上野彦馬とは、幕末の化学者にして日本人で最初のカメラマンの一人である。
天保9年(1838年)、長崎銀屋町に生まれる。父は上野俊之丞といい、長崎で商人を生業とし、出島のオランダ人と取引をしつつ天文学や地理、火薬、製薬の研究で知られる蘭学者でもあった。この俊之丞が日本で最初に銀板写真[1]、いわゆるダゲレオタイプを輸入した人物である。
安政5年にオランダ人医師のポンペが長崎で開いた医学伝習所に入門。ここで舎密学、今で言う化学や写真技術と出会うことになる。
ある日、医学伝習所で使用していた蘭学原書で「ポトガラヒー」という語を見つけ、写真技術に興味を持った上野は、伝習所の先輩だった津藩出身の堀江鍬次郎という人物と一緒に湿板写真[2]の共同研究を始めた。
材料が手軽に入手できなかったため、写真機として使用する機材や薬剤等は全て自宅で自作した。必須の材料であるアンモニアは肉片のついた牛の骨を、青酸カリは牛の血をそれぞれ蒸留しながら生成した為、悪臭の酷さに近隣住民から奉行所に苦情が出るほどだったという。
機材と薬剤が出来上がり、実際に写真撮影を試してみる事になった。撮影に当たって医学伝習所の頭取だった松本良順に試し撮りを依頼するが、光線の加減で撮影がうまくいかず、松本の顔におしろいを塗りたくって撮影したという。
安政6年(1859年)、来日したスイス人の写真家ロシエに直接学ぶ機会を得ると共に、堀江のツテで津藩の出資によりオランダの商人から最新の湿板カメラ一式を購入する事ができた。費用は150両で、1両の半分である2分が当時の一般人の1か月分の生活費と考えると相当な高額商品であった。
ロシエから撮影技術を学んだ後、万延元年(1860年)から文久2年(1862年)にかけて、上野は堀江と共に津藩に勤める。文久元年(1861年)、津藩の藩校で教鞭を執る際に講義のための翻訳書が必要になった為、藩の全面バックアップにより短期間で完成し出版する。これが幕末の名著の一つ『舎密局必携』である。
文久2年(1862年)末、長崎に戻った上野は上野撮影局を開設、写真業を本格的に開始するが、当初は異人がたまに訪れる程度で日本人は殆ど訪れなかった。写真を撮ったら祟られる、あるいは寿命が縮むといった迷信が蔓延っていたためという。
慶応年間に入るとようやく日本人の客足が多くなり、高杉晋作、桂小五郎、伊藤博文、大隈重信、中岡慎太郎、坂本龍馬といった歴史上の人物も足を運んでいる。現代に伝わる当時の彼らの写真のうち、この撮影局で撮影されたものが非常に多い。
写真稼業が軌道に乗ってきた上野は、後に写真家として大成する内田九一や弟の上野幸馬を弟子として後進の育成を行い、門流数百といわれる彦馬門下の写真師を輩出し「東の下岡蓮杖、西の上野彦馬」と並び称される。
明治7年、金星の太陽面通過を観測する為に来日した米国の観測隊から依頼を受けた上野は、150枚以上のガラスを用意して撮影を行った。この時の写真は現存していないが、米国の報告書に上野の名が残されている。
明治10年に勃発した日本最後の内戦である西南戦争では、軍からの依頼を受け従軍カメラマンとして弟子数人を連れて九州に赴く。撮影に時間のかかる湿板写真のため戦闘は写っていないものの、戦いで廃墟となった田原坂周辺の生々しい写真が残っている。
同年、東京で開かれた博覧会に作品を出典し、鳳紋賞を受賞。長崎県令からも「其の右に出ずる者無し。実に無比の美術と云うべし」と絶賛される。
明治10年代半ばになると、湿板写真から乾板写真[3]へと撮影技術が移り変わる。かつて大家と呼ばれた写真師達が技術的についていけなくなり引退していく中、上野だけは乾板写真をも習得し、ロシア、上海、香港に支店を開設するなど最盛期といえるほど活動が活発になっていった。
明治37年(1904年)、日露戦争真っ只中の5月22日に67年の生涯を閉じる。
以下の動画に上野撮影局で撮影された写真があるので暇な人は探してみてね☆
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最終更新:2024/12/23(月) 05:00
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