償金がなく、新たに得た領土も樺太の半分[1]、その他として遼東半島の租借権の日本への移譲や満州におけるロシアの権益の引き渡し、朝鮮半島における日本側の指導権の優位を認めさせた程度の結果になった。
これら講和会議の内容、および日本の財政事情・軍事事情などは隠蔽されていたため、国民には多額の賠償金や新たな領土の獲得の論説が流布しており、それを覆すポーツマス条約の内容を聞いた国民は満洲の地で散った親や子に親戚そして友人などが報われない、また増税に耐えてきたのにこの結果は何だと怒り、さらに朝日新聞などはセンセーショナルに国民感情を煽っていった。
そして、日比谷公園に条約破棄を訴える国民が集まり対ロシア強硬派の団体とともに、暴動が発生したのである。
明治38年(1905)9月5日、日比谷公園で開催が予定されていたポーツマス条約調印反対の集会には数万人の参加者が集結していた。集会は警察によって日比谷公園が封鎖されたことで中止されたが、それをきっかけとして都市のあちこちで騒乱が起こった。暴動は7日まで断続的に継続した。
暴動は警察署や政府寄りと目された新聞社などを襲い、官舎や外務省、果ては直接の関係はないはずのキリスト教会や路面電車なども焼き討ちの対象となった。
政府は軍隊の出動を命じ、暴動の鎮圧をはかった。6日夜には戒厳令も出された。
この騒擾で死者は17名、2000人以上の検挙者を出した。
騒擾は警察・軍隊などによって鎮圧されたが、桂太郎内閣は総辞職に追い込まれ、西園寺公望が引継いで第一次西園寺内閣が成立した。
この民衆暴動はのちの大正デモクラシーに繋がる民衆のデモによる政治参加の先行例であるとも言われている。
また、騒擾はこの一件だけで終わる事は無く、日本各地で講和条約に反対する騒擾が多発した。
いいや、締結すべきであった。
当時の日本はすでに戦力は底をつき、補給も絶える寸前だった。戦費は外は外債に頼って、内には国民に増税を課して、国家予算数年分をすでに使いきり、満身創痍の状態だった。日本にはすでに戦えるだけの力は残されていなかったのである。
日本の窮状を知る者たちは、政治家たちだけでなく軍部までも、日本はこれ以上戦えないと冷静に判断していた。ポーツマス条約はその日本の窮状を救う、絶対に逃せないチャンスだったのである。
政府が隠し通したからである。
なぜなら、国民に日本の窮状を知らせてしまえば、ロシアにも知られてしまうからだ。それは政府として絶対に避けなくてはならないことだった。
そもそもロシア側にとって、海軍は壊滅しても陸軍はまだまだ健在であり、戦争を継続する考えもあったのである。ここで日本の窮状を知られてしまえば、一気に反攻に転じ、補給も予備兵力も途絶えた満州の日本軍が壊滅してしまう恐れもあった。
それを防ぐために、政府は連戦連勝の報道を行い、国民には窮状を隠し通さねばならなかったのである。
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最終更新:2024/12/23(月) 00:00
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