浄土真宗の人が、合唱してお経を唱えているのを 良く見るのですが、意味もわからず経をとなえるのは、 何のためなのでしょうか? また、それは誰に向けられたものですか? (自分、死んだ人、阿弥陀さま、お釈迦さま?)

補足

お経を唱える坊さんは、それなりの意味を もっているのでしょうが、集められた檀家は、 ほとんど意味がわからない人が多いようです。 南無阿弥陀仏・・・と何回唱えたとしても それで、本当に人は救われるものなんでしょうか?

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

阿弥陀さまが救うと言ってるのだから、素直にそれを信じなさい・・・には、坊さんの傲慢さを感じました。また「功徳を求めてはいけない」・・・のならば、何の役にも立たないお経を唱える必要もない事になります。救われるかどうかは、親鸞聖人さえ「解らない」・・・つまり生きている間に、信じる信じないは自由という事ですね。 いろいろな回答をいただき、ありがとうございました。

お礼日時:2010/9/24 9:41

その他の回答(5件)

浄土真宗に限らず、経文は読んだだけでは意味はありません。 理解し、実践して初めて意味があります。 仏道においての「救い」とは、「自我」からの開放です。 何らかの利益を求めている限り、自我に囚われているのです。 「本当に救われるのでしょうか?」と問うあなたにとって「救い」とは何ですか?

お坊様はお経の意味をきちんと理解なさっていると思います 学生の時にお寺さんに見学を兼ねてお経の時刻に参加した事があります お経が始るまで独断でノートにお経を書いていたのですが お坊様が一つ一つの意味が込められている事だと御説明して下さり 一部のお経の意味を解説して下さいました その時なるほどと思った事を記憶しております お坊様のお経を聞きながら感銘した事を覚えていますね お坊様はお経に魂をかけるような感じがした事も記憶していますので 大半のお坊様はお経の意味を十分理解なさっていると思います お経は聞いていて心が落ち着きますね。

たとえば母親の愛に包まれるとき 母が述べる言葉だけを取り出し、文字通り意味を解読しても愛を理解できません。 もちろん、音の一つひとつを分析しても理解できません。 愛を理解するのは、仕草や表情などを分類するのでなく、母の姿ぜんたいを受け取ること(一体になっている)で為されています。 全体が曼陀羅であり、自分もその全体に投じた時(帰依)に 阿弥陀さまがそのまま即座に迎えに来ましょう。 見ているあなたは本来は全体の一部なのに (あなたの職業は分かりませんがいまのあなたそのままで) その合唱と和とあなたというように分離させてしまっています。 もし自分を投じないならば、西方浄土は遠く 自分を投じるには懺悔が必要です。 親鸞聖人が不淫戒をそのままにしていたら自分を投じれなかったハズです。 懺悔が無い故に、「よく見るなあ」とちょっとした縁くらいにしか感じないのです。 ありがとうございます。 補足へ: 法然上人は「一度でも唱えるならば救われる」と言います。 察するに手を合わせ唱えるあなたが阿弥陀さまです。 阿弥陀仏の救いが無いならば、南無阿弥陀仏すら聞かず 口にする事は出来ません。 あまりにも簡単に出来るので拍子抜けでしょう。 そもそも私に質問しているあなたは誰だと思っているのですか?

少なくとも意味がわかって諷経しています。 浄土真宗は弥陀如来一仏の宗教ですから。阿弥陀様への仏恩報謝・仏徳讃嘆のためです。 ご先祖も親しい故人も、私自身をも、生きとし生きるすべてのものを慈しみお救いくださる阿弥陀様にお勤めをしているのです。 浄土真宗ではこちらからまず向けるのではなく、コチラよりも先に阿弥陀様から向けられた回向を感じるところから始まります。 (補足拝見し) 教義理解をこの少ないスペースで解説はできませんし、当然に理解は出来ないでしょう。また教えは頭で理解するものでもありません。仏法の場に身を置く中で自然と毛穴から染み込んでくるとでも表現できるでしょう。 浄土真宗では「阿弥陀さんを信じなさい」とは決して言いません。ただ称名念仏、お念仏をさせていただきましょうなのです。 親からこっちが右でこっちが左だよと教えられたときに何の疑問も持たずに素直に覚えたのと同じように、ほとけさまがこう言っているからそうさせていただきましょうということで、ほとけさまが必ず救うといっているのだから「はい、ありがとうございます」でとその仰せに従うだけなのです。「お念仏する者(念仏しようと心に思う時に)を必ず救う」といわれるからお念仏するだけです。

◎補足にて >>南無阿弥陀仏・・・と何回唱えたとしても >>それで、本当に人は救われるものなんでしょうか? bigharinezumiさんが浄土真宗の門徒か、それにご縁の有る人かどうか・・・分りませんが、少なくとも「それで、本当に人は救われるものなんでしょうか」とされている時点では・・・弥陀成仏の意味を自己判断で解釈されている・・・ということでしょう。 そうなると自己で「救いを振り分けている」となります。 まずは自分。そして阿弥陀さま 死んだ人に読み聞かせても詮無き事。それで効果がありますとはドコにも書いていない。むしろ否定されている。 読む本人の為・・・但し、読む事でまずは関心を持つ程度からのスタート。 仏徳讃嘆の意味もあるが、読む本人が関心を持たなければ讃嘆する意味にならない。