本好きの話
こんな文章を読むと、きっと本好きは思わずそばにある本を抱きしめたくなるのではないだろうか。
<(伏せてある本の)ページの反対側にはまだ見ぬ世界が隠されており、本はその伏せられた形によって残りの世界に戻るための入り口を示している。(中略)
(本の)一ページ一ページに刻まれている言葉の意味は、本当はその箱に収まりきれないほど深遠なのにそんなことは素振りにも出さず、誰かの手によって開かれるのをじっと待っている。その辛抱強さを尊いと感じるようになった。(小川洋子「ミーナの行進」より)>
これはもう読書というより「本」そのものへの愛の告白と言っても過言ではない。中身もさることながら、本の形そのものを愛しているのだ。
三浦しをんさんの読書エッセー「三四郎はそれから門を出た」のあとがきにこんな一節がある。
<「子供に絵本を読み聞かせる」とかでないかぎり、たいていの場合、読書とは一人でするものだろう。だけど不思議なことに、本当に一人きりにはならない。登場人物と一緒になって世界を体感できることもあるし、作者の言葉が胸に迫ってくることもある。たとえ、実在しない人物であろうとも、作者がとうの昔に死んでしまっていようとも。
そしてまた、読みながら、読み終わってから、「この作品は、あの人の好みにずばり直球ストライクだろうな」とか、「この作品について、ぜひだれかと語り合いたい!」などと、思いを馳せることもできる。
一人きりでする行為のように見えて、常にだれかとつながっている。
時空も、虚実の狭間を超えて。だから私は、読書が好きだ>
ふ~む、なるほど。そういう読書の方法もあるのかと蒙を啓かされた。
私の場合、やはり読書は一人きりの行為のような気がする。
誰にも邪魔されず、たった一人で、その書かれた本の中に入っていける行為のような気が。そしてつながるのは作中の人物とであり、決して生身の人間ではない。あくまで架空の世界のできごとなのだ。
そんなわけで、三浦さんが書いているようなことを今まで考えたこともなければそんなことを思いついたこともなかった。だが、冷静に考えてみるとこうして三浦さんの文章について書いているということは、「この作品について、ぜひだれかと語り合いたい!」という欲求の表れであるのかもしれない。だが、生まれつき人見知りする私は「語り合う」だれかを求めるより、「だれか『に』語りたい」という欲求に抗いきれず、こうしてブログを書いている。これもまた私の読む楽しみの一つということになるのであろう。さてと、次は何を読もうかなぁ。