百年文庫(98)
第98巻は「雲」(トーマス・マン・野田倬訳「幸福への意志」 ローデンバック・高橋洋一訳「肖像の一生」 ヤコブセン・山室静訳「フェーンス夫人」)
<「雲」というと、しばしば人の生き様に喩えられる単語です。山村暮鳥の「おうい雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきそうじゃないか/どこまでゆくんだ/ずっと磐城平の方までゆくんか」という詩もあるように、些事にこだわらない飄々とした姿を思い浮かべる人も少なくないでしょうが、この巻に収録されているのは、強い意志を貫いた名も無き人々の生き様を描いた三篇。作者はすべてヨーロッパ人で、トーマス・マンはドイツ文学を代表する文豪、そしてローデンバックとヤコブセンは小国(デンマークとベルギー)出身の、持てる才能を存分に発揮する前に早世した作家です。作者のほうはそれぞれにドラマチックな人生を歩んでいますが、自分たちの意志を貫いたという点では同じだなあと、資料を読んでしみじみ。彼らの作品をぜひご一読ください>
「幸福への意志」は、病に冒されながらも激しい恋に殉じる青年の一途な想いを描いた作品。青年の強い意志は病をも克服したように見えるが、やがてその強い意志が実を結び青年はその想いを遂げることができるのだが…。
「肖像の一生」は、未亡人となり娘の成長だけを頼りに生きていった女性の半生を描いた作品。大事に育てた娘を、資産目当ての男に奪われ、傷心した彼女はやがて修道女となるが、やがてその娘は悲惨な結婚生活のせいで二人の娘を残して死んで行く。残された二人の孫娘を、財産目当ての父親から護るため未亡人は必死になるのだが…。本作では、孫娘たちの身の上の暗雲を取り払い、幸福へ誘おうとする強い意志が描かれている。
「フェーンス夫人」は、失恋した娘の傷心を癒すため南仏を旅行していた未亡人が、かつて自分が愛した男と再会し、男にプロポーズされ娘と息子の猛烈な反対にあいながらも再婚する物語。著者は「種の起源」のデンマーク語訳も手掛けている。ドイツの詩人リルケに「私はどこにいようと、いつも私の持ち物の中にあるのはただ二つ、すなわち聖書とデンマークの偉大な詩人ヤコブセンの書物です」と記している、とあるが、私には描写がくどく感じられた。原語で読むとまた違った感じを受けるのかもしれないが。たとえば失恋した娘の焦だちを表わす場面はこんな風だ。
「エリノオルはここでは目に立つほど焦だっていた。と言っても生き生きとして憤りの焦立ちではなくて、幾日も降り続く雨とともに悲しい思いがすべて降りかかってくる時に感じるような、あるいは人がぼんやりと坐ってどうしようもない倦怠に陥っている時に、柱時計の愚かに慰めがおなカチカチを聞く時のような、または私たちの絨毯の花模様のすりきれて糸目の見えるその夢想の環が、私たちの意志にそむいて頭の中で旋回しては、ある種の息苦しい涯しなさで、結ばれては解けてまたもや結ばれる場合のような、おずおずして倦み疲れた焦立ちであった」。
本作では若き日の報われなかった愛を取り戻そうとする強い意志が描かれる。
<著者略歴
トーマス・マン Thomas Mann 1875-1955
ドイツの小説家・評論家。1901年の『ブッデンブローク家の人々』で文名を確立、29年にノーベル文学賞を受賞した。ナチスが政権を握ると亡命生活を送りつつ活動。文学、哲学、政治に関する評論も多数ある。その他代表作に『魔の山』『ファウスト博士』など。
ローデンバック Georges Rodenbach 1855-1898
ベルギーの詩人・小説家。ブリュッセルで弁護士として活動する傍ら、ベルギー文学復興を目指す「若きベルギー」に参加。その後はパリに居を定め、故郷フランドルを背景にした作品で好評を博した。代表作に『死都ブリュージュ』『霧の紡車』ほか。
ヤコブセン Jens Peter Jacobsen 1847-1885
デンマークの小説家。大学で植物学を専攻し、藻類の採集・研究に没頭。その後文学に転じ、清新な作風で注目を集めたが、植物採集の影響で胸を病み、早世した。ダーウィン『種の起源』の翻訳も手がけている。代表作に『マリイ・グルッベ夫人』『ニイルス・リイネ』ほか。