ヘリオス 単語

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ヘリオス

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ヘリオス(Ἥλιος)とは、

  1. ギリシア神話に登場する太陽神。ヘーリオとも。
  2. 日本競走馬名の由来は1。
    1. 1957年生まれの。中央所属。本稿にて記述。
    2. 2001年生まれの地方所属。2戦未勝利
    3. 2007年生まれの。中央→地方所属。32戦8勝。
    4. 2016年生まれの騸馬。中央所属。現役。
  3. 2000年まで存在したバスケットボールチーム日立大阪ヘリオス」。サンロッカーズ渋谷の前身。
  4. NHK科学番組「銀河宇宙オデッセイ」に登場する宇宙
  5. エースコンバット7に登場するミサイル兵器

ヘリオスとは、1957年生まれの日本競走馬種牡馬である。栗毛

60年代初めに現れその走りで大衆から人気を得た、短距離戦で活躍した栗毛流星逃げ

な勝ち
1960年:札幌改築記念、京都盃京都記念()
1961年:ニューイヤーステークス京都記念()、阪神大賞典

1960・61年啓衆社賞最優秀スプリンター

※当記事では活躍した当時に合わせて旧馬齢表記(現在の表記+1歳)を使用しています。

概要

ブッフラーミスハイペリオンカーレッドという血統。

ブッフラー同期二冠馬コダマとして知られる名種牡馬くに亡くなってしまったがコダマやヘリオスの他にも内産冷遇の時代に種牡馬として成功したエムローンなど多くの産駒を残している。

ミスハイペリオンアメリカ生まれの外国産馬で、中央競馬で8戦して2勝を挙げた京都1000mのレコードマークした快速。ヘリオスは最初の産駒

カーレッドマイル戦で活躍した後アメリカ種牡馬生活を送り、名スワップスを送り出した名種牡馬種牡馬としてはパワーのいる馬場で活躍する産駒が多く、地方を中心に日本血統表の中によく名前を見ることがある。

1957年5月13日河の大島牧場で生まれた。3歳になるまで同牧場トレーニングを積み、当時京都競馬場で厩舎を開いていた大久保調教師に預けられた。

現役時代

1959年8月新馬戦で当時の厩舎の騎手、後にナリタブライアン調教師として名を馳せる大久保正陽騎手上にデビュー。4戦オープン戦で初勝利した。30万下の特別戦を勝利した後挑戦した宝塚3歳ステークスでは新馬戦を勝ってきたばかりのコダマと初対決したが、5もの大差を付けられて2着に敗れた。重賞初挑戦となった阪神3歳ステークスでも8頭立て7着のブービーに沈み、続くオープン戦で後の桜花賞トキキロクの2着としたのが最終戦となった。

4歳となった1960年、通常であればヘリオスも他の4歳達と同じくクラシック三冠すところであったが、当時のヘリオスには皐月賞2000mすら長く思えるほどのスプリンターに見え、しかも大本コダマスピードでも負けてしまっていた。営は思い切ってヘリオスをクラシックに向かわせることを諦め、日本ダービーが終わる5月末まで、1200から2000までのオープン戦を順にこなし1600と1800で2勝を挙げた。その後は日本競馬ではしい2000mの大レースとして丁度設立された宝塚記念に挑戦したが、スプリンターらしいスピード大逃げした末に沈んでしまいブービー8着。阪神3歳Sと同じようになってしまった。

その後ヘリオスは夏競馬にも参戦。札幌改築記念(ダ1800)を勝利すると、当時ダ2000で行われていた札幌記念にも挑戦。さすがに足を取られたか4着に敗れ、休養に入った。

3歳は短距離重賞を狙うべく当時1800mだった京都盃から始動。メンバー立った実績がいなかったこともあって1番人気の支持を受けて2着キクノホマレに6身差を付けて重賞初制覇。その後は予定通り菊花賞には向かわずオープン戦を4戦し、2勝2着1回3着1回と安定した成績を収めると、これまで最長距離となる2200mの京都記念()に出走。流石に長すぎると思われて5番人気に留まったが、これまでと同じく逃げを打ち、2着タイカンに2身半、3着フランケルにさらにそこから7身差を付けて堂々勝利2000mをえる競走で勝利を収めた。更にこの勝利により有馬記念の出走に選出された。がどう見ても距離が持つわけないが、ヘリオスと営は出走し、先頭で逃げファンの期待に応えてこの年を終えた。年間を通して短距離戦で見せたスピードを称えられ、年度表では最優秀スプリンターを受賞している。

5歳時の1961年1月ニューイヤーステークスから始動。以前敗れた同期の桜トキキロクに2身差を付けてリベンジした。続いて出走した日本経済新春杯では2400という距離もさることながら62kgとかいうとんでもない斤量を背負わされ8着。大阪盃競走ではコダマと同じ61kgのトップハンデを背負い6着と精を欠いていたが、3戦スワンステークス(当時1800m)では3着以下に大差を付けてマッチレースを繰り広げた末に3分の4身差の2着と力を見せた。続いて挑んだ天皇賞(春)はさすがに長くブービー5着。連覇を期待された京都記念()はトップハンデに泣かされ3着。阪急杯宝塚記念同期関西筆頭シーザーに敗れたが、なんだかんだ掲示板は外さずに好走を続けた。

ヘリオスはその後も60kgに達した斤量に苦しめられ、なかなか自分の走りを見せられなかった。しかし連覇をした京都記念()ではトップハンデとはいえ58.5kgに留まったおかげか短距離ライバルトキキロクにアタマ差まで迫られながらも連覇達成。更に阪神大賞典(当時2200m)も58kgを背負って2着に7身差をつけ快勝。この活躍でこの年も有馬記念に出走することに決まった。

1961年日本競馬は、クラシックから好走を続けるシーザーホマレボシ、南関東から移籍してきたタカマガハラオンスロートの同期4頭と、1つ年上の「メジロ軍団」最初期の活躍メジロオーが「五強」と呼ばれ、実際有馬記念でも上位5番人気までを独占した。ヘリオスはと言えば前年と同じく距離が厳しいにも関わらずその五強に次ぐ6番人気に支持されていた。レースではファンの期待に応え今回も逃げ、最終直線まで先頭で群を引っり、これまでのタイムを2.5更新される下地を作っている。なお最終的に後続にまれ着順は11着だった。この年も大いに活躍したとして前年に続き最優秀スプリンターを受賞している。

その後ヘリオスは年始の金杯(東)オンスロートの8着とした後、オープン戦で1.2倍の圧倒的人気を背負って勝利。これを最後に引退した。通算成績46戦14勝。うち重賞4勝。

引退後

引退後は世したブッフラーの後継として種牡馬入り。現役時代見せたスピードから内種牡馬冷遇の時代に多くの繁殖牝馬を集め、地方競馬を中心に活躍を送り出した。中央競馬では70年代最多重賞出走記録を作った「走る労働者」ことイナボレスを送り出し中央でも重賞となっている。1977年種牡馬のまま死亡。20歳

血統表

*ブッフラー
Bouffleur
1952 栗毛
Prince Chevalier
1943 鹿毛
Prince Rose Rose Prince
Indolence
Chevalerie Abbot's Speed
Kassala
Monsoon
1941 鹿毛
Umidwar Blandford
Uganda
Heavenly Wind Tai-Yang
Godetia
*ミスハイペリオン
Miss Hyperion
1950 栗毛
FNo.2-n
Khaled
1943 黒鹿毛
Hyperion Gainsborough
Selene
Eclair Ethnarch
Black Ray
Mad Joss
1933 栗毛
Bunting Pennant
Frillery
Jostle Mad Hatter
Joss
競走馬の4代血統表

クロスSwynford 5×5(6.25%)

主な産駒

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