ヘリオスとは、1957年生まれの日本の競走馬・種牡馬である。栗毛の牡馬。
60年代初めに現れその走りで大衆から人気を得た、短距離戦で活躍した栗毛大流星の逃げ馬。
主な勝ち鞍
1960年:札幌改築記念、京都盃、京都記念(秋)
1961年:ニューイヤーステークス、京都記念(秋)、阪神大賞典
※当記事では活躍した当時に合わせて旧馬齢表記(現在の表記+1歳)を使用しています。
父ブッフラー、母ミスハイペリオン、母父カーレッドという血統。
父ブッフラーは同期の二冠馬コダマの父として知られる名種牡馬。早くに亡くなってしまったがコダマやヘリオスの他にも内国産冷遇の時代に種牡馬として成功したエムローンなど多くの産駒を残している。
母ミスハイペリオンはアメリカ生まれの外国産馬で、中央競馬で8戦して2勝を挙げた京都芝1000mのレコードをマークした快速牝馬。ヘリオスは最初の産駒。
母父カーレッドはマイル戦で活躍した後アメリカで種牡馬生活を送り、名馬スワップスを送り出した名種牡馬。種牡馬としてはパワーのいる馬場で活躍する産駒が多く、地方を中心に日本馬の血統表の中によく名前を見ることがある。
1957年5月13日に浦河の大島牧場で生まれた。3歳になるまで同牧場でトレーニングを積み、当時京都競馬場で厩舎を開いていた大久保亀治調教師に預けられた。
1959年8月の新馬戦で当時の厩舎の主戦騎手、後にナリタブライアンの調教師として名を馳せる大久保正陽騎手を鞍上にデビュー。4戦目のオープン戦で初勝利した。30万下の特別戦を勝利した後挑戦した宝塚3歳ステークスでは新馬戦を勝ってきたばかりのコダマと初対決したが、5馬身もの大差を付けられて2着に敗れた。重賞初挑戦となった阪神3歳ステークスでも8頭立て7着のブービーに沈み、続くオープン戦で後の桜花賞馬トキノキロクの2着としたのが最終戦となった。
4歳となった1960年、通常であればヘリオスも他の4歳馬達と同じくクラシック三冠を目指すところであったが、当時のヘリオスには皐月賞の2000mすら長く思えるほどのスプリンターに見え、しかも大本命コダマにスピードでも負けてしまっていた。陣営は思い切ってヘリオスをクラシックに向かわせることを諦め、日本ダービーが終わる5月末まで、1200から2000までのオープン戦を順にこなし1600と1800で2勝を挙げた。その後は日本競馬では珍しい2000mの大レースとして丁度設立された宝塚記念に挑戦したが、スプリンターらしいスピードで大逃げした末に沈んでしまいブービー8着。阪神3歳Sと同じようになってしまった。
その後ヘリオスは夏競馬にも参戦。札幌改築記念(ダ1800)を勝利すると、当時ダ2000で行われていた札幌記念にも挑戦。さすがに足を取られたか4着に敗れ、休養に入った。
3歳秋は短距離の重賞を狙うべく当時1800mだった京都盃から始動。メンバーに目立った実績馬がいなかったこともあって1番人気の支持を受けて2着キクノホマレに6馬身差を付けて重賞初制覇。その後は予定通り菊花賞には向かわずオープン戦を4戦し、2勝2着1回3着1回と安定した成績を収めると、これまで最長距離となる2200mの京都記念(秋)に出走。流石に長すぎると思われて5番人気に留まったが、これまでと同じく逃げを打ち、2着タイカンに2馬身半、3着フランケルにさらにそこから7馬身差を付けて堂々勝利。2000mを超える競走で勝利を収めた。更にこの勝利により有馬記念の出走馬に選出された。誰がどう見ても距離が持つわけないが、ヘリオスと陣営は出走し、先頭で逃げてファンの期待に応えてこの年を終えた。年間を通して短距離戦で見せたスピードを称えられ、年度表彰では最優秀スプリンターを受賞している。
5歳時の1961年は1月のニューイヤーステークスから始動。以前敗れた同期の桜花賞馬トキノキロクに2馬身差を付けてリベンジした。続いて出走した日本経済新春杯では2400という距離もさることながら62kgとかいうとんでもない斤量を背負わされ8着。大阪盃競走ではコダマと同じ61kgのトップハンデを背負い6着と精彩を欠いていたが、3戦目のスワンステークス(当時1800m)では3着以下に大差を付けてマッチレースを繰り広げた末に3分の4馬身差の2着と力を見せた。続いて挑んだ天皇賞(春)はさすがに長くブービー5着。秋春連覇を期待された京都記念(春)はトップハンデに泣かされ3着。阪急杯と宝塚記念は同期の関西馬筆頭シーザーに敗れたが、なんだかんだ掲示板は外さずに好走を続けた。
ヘリオスはその後も60kgに達した斤量に苦しめられ、なかなか自分の走りを見せられなかった。しかし連覇を目指した京都記念(秋)ではトップハンデとはいえ58.5kgに留まったおかげか短距離のライバルトキノキロクにアタマ差まで迫られながらも連覇達成。更に阪神大賞典(当時2200m)も58kgを背負って2着に7馬身差をつけ快勝。この活躍でこの年も有馬記念に出走することに決まった。
1961年の日本競馬は、クラシックから好走を続けるシーザー、ホマレボシ、南関東から移籍してきたタカマガハラ、オンスロートの同期4頭と、1つ年上の「メジロ軍団」最初期の活躍馬メジロオーが「五強」と呼ばれ、実際有馬記念でも上位5番人気までを独占した。ヘリオスはと言えば前年と同じく距離が厳しいにも関わらずその五強に次ぐ6番人気に支持されていた。レースではファンの期待に応え今回も逃げ、最終直線まで先頭で馬群を引っ張り、これまでのタイムを2.5秒更新される下地を作っている。なお最終的に後続に呑まれ着順は11着だった。この年も大いに活躍したとして前年に続き最優秀スプリンターを受賞している。
その後ヘリオスは年始の金杯(東)をオンスロートの8着とした後、オープン戦で1.2倍の圧倒的人気を背負って勝利。これを最後に引退した。通算成績46戦14勝。うち重賞4勝。
引退後は早世した父ブッフラーの後継として種牡馬入り。現役時代見せたスピードから内国産種牡馬冷遇の時代に多くの繁殖牝馬を集め、地方競馬を中心に活躍馬を送り出した。中央競馬では70年代最多重賞出走記録を作った「走る労働者」ことイナボレスを送り出し中央でも重賞馬の父となっている。1977年に種牡馬のまま死亡。20歳没。
*ブッフラー Bouffleur 1952 栗毛 |
Prince Chevalier 1943 鹿毛 |
Prince Rose | Rose Prince |
Indolence | |||
Chevalerie | Abbot's Speed | ||
Kassala | |||
Monsoon 1941 鹿毛 |
Umidwar | Blandford | |
Uganda | |||
Heavenly Wind | Tai-Yang | ||
Godetia | |||
*ミスハイペリオン Miss Hyperion 1950 栗毛 FNo.2-n |
Khaled 1943 黒鹿毛 |
Hyperion | Gainsborough |
Selene | |||
Eclair | Ethnarch | ||
Black Ray | |||
Mad Joss 1933 栗毛 |
Bunting | Pennant | |
Frillery | |||
Jostle | Mad Hatter | ||
Joss | |||
競走馬の4代血統表 |
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/23(月) 11:00
最終更新:2024/12/23(月) 10:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。