佐々木宏一郎(ささき こういちろう)とは、元プロ野球選手である。故人。
OB | |
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佐々木宏一郎 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 岐阜県揖斐郡 |
生年月日 | 1943年8月30日 |
没年月日 | 1989年5月22日 |
身長 体重 |
184cm 83kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1962年 |
引退 | 1981年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
岐阜短期大学付属岐阜高等学校に進学。チームのエースとして活躍したが、甲子園大会出場は叶わなかった。
1962年、大洋ホエールズの入団テストを受験し、120人の応募者の中から唯一の合格者として同球団に入団。
初年度は4試合にリリーフ登板し、プロ初勝利を挙げた。しかし、同年途中に都市対抗野球大会で活躍した同姓の佐々木吉郎が入団。「2人も佐々木はいらない」という理不尽な理由でオフに解雇されてしまう。
1963年、近鉄バファローズの入団テストに合格し同球団へ移籍。
移籍初年度の1963年、武智文雄コーチの指導を受けサイドスローからアンダースローへ転向。この転向がハマり、球威や変化球のキレが増した佐々木は、同年41試合に登板し4勝5敗、防御率3.08という成績を残す。
1964年はパ・リーグ最多の73試合に登板し初めて規定投球回に到達。10勝17敗、防御率3.13と好成績を残した。
翌1965年はチームが低迷したこともあり7勝20敗と大きく負け越し。1966年は8勝12敗と4年連続で負け越したが、勝ち星の半分を完封勝利で挙げ、防御率は2.82と初めて2点台の防御率をマークした。
1967年は14勝10敗で初めて勝ち越し。1968年には11勝を挙げ、初めてオールスターゲームにも出場。1969年には15勝7敗、防御率2.35と活躍し、2年連続でオールスターゲームにも出場した。
1970年、シーズン中に10連勝を記録し、10月6日の南海ホークス戦では完全試合を達成するなど絶好調。17勝5敗、防御率はパ・リーグ2位の2.05をマークし、勝率.773で最高勝率のタイトルを獲得。
その後も1971年に13勝、1972年に10勝を挙げたが、1973年以降は低迷し、先発ローテーションから外れてしまう。
1975年シーズン途中、島本講平とのトレードで南海ホークスへ移籍。
南海移籍後は主に中継ぎ投手としてプレー。1978年には41試合に登板、1979年には38試合に登板した。
引退後は1年間解説者を務めた後、大阪の心斎橋でスナック『ササ』を経営していた。
キレ味鋭いシュートとスライダーを武器に、清俊彦や鈴木啓示らとともに近鉄投手陣を支えたアンダースロー。
佐々木を覚醒させた武智文雄コーチとは、アンダースローであることや岐阜県出身、完全試合達成者、近鉄球団で100勝を挙げた投手など共通点が多い。背番号も共に「16」を背負ったが、これはもともと武智が背負っていた番号であり、1964年に佐々木の付けていた「62」と交換している。また、近鉄の入団テスト時に佐々木の獲得を推挙したのも武智であったという。
口数少なく物静かな性格であり、喋りが上手い方ではなかったことから解説者としての活動は1年限りで辞めている。
通算:20年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 667 | 78 | 28 | 132 | 152 | 4 | --- | .465 | 2620.1 | 619 | 1353 | 1151 | 987 | 3.39 |
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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