2024/11/19

昭和時代回想

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関川夏央さんの「昭和時代回想」は、10数年前に読んだはずだが例によって細部はほとんど忘れている。第一章は「いわゆる青春について」だ。冒頭、いきなりこんな文章にぶつかった。

<「青春」の「個人的体験」など、早朝の路傍にころがっているイヌのフンのようなものではないかと思っている。なかには「懐かしい」のも「真情あふれる」ように見えるのもあるだろう。しかし、どれほど懐かしかろうと、真情にあふれていようと、イヌのフンはやはりイヌのフンにすぎない。そして、ひとはおとなになるために、やむを得ず無数のイヌのフンを置き去らなければならないのである。
 ゆえに私はいわゆる青春時代について書いたことがない。>
 だが、「書いたことがない」というのは嘘である。ご本人は「まれには書いた」と後で断りを入れているが、関川さんの熱心な読者であれば、独特の「私コラム」(上原隆さんが、「実際にあったこと」をふくらませて面白い話に仕立てる関川さんの手法をこう名付けた)で、ほろ苦く暗い青春を、「思い入れ」を極力排して「観察者」の眼で描いている作品をいくつか読んでいるはずだ。私が関川さんを読むようになったのもそんな作品を読んでからである。物書きが自分のことを書く時、「本当のこと」を書いていると思うほどウブではないが、それでも、その書かれたものから感じ取れる作者の像はそれほど違わないだろうと私は思うことにしている。何しろ「思い入れの深さ」が私の「真情」なのだから。
 さて、私も一時期「青春時代」をねじり鉢巻きをして書いたことがある。いわゆる「ふくらませ」て。それを書く後押しをしてくれたのは、寺山修司さんのこんな言葉だった。

<私は、一人の男が自分の少年時代について語ろうとするとき 記憶を修正し、美化し、「実際に起こったこと」ではなく 「実際に起こってほしかったこと」を語っている・・・・という例をいくつか見聞してきた。
 未来の修正というのは出来ぬが、過去の修正ならばできる。そして、実際に起こらなかったことも、歴史のうちであると思えば、過去の作り変えによってこそ 人は現在の呪縛から解放されるのである。 (寺山修司)>
 だが、「過去の作り変え」によって「現在の呪縛から解放された」かというと「?」である。それは多分、私の「思い入れが過ぎる」ということに起因するのであろう。言い換えれば、私に欠けているのは、「観察者」として「自分」を冷静に分析することだ。もっと言えば「青春」を「イヌのフン」ではなく「ダイヤの原石」だったのではないかという呪縛から解放されていないのだ。う~ん、まだまだ青春のしっぽを引きずっているってことなんだろうなあ、きっと。

2024/11/18

ハルモニア

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 「ハルモニア」(篠田節子)は、一度読んだような気がしていたのだが、ほとんど覚えていなかったので初めて読むのだろう。著者お得意の超常能力を持つ、脳に障害を負う女性と、彼女にチェロを教える主人公との葛藤と愛を描いた物語。細部を描くことによって、絵空事になりがちな超常能力を発揮する場面もリアリティがあり不自然さを感じさせないのは、さすがだ。愛の物語であると同時に魂の救済の物語でもある。

<脳に障害をもつ由希が奏でる超人的チェロの調べ。指導を頼まれ、施設を訪れた東野はその才能に圧倒される。名演奏を自在に再現してみせる由希に足りないもの、それは「自分の音」だった。彼女の音に魂を吹き込もうとする東野の周りで相次ぐ不可解な事件。「天上の音楽」にすべてを捧げる二人の行き着く先は……>

ところで、この「チェロ」と「セロ」が同じ楽器だったとは知らなかった。宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」を読んだことはないが、この「セロ弾き」というイメージから、ヴァイオリンより少し大きめの抱えて弾く楽器だと思い込んでいた。そう、「ヴィオラ」の事だと思い込んでいたのだ。「セロ」と「チェロ」は同じ楽器だといわれたときも、やはり私がイメージしたのは「ヴィオラ」だった。

ドラマ「カルテット」で満島ひかりさんが弾いているのがチェロだと知って、「え!」となったのだが、低音のお腹に響く音色は何故か物悲しい感じがした。老婆心ながら、チェロとはこんな楽器だ。

<チェロはヴァイオリンの何倍も大きく、その大きなボディから溢れ出す奥深い艶やかな音色と力強い音量であっという間に聴衆を魅了してしまいます。
ヴァイオリンのキラキラとした輝かしい音色に比べ、グッと下腹に響く滑らかな重低音は曲中で深いコクとまろやかさを演出する大切な役割を担い低音楽器でありながら伴奏に徹することなく、ソロ楽器としても大いなる活躍を遂げ、バッハの時代から現代まで数多くの素晴らしい無伴奏チェロ組曲やコンチェルトが残されてきました。(チェロ専門店・マジコ)>

2024/11/17

もう生まれたくない

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 「もう生まれたくない」(長嶋有)のタイトルの意味を考えてみたが、私にはよく分からなかった。物語は、ありふれた人たちのありふれた生活が、リレー形式で次々と語られるだけで特別な事件(大学の事務局に勤める春菜の夫が事故死するが)が起きるわけではない。そして折々に挿入される著名人の死(ジョン・レノン、ダイアナ妃、坂井泉水、トムラウシ山遭難事故等)。

 ラスト、一人でウィスキーを呷りながら、春菜は思う。

「誰にも言わないままの言葉をいつか私はしたためよう。亡くなった人に、友達だと思っている人に、ネットに載せて読めるようなのではなくて、そう、空母の中の郵便局に溜まる手紙のように」

 「誰にも言わないままの言葉」が、「すごく傷ついている」なのか「もう生まれたくない」なのか、もう一度読み直すとわかるだろうか? 自信がないなあ、私には。長嶋さんの小説がどんどん面白くなく感じられるのは、私の年のせいに違いないのだが、初期のころの「脱力系」の若者を描いた作品が懐かしくてしかたがない。だが、作家も自分がまとった殻を破り続けなければ、進化しない。そういう進化の過程を否定するつもりはないのだが、歳を取るとついつい求めてしまうのは、「安定」(いつものパターンと言いなおしても良いのだが)だ。そう考えると新しいものに馴染めなくなりつつある自分がちょっぴり寂しく感じてしまうのだけれど。

<「誰にも言わないままの言葉をいつか私はしたためよう。亡くなった人に、友達だと思っている人に。ネットに載せて読めるようなのではなくて、そう、空母の中の郵便局にたまる手紙のように」――。

マンモス大学の診療室に勤める春菜、ゲームオタクのシングルマザー・美里、謎めいた美人清掃員の神子。震災の年の夏、「偶然の訃報」でつながった彼女たちの運命が動き始める――。 スティーブ・ジョブズ、元XJAPANTAIJIなど有名人から無名の一般人、そして身近な家族まで、数々の「訃報」を登場人物たちはどこで、どんなふうに受けとったのか。誰もが死とともにある日常を通してかけがえのない生の光を伝える>

2024/11/16

司馬遼太郎を読み直して。(3)

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「胡蝶の夢14」(司馬遼太郎)は、幕末の動乱期、時流の波にさらわれながら、医者としてどうあるべきかを常に問い続けた男たち(松本良順、関寛斎ら)と、佐渡出身で飛びぬけた記憶の持ち主ながら、生涯他者とうまく関わることができなかった伊之助の生き様を描いている。彼らに共通するのは「身分制」への嫌悪感だ。

<――身分制という社会は、その無数の段階のある大小の巣箱に棲む人間にとって、分際という触角を動かして小動物のように身を縮めている限り、実に住みやすい。分際の感覚のない生き物がその巣箱へまぎれこんでくるとき、箱に住みついている生き物は爪、牙、針、臭気といった小さな武器を総動員して闖入者に対しおのれがいかに分際知らずであるか思い知らせるのである。いけず・いじわるという武器は、分際の巣箱に住み分けて安住している生き物たちの欠かせないものであった。

「胡蝶の夢」を書くについての作者の思惑の一つは、江戸身分制社会というものを一個の生き物として作者自身が肉眼で見たいということであった。

それを崩すのは、蘭学であった。むろん蘭学だけではなく、それに後続する幾重もの波のために洗いくずされてゆくのだが、蘭学もまたひきがね作用の一つをなしたことはいうまでもない。(「伊之助の町で」) 

2024/11/15

司馬遼太郎を読み直して。(2)

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「歳月」(司馬遼太郎)は、佐賀の乱を引き起こした江藤新平を中心に、維新後の新政府の変節に嫌気がさした西郷と、何とか維持していこうとする大久保との葛藤や、薩長土肥の元藩士たちの思惑と行動など、維新後の混乱の「歳月」を描いている。司馬さんの本を読んでいると「ノンフィクション」と勘違いしがちだが、間違いなくノンフィクションではなく見てきたような嘘を描いた「フィクション」なのだ。その「フィクション」を描く方法を司馬さんは次のように語る。

<「ビルから下を眺めている。平素、住みなれた町でもまるでちがった地理風景に見え、そのなかを小さな車が通ってゆく。そんな視点の物理的高さを、私は好んでいる。つまり、一人の人間をみるとき、私は階段をのぼって行って屋上へ出、その上から改めて覗き込んでその人を見る。同じ水平面上でその人を見るより、別な面白さがある」

「歴史が緊張して、緊張のあげくはじけそうになっている時期が、私の小説には必要なのである。この場合、歴史の緊張とは、横合いから走って来ている『自動車』とみていい。その驀進のなかに、私の見ている人間と、その人間の人生を置いて交差させてみる。そこになにか起こりうるか、起こったか、ということを考える楽しみが、私のいわば作業である。(「私の小説作法」)>

私たちは、司馬さんのその「考える楽しみ」から生まれた作品を楽しむ僥倖に恵まれている。余計なことを考えず、ただ「楽しむ」ことを司馬さんも望んでいたに違いない。

さて、「ぼくはなんらかの情熱を持った男――これは「漢」の字をあてた方がふさわしいかもしれないが、その男たちのこっけいさと悲壮さを書いているのです。情熱的になればなるほど内面は悲壮となり、またこっけいにもなる。変革期にはそれがそのまま鋭角に現れる」と著者が語っているように本作もまた、悲劇的な最期を遂げる江藤新平、あくまで「政治的に立ち回る」大久保利通、そして英雄的革命家西郷隆盛三人三様の「悲壮さとこっけいさ」を描いている。「世に棲む日々」で描かれた高杉晋作の英雄性や明るさは本作にはない。それは「事を成し遂げる」人と「事がなった後」を処理する人との相違でもあるのだろう。明治維新は中途半端に終わった革命だったからこそ、革命の途上で斃れていった人々の思いから遠く離れたものになったという司馬さんのため息が聞こえてくる作品だ。

2024/11/14

司馬遼太郎を読み直して。

司馬遼太郎さんの小説を読んだのは「国取り物語」が最初だった。それから「竜馬がゆく」「燃えよ剣」と続く。もう50年近く前のことである。その頃は生意気盛りで、勝手に「これは英雄史観だ」などと小馬鹿にしていたのだが、「司馬遼太郎が考えたこと」というエッセイ集をじくり読んでいると、とんでもない勘違いをしていたことに気づき、猛省しているところである。

<(大阪の天保山桟橋で)

内海沿いの船がこの桟橋の横に入ると、船体がとけそうにあつくなっています。その船体から、淡路の水浴場で真っ赤に日焼けしてしまった女の子たちがぞろぞろと下りてきます。その薄物姿を見つめることができるほど歳をとっておらず、こっそりついてゆけるほど若くないのが、僕の夏のかなしみです。(「司馬遼太郎が考えたこと 1」)>

こういう感性を持っていた人だったとは! ロマンチストだったのだと思う、根っこのところで。

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「長州の人間のことを書きたいと思う」で始まる「世に棲む日々」(司馬遼太郎)は、吉田松陰の子供時代から始まる。「主人公はあるいはこの寅次郎(吉田松陰)だけではすまないかもしれない。むしろ彼が愛した萩住まいの上士の子高杉晋作という九つ下の若者が主人公であるほうが望ましいかもしれず、その気持ちが筆者の中で日ごとに濃厚になって絡み合い、いずれとも決めかねている。いや、今となってはその気持ちのまま書く」と冒頭にあるが、本書は、まるでルポルタージュを読んでいるような錯覚を起こしてしまう。「本当のような嘘」を「本当」のことだと勘違いしてしまうのは司馬さんの独特の語り口にあるのだろう。そして思想というものを、「思想というのは要するに論理化された夢想または空想であり、本来はまぼろしである。それを信じ、それをかつぎ、そのまぼろしを実現しようという狂信状態の徒がでて初めて虹のようなあざやかさを示す」と定義し、思想よりいかに行動したかを単にエピソードを積み重ねるだけでなく、「場面」を細部にわたって描くので、ついつい物語のなかに引き込まれていく。だから読むとやめられなくなってしまうのだ、司馬さんの小説は。あとがきで司馬さんは本書を書いた動機を次のように述べている。

 <「松陰の思想よりも、その思想を生んだ松陰という稀有な個性のみが重要であるといえるかもしれない。(中略)

動かないものは、個性もしくは思想的体質あるいはそれらを総合しての人間だけである。そう思い決めた場所から、この「世に棲む日々」を書き始めた。とくに、人間が人間に影響を与えるとうことは、人間のどういう部分によるものかを、松陰において考えてみたかった。そして後半は影響の受け手のひとりである高杉晋作という若者について書いた。「世に棲む日々」という題は、高杉の半ばふざけたような辞世(「おもしろきこともなき世をおもしろく」)の、それも感じようによっては秋の空の下に白い河原の石が磊々と転がっているような印象からそれをつけた。> 

2024/11/13

虚貌

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 「虚貌(上下)」雫井脩介

会社を解雇された三人の男が、運送会社経営者一家を襲い、社長夫妻を斬殺、長女は半身不随、長男は大火傷という事件があり、その21年後主犯に祭り上げられた男が仮釈放で出所した後、先に釈放された二人が次々に殺されていく。定年間近で死病を患う刑事と、顔に痣があり「醜形恐怖症」に悩む若い刑事のコンビが犯人を追って行くが……。

エンタメ小説ということもあるのだろうが、殺人事件の謎と並行してアイドルグループの事務所の実態や、週刊誌業界の内幕めいたエピソードをちりばめてストーリーが展開されていく。果たしてこれだけの長さが必要だったのかが疑問だが、前半のスピード感あふれる展開に比べ、後半の謎解きに至るまでの展開が少しまだるっこしく感じられるのが残念な気がする。ミステリファンなら事件の主犯とされた荒勝明が釈放された後世話になる山田という男の胡散臭さと、タイトルの「虚貌」で犯人が誰であるかの推測がつくのではないか。ただ、いわゆる「トリック」に関して、「それはないだろう」という評価が一部あったということは了解できる。

<――要するに本作は、心身ともに深いダメージを追った子供が、子供のころのファンタジーを武器に変えて戦う話だ。そうすることでどうにか生きるモチベーションを維持してきた、傷ついた魂が自由を獲得するまでの物語だ。だから本作のトリックは、あのようなものでなければならなかった。そうでなければ意味が失われてしまうのだ。(中略)

本格推理物を期待して読まれた方には、いささか拍子抜けされる向きもあるだろうが、本作に狭義のミステリー枠に閉じ込めず、「ファンタジーが現実に逆襲する」オーバージャンルの作品と捉えるとその価値や意味合いはがらりと違ったものになる。(「解説」福井晴敏)>

2024/11/12

ママの狙撃銃

歌人の斎藤茂吉はウナギ好きで有名だが、月に145回はウナギを食べたそうだ。そしてそのウナギに負けず劣らず好きなのが古本で、昭和1310月には、11日も本探しに費やした。すべて読むのかというと、読まない。本を積んで見ているのが何よりの楽しみで、彼はこれを「視書」と称した。ふ~む。「積読」より、数倍お洒落な言い方だと私は思うのだが。

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そんな私の積読本(「視書」と言えるほど「見ていない」)から、夜寝る前に布団の中を温める時間読もうと思って選んだのが「ママの狙撃銃」(荻原浩)。タイトルを見て、てっきり主婦になった射撃の選手がカムバックする物語かと思ったら、狙撃手だったというお話だった。夫の失職や長女の学校でのイジメのエピソード等、家族物語でもあるが、「ママ」の設定が何故狙撃手(暗殺者)でなければならないのかよく分からないし、リアル感もそれほどなくいわゆる「荒唐無稽」なお話で期待外れだった。こういう狙撃手を題材とした物語を描かせると鳴海章さんが巧い。鳴海さんが描く狙撃手は、プロの非情さとその孤独の深さは読む者をどうしようもなく暗い場所へ誘ってゆく。それは、自分を一切捨て去ったテロルの世界でもある。「馬鹿じゃあなれない、利口でもなれない、中途半端なら尚更なれない」世界だ。そういういつも簡単に行ける世界ではないから、小説の中でしか行けないから、ついつい引き込まれてゆくのだと思う。ま、そんなシリアスな物語ばかりが溢れると、緊張の糸が張りっ放しになってしまうから、本作のような「おふざけ」も、たまに必要なのだろうけれど。

「もう一度、仕事をしてみないか」ふたりの子どもにも恵まれ、幸福な日々を送る福田曜子の元に届いた25年ぶりの仕事の依頼。幼い頃アメリカで暮らした曜子は、祖父エドからあらゆることを教わった。射撃、格闘技、銃の分解・組み立て…。そう、祖父の職業は暗殺者だった。そして曜子は、かつて一度だけ「仕事」をしたことがあった―。家族を守るため、曜子は再びレミントンM700を手にする。荻原浩の新たな地平。”読み出したら止まらない”サスペンス・ハードボイルド。>

 「読みだしたら止まらない」は明らかに言い過ぎだ。

2024/11/11

下町ロケット2 ガウディ計画

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「下町ロケット2 ガウディ計画」(池井戸潤)は、ロケットでなく医療用機器の部品製作にかかわる物語。強力なライバル会社と、いつものように、アクの強い敵役が暗躍して、佃製作所はピンチを迎えるが、ラストはこれまたいつも通りの逆転劇で読者をスッキリさせてくれる。先にテレビドラマ化されたのをみていたので、「これからどうなるのか?」という興味は半減したが、それでもやはり池井戸さんのストーリー運びはツボを心得ていて飽きさせない。

ロケットエンジンのバルブシステムの開発により、倒産の危機を切り抜けてから数年――。大田区の町工場・佃製作所は、またしてもピンチに陥っていた。
量産を約束したはずの取引は試作品段階で打ち切られ、ロケットエンジンの開発では、NASA出身の社長が率いるライバル企業とのコンペの話が持ち上がる。
そんな時、社長・佃航平の元にかつての部下から、ある医療機器の開発依頼が持ち込まれた。「ガウディ」と呼ばれるその医療機器が完成すれば、多くの心臓病患者を救うことができるという。しかし、実用化まで長い時間と多大なコストを要する医療機器の開発は、中小企業である佃製作所にとってあまりにもリスクが大きい。苦悩の末に佃が出した決断は・・・・・・。医療界に蔓延る様々な問題点や、地位や名誉に群がる者たちの妨害が立ち塞がるなか、佃製作所の新たな挑戦が始まった。>
 

2024/11/10

寝転んで時代小説を。

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「芥火」(乙川優三郎)は五編の短編集。何れも今の生活に満足できず、着物(芥火)、小紋(夜の小紋)、誰にも煩わせることの無い一人暮らし(虚舟)、陶器(柴の家)、昔住んだ場所(妖花)へのこだわりを描いた作品集。タイトルの「芥火」とは「海人が藻屑を燃やす火」という意味らしいが、おそらく心の奥底に沈んで浮いてこない「芥」(ごみ)を燃やして、心を再生させるという意味で使っているのだろう。

「そう思い通りにいかないもんさ、色出しと一緒で何度も試すことで手に入るものもあれば、月日をかけて甲斐なく終わることもある。それが身過ぎ世過ぎってもんだろう」(「夜の小紋」)という老職人の言葉にあるように、「思い通りにいかない」ものに執着する人たちの物語のように読める。切ないけれども、「月日をかけ」ようと新しい道を歩んでいこうとする再生の物語でもある。

<昨日までとは違う一日を生きる。負わされた宿命に耐え、新しい人生をけなげに切り開こうとする江戸の男と女。隅田の川縁に暮らす人生の哀歌>

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 「欅しぐれ」(山本一力)。

<深川の老舗大店・桔梗屋のあるじ太兵衛は、賭場の貸元・霊巌寺の猪之吉と偶然出会い、肚をわった五分の付き合いを始める。その後、桔梗屋乗っ取りの企みが明らかになり、重い病を患った太兵衛は猪之吉に店の後見を託し息を引き取った。猪之吉一党は乗っ取り屋一味に一世一代の大勝負を賭ける! 知力と死力を尽くした闘いの行方は? 命がけの男気と凛とした女の強さが心を揺さぶる本格長編時代小説。>

こういう小説は、敵役が手強ければ手強いほど面白さがつのるのが常だが、本作に登場するその敵役の紙屑屋治作の人物造形が巧みなせいで成功している。ただ、ラストはもっと「歯ごたえ」があっても良かったのでは、と思わないでもないが、猪之吉と治作のリターンマッチを見てみたいものだ。

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「江戸風狂伝」(北原亜以子)は七人(豪商、池大雅、材木商、平賀源内、歌川国芳、旗本、講談師)の実在した江戸時代の「風狂」な生き様を描いた短編集。「女流文学賞」受賞作だそうだが、北原ファンの私としては、あっさりしていて少し物足りない作品集だった。

<贅沢の限りを尽くし、ついには家財を没収された豪商石川屋六兵衛とその女房およし。身上を潰すまで流行にこだわった材木商和泉屋甚助。そして天下に名高い畸人平賀源内、浮世絵師歌川国芳、お上ににらまれ、世に疎まれ、それでも意地をつらぬく風狂人の行状を情感豊かに描いた名品七編>