“世界で一番安くダイビングのライセンスが取れる場所”としても知られており、僕自身もライセンスを取得するためにこの地を訪れた。高い透明度を誇り、世界中のダイバーたちの憧れともなっている紅海で初ダイブをすることができたのは、非常に幸運だったように思う。
「ダハブ(Getty Images)」
森川さんは、この地で日本人として唯一エジプト人に混ざり、ダイビングインストラクターとして働いていた。こんな場所で日本人が働いているのか、と当時驚いたことを覚えている。
「ダイビングインストラクターは、安全面やダイビングの知識を教えるのは勿論やけど、お客様をいかに楽しませられるか、ってのもすっごい大切やねん。どんだけダイビングが好きな人でも大部分が年に1、2回程度しかダイビングをすることができへんねん。やで、お客様にとってダイビングの日ってすっごい特別な1日やねん。一生の思い出に残るような日よ。俺が教えるグループは、他のインストラクターが教えるグループより、絶対楽しんでダイビングをしてもらおうと思ってんねん」
そうサラリと言ってのける森川さんは、とにかく明るい。ダイビング講習中もマシンガンのように次々と飛び出す「鉄板ネタ」のおかげで、僕自身、非常に楽しくライセンスを取得することができた。
そんな森川さんが帰国し、夏季の間、八丈島の「ブーメラン」というダイビングセンターで働くことになったというので、久しぶりに会うことに。新橋で酒を交えながら会話を進めていくと、ダハブでは聞けなかった森川さんの謎に包まれた経歴が、少しずつ明らかになっていった。
予想してはいたものの、やはり特異な経歴だった。(聞き手&執筆:大日方航)
森川貴史(もりかわ・たけし)さん
「大学を卒業するのはダサい、大学5年生で辞めるとか超ロックやん」
25歳までバンドマンとして活動した。浪人して入学した大学は、5年生で辞めた。 バンドマンとしては、「大学を卒業するのはダサい、大学5年生で辞めるとか超ロックやん」という感覚が強かったという。
そうしたバンドマンとしての生活にピリオドを打とうと思ったのは、音楽活動がうまくいかずバイトばかりの生活になったことだ。
「バンドのために大学辞めたのに、バイトのために辞めたみたいな状態になっとって、このままじゃヤバイな、って思った」
オーストラリアの語学学校、そして大学院進学
大学でも教鞭をとっていた父親に今後について相談すると、「いまどき英語くらいは話せた方がいいぞ」と進言され、海外の語学学校に通うことを決意した。
バンドマンの聖地といえば、ロンドン。しかしながら語学学校の値段も高く、断念。ビザの取得しやすいメルボルンに、選択を変えた。その理由も、「パンフレットで見た感じ、ロンドンに雰囲気が似ていたから」だそうだ。
「参考画像:メルボルン(Photo by Scott Barbour/Getty Images)」
受講したのは10ヵ月コース。「この頃は、気が狂ったように勉強した。周りに喋れるやつがおるのに、俺だけ喋れへんのはコンプレックスやった」と森川さん。「Elementary」という一番下のコースから、卒業する頃には「Advanced」という上から2番目のコースまで登り詰めた。
せっかく英語を勉強したならそのまま現地の大学に行こうと、情報を調べ始めた。その結果、中退したものの、日本の大学である程度単位を取得していたこともあり、「カプランビジネススクール」というオーストラリアの大学院に進学することが可能ということを知り、入学することに。
同大学院に通う日本人の学生は森川さんだけだった。会計学を2年間学んだ。最終的には、他の生徒より一学期分早く卒業するという勤勉ぶりだったという。
勤勉ぶりを示すエピソードがある。
「めっちゃ勉強しとったからな、レポートを提出する時期になると俺んとこ来るねん、みんな。で、ある時クラスメイトのインド人にコピーさせてあげたら、教授に呼び出しくらって。なんよって思ったら、俺とそのインド人が提出したレポートが全く同じで。普段の成績から教授もどっちがパクったのかもう分かっとったけど、インド人ふざけんなって思ったな(笑)」
リーマン・ショックの影響が尾を引く日本で就職活動。
大学院を卒業した時、森川さんは28歳。日本で就職することにしたものの、リーマン・ショックの影響が尾を引いており、就職氷河期と呼ばれる時代だった。
「みんな100社とか受けとった、そんな時代やった。英語力が評価されるようなこともほとんどなくてな。結局、友達のお母さんが社長をやっていた会社に経理として入社した」
ところが、「ホテル・レストラン業」を営んでいる会社と認識して入社したものの、「ラブホテル」「キャバクラ」のみを運営している会社だったと入社後に判明。
さらには直属の上司との折合いが合わず、1年で退社した。
参考画像:リーマン・ショック(Photo by Mario Tama/Getty Images)
日本語学校勤務からの、ラーメン屋
その後、母のツテで、マレーシアの都市「クチン」にある日本語学校の立上げに参加することに。現地の日系企業は、日本語の能力によって社員の給与額を増額する取り組みを行っており、一生懸命勉強する生徒が多かったという。
「経理の仕事中心やったけれど、先生として教えたこともあった。楽しかったな。長く勤めようかと思ったのだけれども、社長は老後の楽しみとして教室を運営している感じで、給料も安かった。『君は若いのだからもっと挑戦した方がいい』と社長に言われて、結局ここは半年で辞めることになった」
参考画像:クチン (Photo by Peter Bischoff/Getty Images)
次に勤めたのが、富山県富山市中心部発祥のご当地ラーメン屋だ。ラーメンは海外進出が盛んだったし、「海外勤務ができる」とのことで入社した。
とはいえ、まずは現場を経験しなくてはならないということで、富山県内の店舗、海老名店、町田店など様々な店舗で勤務した。
店舗のチーフにまで登りつめ、ラーメン作りだけではなく、店の売り上げ管理のExcel作業、ポスター作り、メルマガ作成など全ての作業を先導した。Photoshopや、Illustratorなどのデザイン系ソフトウェアを扱えることも理由だった。
「海外の大学院まで出たのに、気づいたらラーメン屋で湯切りしていた。(笑)海外勤務ができると聞いて入社したけれど、いつまでたってもできる気がしない。結局、ここも1年くらいでやめたなぁ」
次に森川さんが辿り着いたのは、税理士補助の仕事だった。今までとは180度考え方を変え、逆に地元である三重県で就職して、地域に貢献できる自分のスキルを活かした仕事をしようと考えたのだ。
「これが俺のやりたい仕事だ、と思って始めたのだけれど、ずっとデスクワークで、普段話す人は同僚だけで閉鎖的。淡々と過ぎる日々。やりがいもないし。税理士さんを見ていても楽しそうじゃない。先が見えなくなってしもうて」
趣味を、仕事にしよう。「嫌になったらやめればええ」
そんな経験の末たどり着いたのは、「今までの人生で楽しかった瞬間は何か」という発想だった。オーストラリアで、スキューバダイビングを経験し、アドバンスのライセンスを取得していたことが、脳裏をよぎった。
何度も仕事を変えてきた森川さん。今更、新しい環境に飛び込むことを躊躇するような経歴、性格ではなかった。
「嫌になったらやめればええ」
思ったのはそれだけだった。「どうせまたダイビングをするならプロのダイビングライセンスのダイブマスターまでとって、プロとして仕事をしてみよう。そうと決まれば行きたいところに行こう」と選んだのが、「フィリピン最後の秘境」と称されるエルニドのダイブセンター。
当時としては日本人にはまだ認知されていなかったこの地でダイバーを案内する水中ガイドとして働くことになった。そして、ダイブマスターとしての資格を取得し、経験を積んだ。
この道のプロとして生きていくには、インストラクターの資格を取得し、また、他のダイブセンターで働いた経験があった方がいいだろうと考えた。
そこで、同じフィリピンの「セブ島」でインストラクターライセンスを取得。現地でしばらく働いたのち、シナイ半島の南方に広がる紅海に面するエジプトのリゾート「ダハブ」と、世界各地を転々とし、ダイビングインストラクターとして働いた。
英語も堪能で、世界各地でダイビングインストラクターとして働いた経験を持つ森川さん。世界各地のダイビングセンターから、引く手あまただ。そんな森川さんがダハブでの仕事を辞め、日本に帰国したのは苦渋の決断だった。
「仕事もすごく楽しかったし、いい感じに忙しかったけど、オーナーのエジプト人がケチだった。ドルで給料を貰うはずなんやけれど、宿ダイブセンター独自の低い換算レートで換算された後のエジプトポンドでの給料だったりと、搾取されている感じがあった。そこで、ちょうどエジプトから引上げることを考え出した時期にUAEでワールドカップ予選の日本代表戦があることを知ってん。帰国の便がUAE乗換えということもあって、辞めるに値するタイミングかな、と。そして現地で日本代表をサポートしようと思った」
日本に帰国することになった森川さん。自分のダイビングセンターを日本国内で将来作りたいと、現在計画を立てている。
どこで自分のダイビングセンターを開くにせよ、既存のダイビングセンターと協業するにも、まずは人脈が必要だ。特に、特定の場所でビジネスを興す場合はより深く地元のコミュニティに関わって行くことが求められるだろう。
「人のつながりで生きてきた」と語る森川さんは、よりその重要性を肌で理解している。だからこそ、八丈島で従業員としてまず働くことを選択したのだ。
波乱万丈な森川さんの人生。「仕事が遊びみたいなもんやからな」と軽快に笑うが、そういった環境を作ることができたのも、様々な環境に飛び込み続けてきたからだ。
現在36歳。経歴を並べてみると、大学中退、バンドマン、フリーター、語学学校、オーストラリアの大学院卒業、ラブホテル会社の経理、マレーシアの日本語学校勤務、ラーメン屋、地元三重県でのオフィスワーク、ダイビングインストラクター。わけがわからないといえば、わけがわからない経歴だ。
しかしながら、森川さんは今、本当に楽しそうに生きている。いわゆる天職を見つけるためには、こうしてとにかく環境を変えてみるというのも、一つの方法なのかもしれないと、森川さんの話を笑いながら聞いていて、ふと感じた。
《大日方航》