「尼子晴久」(あまご・はるひさ 1514 ~ 1561) |
とは、謀聖の後継者・尼子晴久が「味方する国人や直臣や十勇士達を探し出して群雄になる事」を目的に受け継いだ尼子氏を中心に、勢力拡大の最中に起こる戦乱の日々を描いた武勇伝の主人公である。
ただの武将に興味ありません。
この中に臣従可な国人、ドM、十勇士がいたら、
わしのところに来なさい。以上。
※尼子家は味方を広く募集しています。
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HARUHISA | ■ | ■ | ■ | ■ | |||
ISM | ■ | ■ | ■ | ■ | |||
ハ ル ヒ さ 主 義 |
尼子家当主になって早々、ぶっ飛んだ自己紹介をかました当主・尼子晴久。
そんな軍記物じゃあるまいし・・・と誰でも思うのが自然の摂理。ところが彼はそうではなかった。
心の底から真剣だった・・・尼子晴久の真剣さに気づいたとき、すでに中国地方は、戦乱の地と化していたのだった!!
微妙に、尼子系覇王レジェンド、ここに参上!
※毛利プロ制作のライトノベルでは無能君主の鏡の様な人物とされているが、実際にはそこまで無能とはいえない再評価されるべき人物です。
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出雲を中心に一大勢力を築いた戦国大名・尼子経久の嫡男・尼子政久の子に生まれ、父・尼子政久が戦場で笛を吹いていたところを射殺された為、「謀聖」とまで言われた巨星・尼子経久より後継者に指名されて家督を継ぐ事になったが
といった祖父・尼子経久の「負の遺産」を前に当時は尼子詮久と名のっていた尼子晴久の憂鬱な日々が始まった。
尼子晴久(当時・尼子詮久)が家督を継ぐ事が決まった時の尼子氏は、出雲・隠岐・伯耆・備中・備後の大半を勢力範囲とし周辺諸国にも影響力を持つという強大な勢力だったが、家臣の独断で毛利元就と相合元綱との間での毛利家の家督相続争いへ介入したことから、家督を相続した毛利元就が尼子氏を離れて大内氏に付いてしまったり、謀反を起こしていた叔父・塩治興久を粛清しなければならなかったり、そのせいで叔父に味方した備後の国人衆を討伐したりと息つく暇なく悩まされ、北九州の大友氏に苦戦していた大内氏と和睦した際にホッと尼子晴久は溜息をついたのだった。
尼子経久が隠居して尼子晴久が正式に尼子家の当主となると、すでに攻略していた美作や備前の他に、播磨に侵攻して赤松晴政を破って勢力を拡大し、大内氏側だった石見銀山を手に入れて大内氏を牽制し、残る備後半国の国人達を従属させ、安芸でも影響力を強める等、嘆いてばかりはいられないとばかりな積極的な勢力拡大に成功し、あまりに着実にいきすぎて尼子晴久はちょっと退屈したかもしれない。
周防・長門の大内氏への牽制の意味もこめて、大友義鑑が画策した足利義晴入洛に協力し、従属を拒んだ播磨の星井家別所就治の美希三木城を攻略して赤松晴政の側から味方に引き入れ、京都までの道をつくった尼子晴久は足利義晴を奉じて上洛し畿内へ進出せんとする構えを見せるが、大内義隆と大友義鑑が和睦した事や大内氏の手により佐東銀山城を落とされた事から出雲へと帰還した。京の人々は尼子晴久の消失と噂したとかしないとか。
畿内進出の為に後顧の憂いを断つ為とも、大内義隆と大友義鑑が和睦した為に安芸の尼子方の城が大内氏の攻撃をうけた為に遠征とも言われるが、尼子晴久は毛利元就討伐計画を発動した。
しかしこの計画は、祖父・尼子経久からも尼子氏の良心・尼子久幸からも反対されたが、すでに周辺の有力国人の協力も取り付けていた尼子晴久は中止するわけにもいかず、計画通り毛利元就の居城・吉田郡山城へと進軍した。
※毛利プロ作のライトノベルでは無計画に近いかたちで強行した尼子晴久の暴走とされている。
毛利元就攻めの序盤は大内義隆の援軍を撃退するなど計画通りに進んだようだったが、毛利元就が吉田郡山城にて篭城戦法をとって特技:全体混乱を駆使して徹底抗戦し続けた為、想定になかった長期戦となってしまい厭戦気分が漂い始めた事や兵糧問題等に頭を抱えていたところに、大内氏より陶晴賢の援軍が来襲した事から尼子晴久の遠征軍は敗れ、尼子氏の良心・尼子久幸の犠牲により尼子晴久は無事居城の月山富田城まで帰還することができた。
尼子晴久の敗戦により、毛利元就攻めに協力していた安芸の国人・武田元実も大内義隆の攻撃をうけて滅亡して安芸への影響力を失うと同時に、支配下の国人の多くが大内義隆へと寝返り、さらに、謀聖と恐れられた祖父・尼子経久が亡くなるという不幸の連続に、尼子晴久も動揺を隠せなかった。
動揺を静めて権威を回復する為に、将軍・足利義晴より「晴」の字を拝領してそれまでの尼子詮久から尼子晴久に正式名を変更すると、勢いにのって尼子晴久の居城・月山富田城へと侵攻してきた大内義隆軍を迎え撃った。
大内義隆が途中で花見をしたり和歌を詠んだりして時間をかけて遠征してきた為、準備万端の体勢で今度は逆に尼子晴久が堅城の月山富田城に篭城して徹底抗戦して戦闘を長期化させると、大内義隆軍に披露の色がみえはじめ、動揺した元尼子方の国人達は大内義隆を見限って次々と尼子晴久の下へと復帰し、戦況が完全に逆転するという状況となったところで撤退を始めた大内義隆の軍を追撃した尼子晴久は、大内義隆が可愛がっていた養嗣子の大内晴持を事故死させ、毛利元就も渡辺通の犠牲により九死に一生を得る逃亡劇となって敗走させ、大内義隆を戦争恐怖症においこみニート化させると、石見銀山を奪回して因幡守護の山名誠通を従属させ、備後に進出して毛利氏の軍を破り、美作の三浦氏を従属させ、備前に圧力をかけて守護代の浦上政宗を味方につけ、反抗した浦上宗景へと軍を派遣して牽制する等、勢力回復→勢力拡大の為に次々と手を打っていった。
大内義隆を絶頂から一気に突き落として戦争恐怖症にしてニート化させる陰謀が成功し、覇気を無くした大内義隆が陶晴賢の謀反により滅亡すると、将軍・足利義輝より出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後の8ヶ国の守護に任命され、守護職という勢力拡大の為の名分を手に入れて、「守護に反抗する奴は皆滅ぶといいと思うよ」と尼子晴久の陰謀の火は燃え上がるのだった。
大内義隆が滅亡したのになんで責めなかったのか?守護職の名分を手に入れた尼子晴久は、美作で反抗を続ける浦上宗景を自ら出陣して攻めて撃退したものの、大内義長を傀儡とした陶晴賢の軍により備後の味方国人が攻撃を受けると、尼子晴久は美作から転進して陶晴賢と激突したが決着は付かず、備後の勢力争いは混沌とした。
そしてその中にはいつもあの男がいた・・・毛利元就・・・
毛利元就により安芸・備後での尼子側国人が駆逐されると大内義長と陶晴賢の勢力が大きくなり、「またお前か」と毛利元就に対して尼子晴久は憤慨した。
尼子晴久が8カ国の守護になって以降、尼子氏の支配体制を国人による寄合所帯から直臣や国人奉行による中央集権化を推し進めた事で、半独自勢力的な状況だった尼子国久率いる新宮党の立場が微妙になり、大内義長&陶晴賢との勢力争いにおいてさらなる中央集権化をはかる為に、尼子晴久は尼子国久の娘だった妻が病死した後、運命の1554年11月、尼子国久を月山富田城に登城させた際に謀殺し、続けて新宮党の居城を攻めて尼子誠久ら一族を粛清して、新宮党の所領だった出雲西部を尼子晴久の直轄地として勢力を尼子本家に集中させようとした。
「尼の子の杖柱たる鬼神も 盲打ちにぞ討たれけるかな」
電光石火に新宮党の粛清を行った後、ある意味目の上のたんこぶであった陶晴賢が、何時の間にやら敵対関係になっていた毛利元就により厳島に誘い出されて敗死すると、「大内義長なんて顔だけの駄目男は敵じゃないぜ」とばかりに石見に侵攻し、毛利元就の軍勢を破って奪われていた石見銀山を再奪取に成功すると、直臣の猛将・本城常光を城主にすえ、多胡辰敬(不如帰ファンにはおなじ「たこ・うえもん」)と共に銀山を守らせた。
そして・・・大内義長が毛利元就に敗れて自害した結果大内氏が滅亡して毛利元就が中国地方の一大勢力にのし上がると、毛利元就と尼子晴久の間で石見銀山を巡る争いが激化したが、猛将・本城常光と謀将・多胡辰敬により毛利元就の軍勢を撃退し続け、尼子晴久自身は、播磨の浦上政宗を支援したり、備中の国人・三村家親と交戦して破る等まだまだ働き盛りの中、月山富田城において突然の病に倒れて急死した。
享年47歳。
尼子晴久が確立を目指した尼子氏による中央集権化はまだ実現の途中であり、後を継いだ息子・尼子義久にとっては、直臣や国人奉行と国人衆の間に出来た溝・・・尼子晴久による(家中)分裂は、尼子義久のキャパシティを超えた大問題として今度は尼子義久が憂鬱を抱える事になった。
尼子晴久の死後、後を継いだ尼子義久は毛利元就に対抗することが出来ず、毛利元就の謀略によって石見銀山に手出しができなくなって猛将・本城常光と謀将・多胡辰敬を戦死においやり、果てに毛利元就に月山富田城に追い込まれると、篭城の為の兵糧を自費で工面する等していた忠臣・宇山久兼親子を殺してしまう等、謀聖・尼子経久の曾孫とは思えぬ智謀の低さにより家中を混乱させ、家臣の投降が続いた事から尼子義久自身の毛利元就に降伏し、戦国大名の尼子氏は滅亡した。
※尼子義久自身は尼子勝久らが決起してもじっと耐えて協力せず、尼子の名跡を残す事に尽力した。
といった数々の功績をあげた尼子晴久だったが、文治により国人を統率するスタイルをとった尼子経久と異なり、軍事力による急進的な支配体制の確立・所謂メガトロン(CV:加藤精三)方式を採用した為、逆に安定に時間がかかってしまった事は、「謀聖」の後継者に対するプレッシャーを感じてのものだったのかもしれない。
また、尼子晴久の死後1年程で尼子家が滅亡する等、まさに尼子晴久にとっては驚愕な話となったであろう。
その後の尼子晴久については、毛利プロのライトノベルや登場人物達が幅を効かせている事から、尼子経久=大ボスの前の中ボス的な引き立て役な評価が多いが、近年では見直されかけていると言う。
※その他「尼子晴久」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
「アゲアゲで行っちゃうYO~?」
そんな彼もVer1.2で参戦することになった。がカードイラストからして何かが間違ってる。要するにチャラ男にされた。
武力5統率6、1.5コスト、弓足軽、魅力持ちと能力値そのものは悪くは無い。
計略の「八方破の陣」は、武力と移動速度が上がる士気5にしてはコストパフォーマンスの良い陣形。
ただし、敵が範囲内にいると一定時間ごとに城にダメージが入る。何かこんな計略どっかで見たなぁ…
ちなみに同じ尼子家の山中鹿之介が城ゲージが少ない程武力と攻城力が上がる「七難八苦」という計略を持っているため、同じ尼子家としての相性は良い。
「尼子歴史シリーズ」と呼ばれる歴史替え歌に登場している。額の「孫」が目印。毎回ひどい目にあっている。
▼「憎き毛利が倒せない」
▼「おジャ魔だハルヒサ」
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 70 | 政治 | 74 | 魅力 | 94 | 野望 | 74 | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 56 | 政治 | 69 | 魅力 | 79 | 野望 | 70 | 教養 | 69 | ||||
覇王伝 | 采配 | 79 | 戦闘 | 71 | 智謀 | 10 | 政治 | 64 | 野望 | 70 | ||||
天翔記 | 戦才 | 144(A) | 智才 | 42(C) | 政才 | 118(B) | 魅力 | 81 | 野望 | 82 | ||||
将星録 | 戦闘 | 69 | 智謀 | 20 | 政治 | 65 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 60 | 戦闘 | 58 | 智謀 | 28 | 政治 | 61 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 54 | 智謀 | 17 | 政治 | 52 | 野望 | 55 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 54 | 知略 | 27 | 政治 | 54 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 53 | 知略 | 30 | 政治 | 55 | 教養 | 66 | ||||||
革新 | 統率 | 70 | 武勇 | 59 | 知略 | 34 | 政治 | 66 | ||||||
天道 | 統率 | 75 | 武勇 | 59 | 知略 | 76 | 政治 | 83 | ||||||
創造 | 統率 | 74 | 武勇 | 60 | 知略 | 75 | 政治 | 79 |
関連 | 一族 | 家臣 |
掲示板
72 ななしのよっしん
2023/10/08(日) 09:10:24 ID: /NKE2/TOw9
高橋・小笠原・赤穴らの関係上石見銀山は無視できないけど尼子が完全に実効支配できたの厳島の戦い辺り以降の数年だけっぽいしなぁ
尼子が大名として生き延びるなら1回目月山富田城の戦い後家中統制を早める、美作・備前までの外征諦める&山名とは全力で和解・相合元綱の乱によって毛利元就を怒らせないといった敵を作りすぎない辺りが必須かなぁ…
73 ななしのよっしん
2024/02/26(月) 23:01:59 ID: XRj/tzQh+i
武田勝頼もだけど斎藤龍興もだけど
空気を読めないタイミングで中央集権化を押し進めて
結局家臣国人に離反されて滅ぼす戦国大名はやっぱり無能よ。
74 ななしのよっしん
2024/09/07(土) 01:12:38 ID: ljO6/arnWE
国人衆が宗家ではなく新宮党と婚姻関係を結んでいるせいで晴久より国久の命令が優先されて前線の指揮が混乱する等の弊害があったから新宮党の粛清及び中央集権化は必須よ。むしろそれをしなかった場合調略による毛利側の切り崩しにあっていた可能性が高い。
ほかのコメントにもある通り、もう少し長生きしていればと思えてならんね。というより元就が長生きしすぎか…
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最終更新:2024/12/23(月) 10:00
最終更新:2024/12/23(月) 10:00
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