斉藤茂吉とは、大正、昭和初期を代表する歌人、精神科医である。
守谷伝右衛門熊次郎の三男。父方の祖父の金沢治右衛門は和歌を嗜んだ。
守谷家には、茂吉が小学校卒業後に進学するだけの経済面の余裕が無く、茂吉は、画家になるか寺に弟子入りしようかと考えたが、親戚で浅草の医師の斎藤紀一の家に養子に入ることとなった。だが、後に結婚した紀一の長女・輝子は派手好きな女性で、律儀な茂吉とは性格があわず、輝子の男性問題もあって、別居していたこともある。
守谷家は近所の時宗(のち浄土宗)宝泉寺の檀家であり、茂吉も住職佐原窿応の薫陶を受けた。第一歌集『赤光』の題名は「阿弥陀経」に因んでいる。また時宗大本山(のち浄土宗本山)蓮華寺49世貫主となった晩年の窿応を訪ねている。養子に入った斎藤家は、皮肉にも、蓮華寺の一向派を抑圧する側であった遊行派の檀林日輪寺の檀家であった。茂吉の分骨墓が宝泉寺境内に遺されている。
中学時代から短歌の創作を開始する。高校時代に正岡子規の歌集を読んでいたく感動、歌人を志し、左千夫に弟子入りした。
精神科医としても活躍し、ドイツ、オーストリア留学や青山脳病院院長の職に励む傍ら旺盛な創作活動を行った。また、柿本人麻呂、源実朝らの研究書や、『念珠集』などのすぐれた随筆も残した。太平洋戦争中は積極的に戦争協力していたために、戦後になってからは批判にさらされた。
生涯に全17冊の歌集を発表し、全17907首の歌を詠んだ。
茂吉の長男は医師・エッセイストの斎藤茂太(モタさん)、次男は「どくとるまんぼう」シリーズで知られる作家・医師の北杜夫(本名:斎藤宗吉)である。
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最終更新:2025/01/11(土) 06:00
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