悠久の古代エジプトにおけるピラミッド
中川武──三〇年前に初めてエジプトに行き、それから調査・研究を進めています。古代エジプトでは古王国にピラミッドがたくさんつくられるのですが、中王国、新王国になると、小さくなりやがて消えていきます。ピラミッドが墓ならば中王国、新王国になってもなくなるはずはないので、ピラミッドは墓だったのかという問題があります。だからピラミッドは、共同体が持っている死や生という基本的な考えに対して、建築や都市がどう対応していったかという問題です。巨大なピラミッドはなくなったのですが、葬祭構造全体の中でお墓と神殿との基本的な関係が、ピラミッドが担っていたものの比重を移して、担い続けていたのではないかと考えています。
古代エジプトは三〇〇〇年の歴史があるのですが、住居、お墓、神殿が基本的には同じような構造を持っています。もちろん規模が大きくなったり、装飾がついたりしますが、空間的な構造は変わりません。極端に言えば三〇〇〇年くらい変わらない構造を持っているわけですが、こういうことがどうして起こるのだろうと考えると、エジプトは農耕社会で──アジア的共同体の最も典型的社会なのですが──、そこに理由があると考えています。
アジア的共同体ということを考えたのはヘーゲルやマルクスです。特にマルクスはインドの場合を考えていたのですが、インドは共同体の行動や自然との関係からどのような建築が生まれ、またどのような都市が生まれてきたのか、ということについては混沌としすぎていてわかりにくいのですが、エジプトは非常にわかりやすい。ナイル川は両岸の緑地は広いところが二〇キロ近くあり、狭いところでは二キロくらいしかないのです。だけれどそれがほぼ七〇〇─八〇〇キロ続いて、ナイル川の氾濫が農業の恵みを生み、地中海世界の最大の農業生産地でした。そして、狩猟、牧畜や農耕という人類の文化の流れが、ある時期になると農耕の共同体をつくるようになる。だけれどその共同体の規模はそれほど大きくない。そしてナイルの流域にたくさんの小さな共同体ができて、氾濫などいろいろな問題がありますから、それを連合していく勢力ができます。自然の恵みの中での生活、それを統合していくもっと上の連合共同体が偉大な文明を築き上げていく。そしてそういう構造のために社会の底辺はあまり変わらないのです。例えば、エジプトは貴族墓や王墓にはすばらしい壁画がたくさんあるのですが、そこに描かれている風景と現代の農村の風景がほとんど変わらない。そこにアジア的古代の構造が最も典型的に表われているのではないか。ピラミッドはお墓だったとは思っていないのですが、古代エジプトのピラミッドが死というものをモニュメンタルに社会的な象徴にどう高めていくかという中から出てきたものではないかと思います。そういう象徴的な機能が普遍的な形で続いていった。空間の構成の仕方もほとんど変わらなかった。それはまさに社会的構造として見ると理解しやすいと、今から三〇年前に思いました。技術というのは広い目で見た時にそういう形で古代エジプト文明に現われてくるようなものが理解しやすく、大きな流れの中で見るとわかりやすい。
戦後建築と野武士の世代
もうひとつは、日本の現代建築の中で七〇年代に槇文彦さんが安藤忠雄さんや毛綱毅曠さん、石山修武さんたちを「野武士の世代」と言われましたが、この人たちは強烈な個性をもっていました。日本の近・現代における戦後民主主義の鬼っ子世代とも考えられるのですが、戦後文学との類似性があると思います。最近では戦後文学は昔の問題だと考えられていますが、例えば埴谷雄高の『死霊』のような、常識では考えられないような想像力が文学的世界として定着されていました。あのような作品は日本近代の社会構造の変革なしには出てきません。日本近代の社会構造の中で、第二次世界大戦でピークになるナショナリズムが個人から家族、社会を垂直的に結びつけていました。社会をひとつの垂直的なシンボルあるいは垂直線でまとめることができた。国体や国家という共同体の構造があって、そこからいろいろ考え、そういう構造なしには、例えば丹下健三さんという人は考えられないと思います。その構造が戦争で切れてバラバラになった時に自由な世界が生まれ、戦後文学が登場してくる。近代の共同体を統御していた垂直な軸が完全に切れるわけですから、水平な広がりに力が働き、それまで規制されていた想像力や考え方とはまったく違ったものが出てくる原動力になったと思います。ところが、建築は、経済や社会生活に結びついているので、文学のように社会や共同体の構造的特質がそのまま出てくることはない。戦後社会がバラバラになっていたのが、戦前的な縦の統御の仕方ではなく、菱形くらいになってきた時にその次の世代、例えばメタボリ世代が出てきた。戦前的な、ナショナリズム的あるいは共同体全体の構造を受け継ぐなり、まとめ直すことなしではありえない、しかし戦後を経験していますからそれなりに自由になっている。それなりに自由になってきていることの代表的な人が磯崎新さんですが、それでも磯崎さんは丹下さん的なもの、共同体的なもの、共同体的シンボルから逃れないところをもっているのではないかと思います。初めてそういう構造からまったく切り離されて出てきたのが、七〇年代の野武士の世代の人たちだと思います。戦後文学から三〇年近く遅れて戦後建築が登場したわけです。建築が遅れた理由は、建築的な社会性や経済性、共同体との密接な関係、権力や共同体を挟まないと出てこれないということだと思います。
安藤さんはむしろ戦前的ではないかと思われないこともないのですが、しかし安藤さんの《住吉の長屋》などは石山さんの作品と共通性があって、それまでの想像力では捉えられない問題があったと思います。共同体の構造が垂直的なものから水平なものになって、個としての場が空間的連鎖の拠点となったことで初めて可能になった建築です。ですから戦後建築史を考える時に、共同体の垂直的構造から水平的構造の転換が建築的にどう現われてきたかという視点が必要ではないか。これは共同体の歴史を一〇年、二〇年という時間で考えていく共同体の構造の問題で、もう一方では古代エジプトなどにおける一〇〇〇年、二〇〇〇年という人類史的時間の流れでの共同体の構造の問題があって、この二つを考える必要があると思います。
アジア的古代技術
武谷三男の「技術論」を昔の学生は必ず読んでいました。生産的実践におけるということわりがあるのですが、普遍化して考えていいと思います。「技術とは客観的法則性の意識的適用である」と言っています。これは非常に重要で、客観的法則と法則性は違います。法則性は実践を通して法則になっていくこと、技術化されて法則になっていくことを含んでいます。それからもうひとつは、「意識的適用」という実践行動についてです。意識的というのは明晰な意識のもとで何かする場合や、ぼんやりとすることも含む。人間の社会における歴史的規定を受けた人間の行動、人間の精神、組織を全部含めている便利な言葉です。つまり技術というのはもともと歴史的なものであり、その根拠は共同体の大きな構造の問題になるのですが、マルクスが「資本制生産に先行する諸形態」という草稿でアジア的古代構造ということを言っています。そういう観点からも歴史をもう少しきちっと捉えたいと思っています。
土地所有形態によって歴史的な構造、共同体の構造が決定されるというのはマルクス主義の原則的な考え方です。基本的に大まかなところは今でも正しいと思っています。原始的土地所有形態から共同体の構造を規定すると、原始的自然的集団家族、つまり種族みたいなもの、これは血縁的共同体です。土地所有形態の特徴として、種族集団としての共同体が経済単位です。例えばマンモスが襲ってきたりするので、一人では生きられない、あるいは小さな家族では生きられないという意味です。そこには個人がないわけではなくて、共同体の成員としては所有者ではあるが、個人としては占有者です。このように問題を整理しながら考えていました。六〇年代までの学生はだいたいそういう考え方をしていました。マルクスは、原始的土地所有形態の次の段階をアジア的所有形態と言っています。エジプトでは種族が結合し、ナイル河畔に小さな農業共同体ができ、小集団が国民的規模に集積されて、その結合的統一体が小集団の上に専制君主、デスポットとしてそびえ立つ。これがエジプトのファラオになる。原始的土地所有形態の特徴は、原始的集団的土地所有が前提で原始時代と基本的には変わらないと言っています。小さな種族共同体は大家族のようなものと考えていい。石山先生が『群居』という雑誌をやっておられましたが、原始的あるいはアジア的共同体では群居から出発しているということが、そういう考え方の基礎です。共同体的国家的所有だけが唯一の所有者になって現われる。共同体の成員がその中でどうなるかというと、私的並びに共同体的占有です。個人は属している小共同体を通じて分与され、小共同体は国家を通じて分与される構造になっている。そして奴隷制や奴隷社会がここに現われる余地があり、小共同体が全体として専制君主に隷属していく。しかし、小共同体間、個人成員間は平等です。つまり原始的なものと変わらないけれど、共同体所有と専制君主の成立という二重構造になっていく。これが非常に重要な点です。この共同体は技術的進歩によって生産性が上がります。しかし上がっても、その剰余は全部専制君主のなかに吸い取られていくので共同体の構造は基本的には変わらず維持される。だからエジプトでは同じ文化が三〇〇〇年も続いたり、農村の人たちは原始時代と変わらない生活をしているのに高度な文明が発達したことの秘密はそこにあります。そういうことを通して共同体との関係を見ていきたい。
ギリシア・ローマに見る古典古代性
それからギリシア・ローマの古典古代とエジプトは全然違います。造形的なものもアーティキュレーションの密度が全然違っています。アジア的古代──四大文明のことを考えてもらえばいいのですが──はギリシアとは非常に違いがあり、その違いは古代エジプトには本質的な意味での都市はなかったからだと思います。本質的な都市は古典古代からできてくる。エジプトなどの血縁的共同体は自然的共同体で、自然の豊かな恵みという循環の中で生きていくことが原則です。ところがギリシアなどはどうしてこんなところに人々が生きられたのだろうと思うくらい貧しい土地です。ですから自然的な家族共同体が住んでいてもがんばる家族だけが生き残れるという環境です。そうするとそのようなガンバル家族が寄り集まって共同体的に対応することを試みます。ここに個人性が出てくる余地があり、家族共同体の連合を生み出すわけです。そういう人たちが連合を組み、都市に住んで農村を支配するしか生きていく道がない。だから軍隊的組織と同じような都市構造ができてくるのです。ギリシアの都市が非常に合理的にできているのはそういうことが理由です。だけれど、原始の中から出てきたものですから共同体所有もあるし、個人の連合による所有もある。そういう矛盾のなかで、ギリシアの矛盾の処理の仕方とローマの処理の仕方が違ってくる。そこに力の差ももちろんあるし、性格の差が出てくると考えることができます。
陣内秀信さんの『地中海の聖なる島サルデーニャ』(山川出版社、二〇〇四)に描かれているサルデーニャでは、先史からローマの都市まで歴史的重層性が魅力になっている。こういう重層性が共同体と技術という見方でどう解釈できるか。古代エジプトにおいて、アジア的古代制の共同体の中における都市、建築、技術は、停滞的でありながら高度な全体性を象徴するような形態ででき上がり、それが維持される。マルクスは、ギリシアにもアジア的古代があったけれどもそれはあっという間に通り過ぎてしまったと言っていますが、そういうところを経過して、古典古代がその風土の中で展開されていく。古典古代的という歴史の概念はギリシア・ローマにおいて典型となり、それ以外の、例えばマケドニアなどでは似たところもあるのですが、それはいびつな形で入っていきます。日本にはアジア的古代はなく、古典古代、中世、近世、近代が典型的に展開されます。アジア的古代がない理由は、中国におけるアジア的古代性が輸入され、共同体の歴史が外から影響を受けるかたちで形成した。しかし輸入されることによって日本では変質して受け取られる。そのことによって、例えば一部エジプト的なアジア的古代性としての技術の性格が法隆寺にはありますが、むしろ古典古代的で、例えばギリシア的なものだと言ったほうがよいと思います。日本の場合、共同体の歴史は外部からの影響によりつくられることが多いために、わかりやすいかたちに変形し、洗練させて歴史を重層的に刻んでいくということが起こるわけです。
では具体的に見ていきたいと思います。
古代エジプト史の変遷
このジョセル王階段ピラミッドは最も古いピラミッドで、四角錐の純粋ピラミッドと言っているものより、階段型で上昇性を訴える力があり、形の力があります。それが純粋幾何学になっていくところに共同体の構造の問題があります[図1]。これはジョセル王のピラミッドコンプレックスの中で、石積みの構造が最も合理的な形態をそのまま表わしています[図2・3]。それをもうちょっとデザインするようになってくる。屈折ピラミッドと言われ、だいたい紀元前二六〇〇年ぐらいです。この前にサッカラの階段ピラミッドの後に、一度純粋ピラミッドができるのですが、その後これができます。急傾斜をつくっていて崩壊したので緩やかにしたと言われていますが、そうではなく、これだけのものをつくるには壮大な国家的建設計画が必要で、労働力の動員もそうですが、寸法計画としては統一した計画のもとになされていました。なぜこういう屈折という異形のピラミッドが必要だったのかと考えていくと、墓にこだわったとは思えない。
サッカラの階段ピラミッドができた時に初めて東西南北という方位軸をとっています。それより以前では地形に合わせています。ナイル川が南北を規定するのですが、両岸が河岸段丘的になっています。そこにマスタバという古墳のようなものがあり、王墓や貴族墓だったのですが、全部地形に合わせ、だいたい南北を向いている。その後正確に純粋ピラミッドで方位軸に配置を合わせて、ピラミッドの傾斜角度がいろいろ試行錯誤をされているのですが、全部計画的に、古代的な設計方法によってつくられている。古代エジプトの数学の基準からある範囲の規模と傾斜角の関係が必然的に出てきます。そういう中で宗教的なものを超えた国家の形成とピラミッドのシンボルが担うものが一致してくる。だから上昇性の強い形態から脱していく必要があるし、墓という具体的な機能から脱していく必要があった。ただ古代社会の特徴で、実感的なイメージの伝達性が重要な意味を持っていたということでピラミッドの素材と形態がつくられた。簡単に言えば、共同体をシンボリックに統一していくある吸合力、それはファラオの権力が成立したことと合致していたと思われます。それがだんだん落ちていきます。これはルクソールにあるデル・エル・バハリのハトシエプスト女王葬祭殿です[図4]。古典主義建築のようにリズムを刻んで、スロープで軸性を強調しています。ナイル川の西岸には死者を祀るネクロポリスがあるのですが、東側にはカルナック神殿というこの地方最大の巨大な寺院などがあります。それは完全に軸性を持つ有軸的空間で、パイロンと中庭に続いて至聖室があった。またピラミッドは有心空間で、中心性をもち共同体の構造を表現している。西洋建築ではゴシックが純粋な有軸空間だと思うのですが、パンテオンのような有心空間に対して有軸的空間ができていきます。有軸性によって、生あるいは政治と関係ある神とファラオが埋葬されている目に見えない墓を建築が結びつけているわけです。こういう機能はピラミッドも持っていたはずです。ただ死を象徴することによって、共同体の統合性を表現しているところに古代エジプトの技術の性格があらわれています。墓のプランと神殿のプランを比べると、同じものが拡大していくという違いです。
王家の谷にはツタンカーメンやセティ一世など六〇基ぐらいの王墓があります。これはメムノン像ですが[図5]、これもこの谷でハトシエプスト女王と並び、東西に軸線を持ちながら葬祭殿がつくられていくのです。
ナイル東岸にあるカルナック神殿は最大の神殿なのですが、歴代の王が増築していくつもの神殿をくっつけたのです。大列柱室は序列性を強めていくのに有効な建築空間です[図6]。こういう装飾はほとんど末期王朝のもので、新王国くらいまではもっと形がきれいでそれ自体が緊張感を持っている。アメン神がカルナック神殿から船に乗ってルクソール神殿に納められ、一年のうち一〇日間だけいなくなるオペト祭がテーベ最大のお祭りです。それが非常に強い軸的な構造を示しています。
これがルクソール神殿で、カルナック神殿の別殿の役割をしています[図7]。東岸にあって、お祭りに使うだけです。これも軸的な構造があり、基本的にはパイロン、中庭、列柱の繰り返しです。屋根が崩壊していますが、屋根があったら明暗の対比やヴォリュームの変化によってすばらしい構造とリズムでつくられていた。原始時代と変わらない庶民の人たちの基盤の生活からなぜこういう壮大な祝祭空間が生まれるのか。ここにアジア的古代構造の本質的な秘密があると思います。
ピラミッドと新王国の神殿、葬祭殿、王家の墓は基本的な機能は同じです。こういうかたちでアジア的古代性は永続し、基本は原始と同じなのに高度な文明ができる。そういう性格は、人類のある歴史的段階で、社会が共同体所有という構造を持ったことによってできてくると思います。
1──ジョセル王階段ピラミッド
早稲田大学中川研究室提供
2──同、コンプレックス・エントランス導入部の柱廊
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3──同、南面
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4──ハトシエプスト女王葬祭殿
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5──メムノンの巨像、アメンヘテプIII世王葬祭殿跡
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6──カルナック神殿列柱室
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7──ルクソール神殿南正面
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プレアンコールとアンコールの特質
サンボー・プレイ・クックというプレアンコールの遺跡で一〇年前から調査と保存をやっています。サンボー・プレイ・クックはアンコールから一五〇キロほど北東にあり、クメール民族が王国をつくり、イーシャナプラと呼ばれていました[図8・9]。東南アジアでは八世紀頃の遺跡はジャワに七、八棟あるだけなのですが、ここには七世紀くらいからの建物が五〇棟くらいあり、半分以上は壊れているのですが、規模が大きい。装飾もフライング・パレスというユニークなレリーフがある。フライング・パレスがあるから研究に出かけたのですが、アンコールのことがいろいろな面からわかってきた。それは技術的な変遷だけではなく、アンコールをどう考えたらいいかという基本的な問題です。これがフライング・パレス、空中宮殿で、中国にもう少し小さいのはあるのですが、これだけのものはありません[図10]。
このN群は一番古く、七世紀から八世紀にかけてのものです。周壁があり、中心祠堂といくつかの副祠堂があります。いくつかの点でアンコールとはまったく違います。構成に規則性がないわけではないのですが、力のある構成とは見えない。一つひとつの建物も、この時代としては大きいのですが、レンガ造であることもありやはり形は弱い。
日本建築では桃山様式が参考になります。中世末期から渡来人による木造彩色彫刻装飾がたくさん出てきますが、それとはまったく桃山様式は質が違う。日本の建築生産を基底で支えていた人たちが桃山時代になって力を自由に発揮できるようになったのですが、そういう人たちはほとんど彫刻をやっていた人たちで、生産組織のなか小さなスケールの再編によって表に出てくる。そうすると活力がみなぎったもの、そのときの解き放たれた想像力だと考えないと、理解できないようなものが突然のように出てくる。つまりプレアンコールのサンボール・プレイ・クックの八角堂などは、まだ素朴な段階でしかつくられていなかったけれど、空中宮殿の装飾に込めていたものがアンコールのバイヨン期、一二世紀末から一三世紀初に突然のように出てくる。
プレアンコールの社会共同体の構造はわかっていません。ただ、寺院やこういう装飾の構成や変化を考えていくことは可能だと思っています。
これはバイヨンです[図11]。バイヨンは円形で、ほかにアンコールに円形の祠堂はありません。バイヨンの形は空中に浮いている宮殿のように見え、二重円形壁で八本の小塔があり、こういう構成自体が珍しい。満月の夜、雨が上がった時にこれが浮いて見えるのですが、フライング・パレスそっくりです。二重回廊があって、回廊の壁画も全体的に劣化が進んでいて、アンコールでの一番大きな保存修復の課題になると思います[図12─14]。
アンコールの組石造は、空目地もそうですが徹底的にコーベルアーチ(出入り口や門など開口部の天側を支える構造)です。水平迫り持ち式で、幸い地震はないのですが、ちょっとバランスが崩れると崩落します。本来のアーチ構造が入ってこなかったと考えられているのですが、ビルマには一一世紀ぐらいにアーチがあります。ゴシック式のポインテッドアーチまであります。ビルマ西部のパガンには二〇〇〇以上の僧院やストーパがあるのですが、ほとんどアーチでつくられています。バイヨン、アンコールワットのようなものをつくったところがなぜアーチをつくらなかったのか。にもかかわらずアンコールワットの巨大寺院もそうだし、バイヨンのようなテクノロジー的に考えても解明できないものがつくられたのは何故か。技術が単に生産的な効率性だけでは解釈できない問題を持っている。やはり共同体の構造と密接な関係をもっと考えざるをえない問題があるのではないか。
強度な権力をアンコールは築いたと思います。その権力の維持と技術の性格とは結びついていて、それが伝統になっていくと、維持することに主体が変わっていく。パガンの場合には、小さな貴族や僧院が王権に寄進する形でつくられています。そうするとどうしても合理的な建造に対する意欲が強い。アンコールは基本的には新しく王権に就いた王がつくっていて、王家の親族や大貴族のものに限られている。形式的伝統を踏襲せざるをえなかったのではないか。そういう違いになって現われている可能性があるのではないか。
それから、アンコールの建築はアンコールワットもそうですが、基本的に軸線が、敷地の中軸線と建物の中心軸がずれている。これは意識的にずらしている。これはインドにもインドネシアにもあるのですが、まったく違うやり方をしているのです。ここにも土着的なものと伝統的なもの、自分の先祖を奉るという意識と新しいものをどんどん入れていくという調和的な感覚、こういうものは、周辺国に発達してくるのです。つまり日本とかですね、巨大な文明があってそれを受け入れたところがそういうものを維持しやすい。アンコールはアジア的古代ではないのですが、アジア的古代文明の周縁でそういうものを受け取って、それを維持し、逆にインドや中国がアジア的古代文明を築く前のもっと素朴な原始的共同体の感受性なり生活意識なり技術的性格なりが保存され維持されていく。例えば原始的というのは共同体自体が自然ですから、そこでは安定があるんですね。そういうものの性格がソフィスティケートされたかたちで維持されやすい。ここにインドシナや東南アジアの性格がある。それから、日本の中には洗練されているけれど古い形態のものがあるのはそういう理由によるのではないかと思っています。
8──サンボー・プレイ・クック遺跡群
9──レンガ造塔状祠堂のメインテナンス作業
10──フライング・パレスのレリーフ
11──バイヨン寺院平面図
12──バイヨン鳥瞰写真、南西上空より
13──バイヨン尊顔塔
14──バイヨン正面出入口開口部
ヴェトナム、フエ王宮都市での試み
一九世紀から二〇世紀にかけて、ヴェトナムの最初で最後の統一王朝の都があったフエについてです。ここには中国の紫禁城を模した建物があり、王様が祀られている廟があります[図15─17]。
ヴェトナムは非常に活気のある、スケールの小さな都市生活が巧みに時間帯を重層させながら、簡単な施設で営まれる、アジア的な典型的な都市だと思います。新市街もすぐ横にあります。フエには午門や太和殿などの建物と、勤政殿や、紫禁城跡が残っていて、これなどからなる皇城の中心軸を整備したいと思っています。まず勤政殿は皇帝の生活と執務を兼ねた要素があり、ここが一番重要な場所です。太和殿は連棟式の建物です。中国では一八、九世紀になると、南方で日本のように野小屋がつくられますが、台風も雨もすごく降るヴェトナムに、なぜ連棟式の建物ができ、野小屋で全体を覆うことをしなかったのか。同じ東南アジアでも共同体の構造の違いが原因していると考えています。
ヴェトナムは古代王権と封建制の融合制から社会主義になったのですが、社会主義は村落の入口までしかいってないと言われ、村落の封建的構造が維持された。そのことと社会主義的な構造は矛盾することではなくて、お互い強め合って作用する面があると思います。具体的にどういうことかと言うと、ひとつは古代が繰り返されていることです。アジアの国のほとんどは、特に中国やインドもそうですが、アジア的古代がそのまま変形しながら繰り返されている。韓国にしてもヴェトナムにしても、小さなアジア的構造が封建的な形をとりながら継続されてきました。だから古代エジプトの保守性と同じで、できた形式だけを受け入れ、それをいつまでも維持していくことが、小さなアジア的封建制の形を取ったアジア的共同体の最も重要な問題です。こういうものが必然と偶然があざなう縄のようにして継続してきたのではないかと思うのです。
ですから、ヴェトナム社会の表層は形式的に近代化され、改造されているものがたくさんあります。それが一方ではアジア的古代の伝統はチープな古典様式的なものになってしまっているのに、根本的なところは全然変わっていない。そういうところがフエの特徴だと思うのですが、それをこの連棟式が表わしていると思います。
以上いろいろ見てきたのですが、経済的分析、社会構造の分析を通して共同体の問題を考え、その中で建築はどういう役割を果たしているかと考えざるをえないと思います。それが今後一〇年の技術や建築を考えるきっかけになるのではないかと思います。
[二〇〇四年四月八日]
15──フエ王宮の中心軸。
紫禁城の奥より午門を見る
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16──午門南側正面
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17──カイデーン廟の前庭部より中心部を臨む
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