「詠む」より「読む」方が楽しい
短歌を自分で創ってみようと思い立ち、無理やり定型に言葉をあてはめ「短歌もどき」を創り始めたのが、十数年前。そして全く作らなくなって、10年になる。私の短歌人生は数年で終わってしまったのだ。
短歌を創り始めた頃は「何が何でも、まず百首」とばかり、いつでもどこでも指折り数えては短歌を作るのが楽しくて仕方がなかった。まさに「短歌したい日々」だったのだ。そして、その頃のことを思い出してみれば、自分が創った短歌の巧拙など全くといっていいほど、気にならなかった。もっとも、短歌の巧拙がイマイチ良く分からなかったということも影響していることは否めないのだが。
では、巧拙ということを気にし始めたのはいつ頃からだったのだろうと思い出してみると、それはどうも色々な人の短歌を読み始めたときから始まったようだ。そして、その巧拙を気にし始めた途端、短歌が創れなくなった。創れないというよりも、うまく創ろうとするあまり、創ったものをいじくり廻して、結局は破棄してしまうという負の循環に陥ってしまったと言ったほうが正確かもしれない。
福島泰樹さんや、村木道彦さん、道浦母都子さん、ちょっと変わったところでは穂村弘(札幌在住ということで何故か親近感が持てる)さんなどの歌集を読んでいると、「あ、そうかこういう風に創ればいいんだ」と短歌を創ることなど簡単なことに思えてきた。
ところが、自分の創った短歌を読み直してみると、散文を定型に当てはめただけで「詩」がないことに気づく。もしかして自分には短歌という表現形式は向いていないのではないかと、自信を失い短歌が創れなくなってしまってもう十年になる。
ところが、つい最近、と言ってもここ半年ぐらいのことであるが、人の創った短歌を読み「あ、これいいな。これ好きだ」と思うと、やはり自分も書いてみようかという気持ちになることが多くなった。
そこで、どうして短歌離れしていったかということを冷静に振り返ってみると、どうも自分で創った短歌の巧拙にとらわれすぎていたのではないかということに気がついた。自分の創った短歌を歌集にして出版しようとか、ましてやプロの歌人になろうとしていたわけでもない。要は、趣味としてその時感じたことを短歌にして残しておこうと思って始めたのである。大事なことは「好きなことを楽しく」ではないか?肝腎なのは短歌の巧拙ではなく、短歌を楽しむことではないか、と。
そんなわけで、私の短歌との付き合い方は「下手でいいじゃないか楽しければ。短歌したい日々を送ろうよ」ということになったのだが、う~ん、やはり「詠む」より「読む」方が楽しいと思う今日この頃である。
かつてこんな短歌を詠んだことがある。
字足らずで生きてきたゆえ定型にあこがれ今日も指折りており
饒舌に倦みたる夜に詠む歌は何故か字余り不器用 我は
下手ですと居直る我は赤面の口もごもごのああ意地っ張り