「検察側の罪人」
「ジ・アメイジング・バド・パウエルvol.2」。このアルバムには私の好きな曲「ニューヨークの秋」が収録されている。この曲の演奏ナンバー1はデクスター・ゴードンのテナー・サックスだと思うが、ピアノ・トリオもしっとりして良い。
<二回目のレコーディングの前日にあたる1951年4月30日、ニュージャージー州イングルウッドの自宅にパウエルを招く。落ち着いた時間を過ごし、翌日一緒にスタジオに行こう。そう目論んだ。だが翌朝、朝食をとっているテーブルにライオンが飼っている猫が跳びのった瞬間、パウエルは半狂乱に陥る。ナイフを手に猫を殺そうと追いかけまわすピアニスト。(中略)
1953年、保護観察つきで社会復帰したパウエルにライオンが手を差し伸べたとき、この「壊れた天才」は、そのこなごなに砕け散った破片を拾い集めてふたたび「アメイジング」な演奏をくりひろげる。(「超ブルーノート入門」 中山康樹)>
「検察側の罪人」(雫井脩介)を読み始めて思ったのだが、このタイトルはどうだろう? 検察側が犯罪を起こすのだからこれで良いのかもしれないが、読む方にとってはこれから何が始まるのかという期待を殺がれてしまう。感動的なラストから「正義の慟哭」とかの方が良かったのでは。
<手堅い仕事ぶりで定評のある実力派検事・最上毅。彼には忘れられない事件があった。学生の頃、下宿していた寮の大家の娘が、卒業して下宿を出た4年目の春に殺害されたのだ。犯人逮捕に至らず、法改正で時効が撤廃される前に時効が成立してしまった。事件当時司法試験に足踏みをしていた最上には何の力にもなれなかった悔いだけが残った。その寮の先輩だった新聞記者の水野は週刊誌に転身してまで、事件を執拗に追い犯人と思しき人物の調査をしていた。その事件とは関係なく老夫婦が殺害されるという凶悪事件が最上の勤める管内で起きた。捜査線上にあがった不審人物のひとりに聞き覚えがあった。それは、大家の娘が殺された事件で重要参考人にあがっていた松倉という男だった……。慟哭のラスト、検事であるからこその罪を描いた著者渾身の力作。
「どうしてもその道を進まざるを得ないという二人の男が師弟の絆を引きちぎれんばかりに軋ませて、ぶつかり合う物語です。」(著者)>