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私は『チ。―地球の運動について―』をアニメで一気に観ました。 そのうえで、自分なりの解釈が正しいのか確認したく、また他の人の解釈も知りたいと思っています。特に、終盤に再び登場する「ラファウ」についての部分です。 私の解釈では、終盤に登場するラファウは、序盤に登場したラファウとは別人だと考えています。ただし、同じ「地動説」という思想を受け継ぐ人物であり、精神的な系譜に連なっている存在だと思います。 物語の第1章から第3章までは、ラファウ、オクジー、ドゥラカという三人の主人公を中心に、それぞれが地動説を広めようと行動します。しかし、彼らは異端として弾圧され、彼らの地動説は途絶えてしまいます。 ところが第4章では、家庭教師ラファウが少年アルベルトに「タウマゼイン(驚きから始まる探究心)」を教えます。その後、アルベルトがヨレンタのポトツキ宛の手紙を耳にしたことをきっかけに、再び「地動説」という思想が蘇り、最終的にコペルニクスによって証明されます。つまり、第1〜3章で積み重ねられた人々の努力は、決して無駄ではなかったということです。 ただ、この解釈では「P王国」と「ポーランド王国」の違いを説明できません。ここから、物語全体を「マルチバース(多元世界)」として読む解釈も確かに成り立ちます。しかし、私はそれを単純にマルチバースの話として片づけてしまうのはもったいないと思います。 もし仮にこの物語をマルチバースだとするなら「マルチバースなんて非現実的だ」と思い込む現代の私たちの視点こそが、かつて「地動説なんてありえない」と否定された過去の人々と重なるのではないか。作者は、私たちが“真実を信じる力”や“常識を疑う視点”を失ってはいけないと伝えたかったのではないか、そう感じました。

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回答(5件)

ケシの実を服用して毒物を飲んだので仮死状態だった説。 例えば、ロシアの怪僧ラプスーチンは無酸症だったそうで、青酸カリを飲まされても死ななかったそうです。 マルチバース(多元世界)説を信じる人より、マシだと思うけどなぁ。笑

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私は同じ人物だと考えているのだと思います。 立場によって見方が変わる、善悪も変わる、どちらの立場でも行き過ぎると不幸を招く、と言う事を伝えたかったんではないでしょうか。 物語はフィクションです。つじつまをあわせるためマルチバース(多元世界)と考える事に意味はありません。

普通にマルチバースだと思いますが あえてラファウを最後に登場させ 殺人までさせたのは 本編で宗教をあまりにも悪側として描きすぎたからではないかと思います。 知を求めすぎるあまり悪に堕ちるラファウを描くことで 「知の探求や逆に慣習への固執」と「善悪」は関係がないということを描くことで 物語全体のバランスを取ったのではないかと 本編だけだと 知の探求こそ善! キリスト教は悪! みたいな解釈をするやからがでそうなので。 だから最後に、地動説への迫害は一部神官の暴走と言い、 知の探求者もまた悪になり得るというところを描いたのだと思います。 現実の宗教への配慮もあるでしょう。

マルチバース説が有力。 そもそもP国とポーランド国に分けた理由がそれ。 つまり前半はフィクション、物語の人たちとして説明している。 でもポーランド国の話は、あり得たかもしれない現実を想像したながら書いたもの。 ラファウはいわゆるスターシステムのようなものなので、別に誰でも良かったと考えられます。 とはいえ、、、ここからはあなたの感受性と私の感受性の共通点なのですが、、きっと数多のこういう人たちの「血」とか「知」の集積があって、一つの大きな達成があるのだなぁと。

これは実際にストーリーを描いて人に読んでもらって感想を聞いてという経験があれば少しは理解しやすいと思いますが。 例えば作者はストーリーを描いて物語を完結してるんだけど読み手は、「で、続きはどうなるんだっ?」ってなる場合があるわけですよ。 そういう読み手の反応が作者にとっては面白い所ではあると思います。 僕は解説本を見てないので、あくまで僕の想像ですが、ラストのラファウは明らかにマルチバースのラファウでしょう。ヨレンタの手紙は鳥が時空の特異点を超えちゃったんでしょうな。 まとめとしては、 人生に意味が無いなどあり得ないって事です。