日本側の行動は批判の外に (6/5追記)

個別応答すると何か批判されるらしいので、昨日の記事について大まかに補足する。

まず、懸念した通りのコメントがいくつかあるのだけれど、中国が侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館 - Wikipediaを建てたのは、日本の否定論の隆盛をきっかけにしたものであり、その意味で南京事件の政治問題化はほとんど右派の自業自得だということを失念しているか無視している人が多い。

「外交」や「政治」を問題にするのであれば、中国に格好の政治のネタを与えている日本の否定論者による「政治」こそが根本的に問題にされなければならない。

同時に、「30万」という数字にかんしても、これはもはや中国の研究者からも批判の対象になっていて、以下で秦が言うように取り下げる可能性はある。
http://sankei.jp.msn.com/life/education/071227/edc0712270306000-n3.htm
ただし、「30万」という数字を取り下げさせたいならば、まずもって日本での否定論をなんとかしなければならないだろう。ウソだデマだと言い募ることは却って態度を硬化させるだけではないか。どっちもどっちなのは、政治的な「30万人説」を主張する中国と、とかく「30万人説」批判を繰り返す人々同士なのではないかと思うのだけれど。


そもそも、南京事件は日本が起こしたことであり、また実効支配を続け被害事実の調査がなされなかったこと、また戦闘詳報等の資料を戦犯の追及を恐れて日本が自ら破棄したこと、さらには戦友会や右派による兵士の証言封じなどなど、正確な調査を日本自らが阻害している。「30万」という数字はそうした調査の正確な遂行が不可能なところから出てきた概算であって、これを意図的な「デマ」だとか「誇張」だなどと主張するのは相当に無理筋の主張だろう。その一因であるところの日本の側の行為が完全に無視されている。
南京事件否定論の背景と日本政府の不作為
証拠隠滅を図った加害者の側が居丈高に、被害者に向かって「結局どういうことがあったのか正確に示せ」などという態度をとることがどれだけ醜悪かに思い至らないのだろうかと思う。典型的なセカンドレイプの構図なのだけれども(昨日のコメント欄に典型的なのが出てきたけれど)。

以下の記事で引用されている秦郁彦の言葉も参照。
「30万人殺害されたとは言い切れない」と「30万人も殺されていない」の間の差 - Apes! Not Monkeys! はてな別館

奥野元国土庁長官は「中国政府にかけあって紀念館のかかげる三十万の数字を訂正させろ」と迫って外務省を困惑させたが、代わる数字の持ちあわせがあったのだろうか。へたな数字を持ち出して根拠をただされれば恥をかくだけで、終戦直後の泥ナワとは言え、生きのこり被害者の証言を積みあげた三十万に対抗できる数字をわが方から出すのは不可能と思う。
(「論争史から観た南京虐殺事件」、『昭和史の謎を追う』所収)

こと南京事件に限れば、中国の不作為は日本の不作為と密接に絡んでいるので、日本の側をスルーして中国を批判するのは、そこら辺の経緯を失念しているか知らないのか、あるいは意図的に無視しているのか、どれにしたところで不誠実の誹りを免れない。日本が原因になっていることで中国を批判するというのはどう考えても無理があると思う。

中国を批判することは結構だけれど、きちんと筋を通してやってもらいたいと思う。なにも南京事件という一番日本側に分の悪いものを持ち出さなくともネタはいくらでもあるだろうに。


ねじくれた「被害者」意識

書き残したことを追記 6/5

上に書いたように、一部、日本の行為が等閑視されているばかりか、中国が賠償を求めているから認めないのだ、というような主張をしている人がいる。以下にあるとおり
南京事件を認めると謝罪と賠償が求められ国益を損なう、と見えない恐怖に脅えている人について - Transnational History
日本はそもそも公的に南京事件の加害事実を認めており、そもそも中国は謝罪や賠償を求めているという事実が存在しない点で完全に意味がない。

例えば以下のようなコメントだ。

これは、完全に原爆と同じ構図。取り敢えず被害者数を水増ししておけば、日本政府から賠償金やら義援金やらの特権を駆使できますからね。中国人も、ヒバクシャも、どいつもこいつも鬱陶しいったらありゃしない。
「でも、30万はウソなんでしょ?」とか「30万人説を否定しただけ」という発言 - Close to the Wall

これはなんと被曝者までもを一まとめに罵倒してみせた今回相当ハイレベルの極悪さをみせているコメント。

eiji8pou はてな, 中国 ごちゃごちゃ言わねえで何人だったかはっきりさせろや。容疑もはっきりせんのにシャザイもバイショウもあるもんか。
はてなブックマーク - eiji8pouのブックマーク / 2009年6月4日

こちらはブクマだけれど、あんまり酷いので採録。完全に当たり屋や強請の語法でしょう。加害国側の人間が被害者側(プラス左派)に向けて当たり屋の語法で難詰するというルナティックなアクロバットが披露されており大変興味深い。

興味深いのは、こと南京事件については日本は相当分の悪い加害者なのに、この手の人々は何故か被害者の語法で語ることだ。しかも「不当」に賠償や謝罪を要求されている、という認識が前提にある。

デマを根拠に自らを被害者気取りしている加害者という図式の醜悪さは異常。

これはやはりhokusyuさんが論じた「責任」意識にかかわる反応なのだろうか。応答責任を端的に不快感と見なし、すべてを相手側の責任として投影する。そもそもが最初から感情論なのだろう。

そうした人々の語法は、彼ら自身が相手側に見出しているものとほぼ同一のものとなる。例示したものでは、「中国が我々を強請っている」ということへの批判が「デマを根拠とした強請の語法」として表現されているように。前の記事でも書いたように中国をデマだと批判する側こそがデマに引っかかっているというような罠にはまっている。

むしろ問題は、中国叩き以前に、中国を何故叩かなければならないか、というところにあるのかも知れない。被曝者批判を晒した彼が端なくも露呈したように、根本的に被害者が権利擁護を訴えること全般に対する責任意識へのリアクションの一例だとは言えるだろう。



と記事をアップする直前についたブクマもある意味で典型的なので取り上げる。

yamuyam 数字を過小に見積もるのが修正主義ならば、過大に見積もるのもまた修正主義のはず。前者は非難されるが、後者はスルー。むしろ多ければ多いほど好都合みたいな空気さえある。その非対称性に人は興味を惹かれるのでは
http://b.hatena.ne.jp/yamuyam/20090605#bookmark-13818701

とにかく史実派や中国側の印象を不穏なものにしたいのだなという意図だけがだだ漏れになっている典型。歴史修正主義というのは、過小に見積もることでも、過大に見積もることでもなく、歴史学的な手続きを無視してそれを行うことというのは繰り返し主張されていることだ。よくある偏見による錯誤(あるいはデマ)の一例。そして、被害事実に対して過小に見積もることの非倫理性を無視して過小に見積もることのみが批判されるのはおかしいとするような認識はセカンドレイプ擁護と同類で、それをさも第三者を気取った書き方で主張するあたりの厚顔無恥さには本当にうんざりさせられる。多ければ多いほど好都合って、誰にとってだ? で、誰が過大な数をスルーしているんだ?
この記事で批判した当のものがコメントに現れるという典型例でもある。記事を読んで書いているのか不思議だ。