「ポルノ・バッハ」
久しぶりに詩を読んでみようと図書館から借りて来たのが、「詩のレッスン」(入沢康夫編)。冒頭、この本を読む読者のため、入沢康夫さんから熱いメッセージが送られる。
「詩に接するのに≪解釈≫はいらない。頭で詩を理解しようとすることには、何の益もない。すぐれた絵画や音楽や映画に感動しているとき、私たちは≪解釈≫しているだろうか。解釈ではなくて、心を開いてメッセージを≪感じ取る≫こと、≪共に魂をふるわせる≫ことだ」
このメッセージを頭に、ゆっくりひとつひとつの詩を読んでいく。
最初の方にでてくる、白石かずこさん(私にはこの人の詩が難解で良く解らない)の、
<「美学のための美学を旗印にした技術偏重の言葉の魔術師からソールの詩に変わ」り、「長いコルトレーンの演奏に似た書き方、詩の疾走法」を身につけた>
という詩(「黄色い詩」)を読んでみたが… ≪解釈≫しようとしたわけではないが、≪感じ取る≫ことができなかった。
そのすぐ後に登場した大御所谷川俊太郎さんは、バッハ(「ポルノ・バッハ」)を、「詩の疾走法」の最先端を行く吉増剛造さん(この人の詩も良く分からないが、いつも≪感じ取る≫ことを心がけては、いる。)はモーツアルト(「燃えるモーツアルトの手を」)を題材にする。
このお二人の詩を比べるつもりなどさらさらないが、一見ちゃんとした文章のつながりがあるように見えるので解りやすいと「感じる」のは、谷川さんだ。この詩は、「ポルノ」というより「エロス」と言い換えた方が似合うような気がするが、言葉の強い選択力にこだわる詩人にとって、ここは「ポルノ」しかないのだろう。
<「ポルノ・バッハ」 谷川俊太郎
ついさっきまでバッハを弾いていた指と
これはほとんど同じ指かい
ぼくのこいつはのびたりちぢんたり
ピアノと似ても似つかぬ
こっけいな道具と言うしかなくて
こんなありきたりのものと
あの偉大なバッハがきみに柔らかい指先で
どんなふうにむすびつくのか
ぼくにはさっぱり解せないんだ
でもきみのものもぼくのものも
いまはむき出しの心臓のいろ
そのあたたかくなめらかな感触に
死ぬようにきりもなく甘えてゆくと
いつか血の透けて見える暗闇で
ぼくもひょっこりバッハに会えるかな>
う~ん。「むき出し」てしまったら、やはりポルノなのかなぁ