2022/05/26

「日暮れ竹河岸」

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 藤沢周平「日暮れ竹河岸」

 帯には「最晩年の名品集」と謳っているが、風景をスケッチしているような作品集だ。特別の思い入れを排して「あるがまま」を描こうとしたかのように淡々としているけれども、そうであるが故に哀しみが伝わってくるようだ。なかでもイチ押しは「飛鳥山」。三十を過ぎた孤独な女が、花見に来て偶然見かけた可愛い女の子を急に自分のものにしたくなり、みつからないように胸に抱いて走って逃げる場面で終わるのだが、

 <子供の幼い脳裏に、切れ切れの光景が点滅する。もっと暗かった。その暗やみの中を女が走っていた。そして自分はちょうどいまのように、女の首につかまっていたのだ。やがて走っているのは母親だとわかった。いま自分を抱いて走っているのも、母親だろうか。

 子供はささやいた。

「おっかちゃん」

「おう、おう」

 と女は答えた。胸に抱いているのは、生まれるはずだった自分の子だと思った。突然に、女の目から涙があふれ出た>

 こうして、もう一つの「八月の蝉」の物語が始まる。

「おう、おう」

女の声が聞こえてくるようだ。

<作者秘愛の浮世絵から想を得てつむぎだされた短篇名品十九篇。市井のひとびとの陰翳ゆたかな人生絵図を掌の小品に仕上げた極上品

(担当編集者より)久々の作品集です。掌篇十二、短篇七、全十九篇で構成。長篇小説ばかりが目につく昨今、ちょっと類のないこころみでしょう。十二の掌篇は各十枚、わずか四千字の小さな物語で、かつて「江戸おんな絵姿十二景」という総題で雑誌掲載。作者秘愛の浮世絵に想を得て書かれたものです。また七つの短篇は同じ趣向で広重の風景画がモチーフ。どうぞごゆっくりとご味読ください。