記憶の放物線
「記憶の放物線」(北上次郎)のサブタイトル、「感傷派のための翻訳小説案内」に騙されてしまった。たしかに「案内」だが、むしろ「北上次郎案内」と呼んだ方がふさわしく、北上さんの「記憶」から過去の友人や家族とのエピソードをとりだし、それに関連する「翻訳小説」を取り上げている。 ところで、本を読むのは好きだが、翻訳小説は高校生の時にドストエフスキーやトルストイなど有名な小説を読んで以来、ほとんど読んだことがない。それは日本の小説が面白いせいもあるが、カタカナの名前が良く覚えられなくて、誰だったか前に戻って確認することにイラつくから読もうと思う気が起きないのだ。自らを「感傷派」と認める北上さんは「あとがき」でその「感傷派」たる所以をこう述べている。
<たとえば、幼い少女と弟がとうもろこし畑を歩くシーンが出てきたりすると、自分にそんな経験はないくせに、途端に切なくなってくるのである。この幼い姉弟の蜜月はいまだけのものだ、大きくなるにつれて、この二人はそれぞれの人生を歩み出して、いまの蜜月を忘れていくに違いない。とかなんとか考え出すと、もう止まらないのである。あるいは幼子が笑っている姿が出て来るだけでなんだか哀しくなってくる。その子がのちに死んでしまったとか、親の期待に反した人生を歩んだというのならまだ理解しやすいが、多くの場合それは、ただ幼い頃の風景に過ぎない。それなのに、そんな笑顔を見せるのは幼いうちだけだと考えるので哀しくなってくるのである。作家の意図を離れて、勝手に胸キュンしてしまうのである。本人が一番困っているのである>
何だこれではまるっきり「悲観主義者」ではないかと思われるかもしれない。確かにその傾向はあるが、優しいのだと思う、他者を決して傷つけまいとする優しさを身に着けた人なのだ、と。