司馬遼太郎を読み直して。(2)
「歳月」(司馬遼太郎)は、佐賀の乱を引き起こした江藤新平を中心に、維新後の新政府の変節に嫌気がさした西郷と、何とか維持していこうとする大久保との葛藤や、薩長土肥の元藩士たちの思惑と行動など、維新後の混乱の「歳月」を描いている。司馬さんの本を読んでいると「ノンフィクション」と勘違いしがちだが、間違いなくノンフィクションではなく見てきたような嘘を描いた「フィクション」なのだ。その「フィクション」を描く方法を司馬さんは次のように語る。
<「ビルから下を眺めている。平素、住みなれた町でもまるでちがった地理風景に見え、そのなかを小さな車が通ってゆく。そんな視点の物理的高さを、私は好んでいる。つまり、一人の人間をみるとき、私は階段をのぼって行って屋上へ出、その上から改めて覗き込んでその人を見る。同じ水平面上でその人を見るより、別な面白さがある」
「歴史が緊張して、緊張のあげくはじけそうになっている時期が、私の小説には必要なのである。この場合、歴史の緊張とは、横合いから走って来ている『自動車』とみていい。その驀進のなかに、私の見ている人間と、その人間の人生を置いて交差させてみる。そこになにか起こりうるか、起こったか、ということを考える楽しみが、私のいわば作業である。(「私の小説作法」)>
私たちは、司馬さんのその「考える楽しみ」から生まれた作品を楽しむ僥倖に恵まれている。余計なことを考えず、ただ「楽しむ」ことを司馬さんも望んでいたに違いない。
さて、「ぼくはなんらかの情熱を持った男――これは「漢」の字をあてた方がふさわしいかもしれないが、その男たちのこっけいさと悲壮さを書いているのです。情熱的になればなるほど内面は悲壮となり、またこっけいにもなる。変革期にはそれがそのまま鋭角に現れる」と著者が語っているように本作もまた、悲劇的な最期を遂げる江藤新平、あくまで「政治的に立ち回る」大久保利通、そして英雄的革命家西郷隆盛三人三様の「悲壮さとこっけいさ」を描いている。「世に棲む日々」で描かれた高杉晋作の英雄性や明るさは本作にはない。それは「事を成し遂げる」人と「事がなった後」を処理する人との相違でもあるのだろう。明治維新は中途半端に終わった革命だったからこそ、革命の途上で斃れていった人々の思いから遠く離れたものになったという司馬さんのため息が聞こえてくる作品だ。