読書でなく「視書」
山口瞳さんが、エッセイ(「活字中毒者の一日」)で、「読書」をこう定義づけている。
<読書とは、一般に固いものを読む。古典を読む。研究書を読む、専門書を読む、あるいは、小説でも、一人の作家をまとめて読むということになろうか>
小説家という職業の人の定義であって、一般の人に当てはまるかどうかは疑問のあるところだが、私のようにテレビを観る代わりに本(主にエンタメ系)を読むといった読書は「読書」とは言わないのだろう。すると何と言えばよいのだろう。やはりここは「視書」といった方がぴったりくる。これからは、「読書」という言葉を使わないよう気を付けようっと。
「唱いたい(=小説を書きたい)人がすごく増えた→彼らが大挙カラオケボックス(=新人文学賞)に押しかけている→しかし所詮はカラオケ、数の多さが水準の高さに直結しない>
という今の状況を斎藤美奈子さんは「純文学のカラオケ化」と呼んでいる。そして、その原因を、次のように卓抜に説明してくれる。
「一発当てるにはまんが家かミュージシャンの方が効率が良いが、そっちの才能はないので文章が選ばれる。だが本格エンタテインメントとは技と知識の蓄積がいる。ノンフィクションには取材が不可欠。シナリオも多少は勉強が必要だ。手間暇かけず、日本語が書けるだけでイケそうな分野って、身辺雑記的なエッセイか純文学くらいなんだよね」(斉藤美奈子「読書は踊る 字さえ書ければ、なるほど人はだれでも作家になれる」)
この文章を読んでう~ん、と唸ってしまった。「身辺雑記的なエッセイ」と言われると私にはすぐ「ブログ」が思い浮かぶ。だが、今や手軽さではツイッターの方に軍配が上がる。短ければ短いほど手軽であれば手軽であるほど重宝される時代なのだろう。
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