昭和時代回想
関川夏央さんの「昭和時代回想」は、10数年前に読んだはずだが例によって細部はほとんど忘れている。第一章は「いわゆる青春について」だ。冒頭、いきなりこんな文章にぶつかった。
<「青春」の「個人的体験」など、早朝の路傍にころがっているイヌのフンのようなものではないかと思っている。なかには「懐かしい」のも「真情あふれる」ように見えるのもあるだろう。しかし、どれほど懐かしかろうと、真情にあふれていようと、イヌのフンはやはりイヌのフンにすぎない。そして、ひとはおとなになるために、やむを得ず無数のイヌのフンを置き去らなければならないのである。
ゆえに私はいわゆる青春時代について書いたことがない。>
だが、「書いたことがない」というのは嘘である。ご本人は「まれには書いた」と後で断りを入れているが、関川さんの熱心な読者であれば、独特の「私コラム」(上原隆さんが、「実際にあったこと」をふくらませて面白い話に仕立てる関川さんの手法をこう名付けた)で、ほろ苦く暗い青春を、「思い入れ」を極力排して「観察者」の眼で描いている作品をいくつか読んでいるはずだ。私が関川さんを読むようになったのもそんな作品を読んでからである。物書きが自分のことを書く時、「本当のこと」を書いていると思うほどウブではないが、それでも、その書かれたものから感じ取れる作者の像はそれほど違わないだろうと私は思うことにしている。何しろ「思い入れの深さ」が私の「真情」なのだから。
さて、私も一時期「青春時代」をねじり鉢巻きをして書いたことがある。いわゆる「ふくらませ」て。それを書く後押しをしてくれたのは、寺山修司さんのこんな言葉だった。
<私は、一人の男が自分の少年時代について語ろうとするとき 記憶を修正し、美化し、「実際に起こったこと」ではなく 「実際に起こってほしかったこと」を語っている・・・・という例をいくつか見聞してきた。
未来の修正というのは出来ぬが、過去の修正ならばできる。そして、実際に起こらなかったことも、歴史のうちであると思えば、過去の作り変えによってこそ 人は現在の呪縛から解放されるのである。 (寺山修司)>
だが、「過去の作り変え」によって「現在の呪縛から解放された」かというと「?」である。それは多分、私の「思い入れが過ぎる」ということに起因するのであろう。言い換えれば、私に欠けているのは、「観察者」として「自分」を冷静に分析することだ。もっと言えば「青春」を「イヌのフン」ではなく「ダイヤの原石」だったのではないかという呪縛から解放されていないのだ。う~ん、まだまだ青春のしっぽを引きずっているってことなんだろうなあ、きっと。