今、アーノルド・シュワルツェネッガー再評価の機運がひそかに高まっている。『ターミネーター』の新作の撮影開始がアナウンスされ、今週末には立て続けに『コマンドー』『ラスト・アクション・ヒーロー』という彼の代表作が新文芸坐(東京・豊島)で限定再上映。チケットは完売する勢いだ。
そんな機運を大きく盛り上げたのが今年8月に刊行された「シュワルツェネッガー主義」。同書はシュワルツェネッガーの生い立ちから、全盛期の80年代、政界への進出と波乱に富んだ彼の人生を、出演作の裏に隠された驚きのエピソードと共に描き出す。著者、てらさわホーク氏は80年代からシュワルツェネッガーの映画は必ず公開日に鑑賞してきたという生粋の「主義者」。そんな彼が、今見直しておかないと損をする! というシュワルツェネッガーの知られざる魅力を語った(聞き手はTVディレクターの稲垣哲也氏)。
――「シュワルツェネッガー主義」、本当に面白く読ませていただきました。
てらさわ: ありがとうございます。
――タイトルから、どういう本なのか想像がつきませんでしたが、1本の映画を見るような感じで読めて、てらさわさんのシュワ愛を感じました。
てらさわ: わりとニュートラルな立場で書こうと思っていたんですが、やっぱりそうなっちゃうものですね(笑)。
――しかし、なぜ今シュワルツェネッガーについて書かれようと?
てらさわ: 雑誌『映画秘宝』でかれこれ18年ぐらいずっとお仕事をさせてもらっていたんですけど、まとまった仕事は実はしていなくて、田野辺さん(※注:元映画秘宝編集長。現在はさまざまな映画関連書籍を企画)から、「もういい年なんだから本を出そう」というお話をいただいて。そのとき、パッとひらめいて、「シュワルツェネッガーでどうですか?」と言ったら、一瞬、沈黙があって。「まずい」と思ったんですけど、「今までシュワルツェネッガーについてまとめたものを誰も書いてないんじゃないですか」と。
――そうですね。
てらさわ: 確実に一時代を築いて、あれだけ稼いで、人気者になった人が、今では割と語られなくなっている。語られることがあったとしても、「80年代にこんな人がいた」という面白ネタみたいな域を出ない。だけど、よくよくその作品について考えてみると、意外と語りシロはあるぞと。誰かがこれをまとめないといけないと思うんですよ、という話をしたら、「何かよく分からないけどやってみろ」というふうに大英断をもらいました。
――僕はてらさわさんと同世代ですが、80年代後半に中高生だった僕たちにとってシュワルツェネッガーは特別な存在で、本1冊かけて彼を掘り下げるというのはとても斬新な企画だと思いました。
てらさわ: 例えば、僕らの5歳から10歳上の先輩だと、もうちょっと立派な映画体験がある。彼らはスタローンの『ロッキー』シリーズでも、映画館で最初に見たのは第1作の『ロッキー』(日本での公開は1977年)。でも俺たち世代は『ロッキー3』(1982年)からです!という。
――そうですね。僕、『ロッキー4/炎の友情』(1986年)かもしれないです。
てらさわ: 『ロッキー3』とか『ロッキー4』は、もちろんいい映画です。いい映画だけど種類が違うよね、という。『ロッキー』第1作の話を半笑いでする人っていないと思うんですね。だけど『ロッキー3』とか『ロッキー4』とかってみんな半笑いというか、全笑いじゃんという。それでいいのかと思うし、そこに関してまじめに何か作品として話をしている人っていなくない?と思ったんです。
――確かに。
てらさわ: 筋肉スターが出てきて、何かざっくりしたことをやっていたという。それで終わってしまってもいいのかと。まあ、恥ずかしい言い方をすると、そういう映画こそ自分を作ってきたものじゃないですか。だから真面目にやろうと思って。
シュワルツェネッガーは無意識に映画の常識を揺さぶってきた
――てらさわさんが指摘されていますが、1986年公開の戦争アクション『コマンドー』にはストーリーやドラマがない。しかも主人公に葛藤や迷いもなくて当時すごく新鮮でした。同世代のアクションスターのシルベスター・スタローンはもっとドラマ重視な感じがします。
てらさわ: スタローンってわりと作家なんですよ。監督も脚本も自分でできる。シュワルツェネッガーはそういう才能が一切ないので、自分を人気者としてかっこよく見せる、ということにフルスイングできるというか。物語性とか、ドラマ性みたいなところで自分を良く見せることにあんまり興味がなかったのかなと思います。
――人間的な深みのようなものは自分には必要ないと?
てらさわ: 彼なりにそういう欲求はあったと思うんですけど、割とボディービル的な見せ方をしようとしたのかなと。見た目の美しさだけを突き詰める表現主義みたいなところはあると思います。
――シュワルツェネッガーの主演作品では、主人公が負ける気が全くしません。アクション映画というのは、普通だったら、「あ、危ない!」というハラハラドキドキを観客にさせるべきなのに、それを全くさせないというのは何なんだろうと思います。
てらさわ: そうなんですよね。ただ、そのことについて考えていて、意外とシュワルツェネッガーだけじゃないよね、というのは思ったんですよ。シュワルツェネッガーのことを考えていたらだんだん「映画とは何か」ということについて考え始めるようになりました。
――そこまで考えましたか!
てらさわ: あえて『シュワルツェネッガー主義』には書きませんでしたけど、要するに、トム・クルーズにしたって、まさか『ミッション:インポッシブル』の途中でトムが死ぬとは誰も思わないじゃないですか。
――まあ、そうですね。
てらさわ: だとすると、みんな何をハラハラしているんだろう? と最近思うようになってきて。
――スターが死ぬわけないじゃん、と。
てらさわ: ヴィン・ディーゼルの主演映画だってアンハッピーエンドはないじゃないですか。そうするとアクション映画における、スリルとかサスペンスとかって一体何なんだろうと。
――確かにスターの映画なら、主人公は死なないし、テロリストの爆弾は爆発しないよね、みたいなことは思いますね。
てらさわ: そうそう。死ぬわけないでしょうと。そう考えるとシュワルツェネッガーはかなり早い段階で、その疑問をすでに超越していたんですよね。
――一歩先へいっていましたね。
てらさわ: 僕がそういう疑問を持ち始めたのはつい最近なので。スリルとサスペンスとは一体何なんだと。シュワルツェネッガーの映画をずっと 見ていたら、もはや映画とは何かというところまでいきました(笑)。
――実は、『コマンドー』のようにストーリーがない映画って最近多い気がします。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年)もストーリーは相当シンプルですよね。
てらさわ: そうですね。A地点からB地点に行って、A地点に戻るみたいな。そういうことを実は『コマンドー』が先駆けて実践していた気がします。
シュワルツェネッガーの特異点『トータル・リコール』
――著書の中で、1990年公開のSF超大作『トータル・リコール』は特異点だと書かれています。地球で暮らしていた平凡な男(シュワルツェネッガー)が実は記憶をなくした火星を解放するレジスタンスだったというお話ですが、てらさわさんの中でどういった位置付けなんですか。
てらさわ: 見れば見るほど変な映画で。『トータル・リコール』には物語はありますよ。だけどそれが一体どこに進むのか、よく分からない。SFアクション超大作なのに変なことをしている、と思いました。
――エンタメ映画なら「宝物を見つける」とか、主人公に目的が必ずあるわけですよね。
てらさわ: そう。ゴールが分からないんですよ。多分それは最初から設定して作っていなかったせいだと思うんですけど。実際どう終わるか、ぎりぎりまで誰も考えてなかったという話なので。
――あんな超大作なのに?
てらさわ: やっぱりシュワルツェネッガー本人には作家性はないんですけど、わりと個性の強い監督をちゃんと捕まえてきて、「好きにやってくれ」という人なので、それが影響していると思います。
――『トータル・リコール』は監督がポール・バーホーベン(『ロボコップ』『スターシップ・トゥルーパーズ』などを監督)ですもんね。すごいタッグですね、今考えると。
てらさわ: だからそれがあの1回きりになってしまったのは本当に残念です。
――僕もあれ、中学生のときに見て、確かに最初は面白いんですけど、最後のほうはだんだんモヤっとしてくるというか、「これで良かったんだっけ?」みたいな。
てらさわ: そうなんですよね。何の話だったのと聞かれると、「えっと……」となるじゃないですか。よくそんなことをやったなと思う。
――シュワルツェネッガーは役者なのに、映画に出るだけで作家性がにじみ出 てしまうのでしょうか。
てらさわ: と思うんですよね。ただプロデューサーが持ってきた脚本に、「何だ、これ?」とか思いながらも、わりとまじめに仕事を全うしていたりするので、この人のエゴの方向性がよく分からないというのもあります。
「俺って何なんだろう」という不安を常に抱えている?
――てらさわさんも指摘されているように、シュワルツェネッガーは『トータル・リコール』を代表として、「自分はいったい何者なんだ?」という不安を抱えるキャラクターを実はよく演じています。後の作品では、『シックス・デイ』(00年)もそうで、自分のクローンに知らぬ間に生活を乗っ取られるという映画でした。
てらさわ: そこについては僕の中に2つ仮説があって、1つはやっぱり「俺って何なんだろう」というアイデンティティーの不安が、たぶん無意識下にあったんだろうと思うんですよ。わりとトントン拍子で生きてきているので。苦労らしい苦労ってあんまりしてないんですよ。
――幼少期に父親に対するコンプレックスは、あったみたいですね。
てらさわ: でもそれぐらいでわりとその後はうまくやっているんです。まあ、運良く生きてきていて、あんまり挫折もしてないんですよ。だから「何かうまくいっちゃったけど俺、大丈夫なのかな?」という、そういったぼんやりした不安があったのではないかという。自分が誰だか分からない、というテーマにこだわったりしたのかなというのが1つの仮説です。もう1つは、よくもう1人の自分を映画に出すんですけど、それは多分「俺が2人いたら面白いだろう」と思っている!
――なるほど(笑)。
てらさわ: 多分そっちだろうと思っているんですけど。「俺が2人画面に出てきたらお得だろう」と。周りの人も、「そうですね!」という。
――掛ける2だからな、みたいな。
てらさわ: 「ギャラは1人分でいいぜ」と、多分言ったなと。
――なるほど。言ってそうですね。
てらさわ: 言ってますね。
――『トータル・リコール』を見て、確かこれ、原作がフィリップ・K・ディックだけど、シュワルツェネッガーが出てアクションしているところを見ていると全然ディックじゃないという。この不思議な感じが、他のすべての作品にも言えると思うんですけど。
てらさわ: そうなんですよ。 でも主人公が葛藤していればいいのかって、さっきも出てきた「葛藤」というフレーズ。作品の中でシュワルツェネッガーは「俺は一体誰なんだ、本当の俺は一体どこなんだ」と言っているけど、観客が彼と一緒になって悩み苦しむような感じでもない。
――そうなんですよね。だから観客が彼に感情移入ってするのかな、というのは疑問なんですけど。
てらさわ: そこもやっぱり重要な部分で、多分してないと思います。そうすると、果たして「感情移入」って映画にとって必要な要素なのかなと。
――エンタメ映画では登場人物に感情移入できることが重要だといわれますが、感情移入しなくても楽しいじゃん! ということをシュワルツェネッガーの映画が示してしまったという。
てらさわ: そうなんですよ! 映画におけるスリルとかサスペンスとは何かという話とか、感情移入という要素は本当に必要なものなのかとか。それがないと映画というのは立派なものじゃない、ということになるのか。そうじゃないよな、というふうに今回、本を書いてみていろいろ発見がありました。
――すごい作家性ですね。シュワルツェネッガーの存在自体が、映画の在り方を根底から揺さぶってきたという。
てらさわ: そうっちゃ、そう言えます(笑)。
(聞き手・構成/稲垣哲也)
<後編「シュワちゃん人気は“恐竜”に食われた? 実は黄金期は5年だけ」に続く>
[ 日経トレンディネット 2018年10月18日付の記事を転載]
登録会員記事(月150本程度)が閲覧できるほか、会員限定の機能・サービスを利用できます。
※こちらのページで日経ビジネス電子版の「有料会員」と「登録会員(無料)」の違いも紹介しています。