管理職おすすめの仕事に役立つ本100冊×2

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働くということ 「能力主義」を超えて 勅使川原真衣 著

1.はじめに

勅使川原さんの本を読むのは、以下に続いて2冊目です。

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当時は、職場でしっくりこないこともちらほらあって読みました。少し時間が経過したことで異動直後の「適応障害」的なところからは解放されましたが、改めて振り返ると、「働くって何だろう」と思うこともあり、本書も手に取りました。

snabi.jp

以下では、いつもと同じく、特に印象的だったところを抜粋します。これまで同様、要約ではありません。

2.内容

(0)序章:「選ばれたい」の興りと違和感

  • 誰それは報われるべき、誰それは努力が足りない、「能力」が足りない、と序列を明示し、その順にもらいが変われば、生きる糧・豊かな暮らしをしたいおよそすべての人々は、こぞって序列を上げるために、競うようにして頑張る。統治側にとって、政治責任を追及されるでもなく、「自助」の前提で頑張り続ける国民が量産できるだなんて、最高すぎます。
  • 不平等を解消したかに見せて、実態は相も変わらず、もとい、より見えにくい形で、生まれ落ちた家庭の階層を引き継いだ階級社会になっているんじゃないの?つまり「能力主義」の「本人次第でいかようにも人生を選べる!」というのはプロパガンダに過ぎず、実態としては、親の階層を子が受け継ぐ傾向が可視化されたのでした。
  • 「能力」次第で豊かにも貧しくもなるとなれば、人生の一大事であり、当然「能力」の要請にはできるだけ応じようとするのが人の性。そうなると、かつて「学力」を求められたときは、学校の勉強を一生懸命やれば、それなりの成果が出たでしょうが、だんだんと複雑な様相を呈してきます。社会で活躍するには、勉強だけできてもしょうがない。「コミュ力」「人間力」「生きる力」といったお馴染みの言説が幅をきかせます。
  • 「怒らない技術」なども結構なことですが、個人がいつもご機嫌で、目くじらを立てないことが推奨されてしまうと、本来見直されて然るべき社会の構造や政治的な問題はどうなってしまうのか、とても気がかりです。このようにして、人として当たり前の感情すらも個人のコントロール下に置かれ始めている「能力」。
  • 「能力」をこの目で見たことのある人はいません。なのに、その存在を大の大人も信じきっていて、「正確に測る」と称してテストをし、他者のそれと比較、「もっとああしろ、こうしたほうが将来のためだ」と「欠乏」を突き付けてみたり、「上には上がいるぞ」と発破をかける。際限なく高みを目指すよう、縦方向に「能力」獲得を促される。いや、横への広がりも半端ない。

(1)第1章:「選ぶ」「選ばれる」の実相-能力の急所

  • 人が人を合目的的に選べるはず・選ぶべき、という発想自体が実は、非常に限定的な対象にしか当てはまらない話のように思うのです。「どのように人を選べば、最大の効果を見込めるのか?」なんてのは、贅沢な悩みというか、二の次、三の次、ちょっと浮世離れした話だわ、という企業こそ多数派というわけです。
  • 本来、「HOW(どう選ぶか)」がスタート地点ではありません。「WHY(なぜ選ぶのか)」こそ問うべきと考えます。そう問うていくと、改めて、能力の中身に拘泥していてはもったいないと気づきます。
  • 他者の動きを想定しながら、他社の存在を自己に投影し合いながらやるのが仕事です。そうして、持ちつ持たれつ繰り広げられる仕事なはずですが、「成果」「功績」「手柄」の話になると、急に個人単位になる。これはいささか無理があるのではないでしょうか。他者がいて、自分という存在が呼応しながら、なんとかやるのが仕事。

(2)第2章:「関係性」の勘所-働くとはどういうことか

  • 「問題なんです!」と言うことが本当に問題なのか、常に疑っています。ご相談をいただく際には、「これこれが問題なんです」との訴えそのものに聞き入るというより、何を問題だと当人が「語っている」のか?に神経を集中させます。
  • 本当は組織として策を講じるべきところを、個人の能力の問題に矮小化しているのではないか?個人の問題にしたほうが都合のいい誰か、つまり特定の人の利害と結びついたまま、問題が「設定」されていないか?わかりやすさが実際の有用性より優先されるなど、問題解決用に問題視されていないか?
  • 「怒っている人は困っている人」。怒りは最初に感じる一次感情に次ぐ二次感情ですから、一次感情としては、まずは「戸惑い」なわけですね。目に見えるのは「抗議」や「反抗」という形かもしれませんが、必ずその前に、その人は何らかの事情で戸惑ってしまったのだということを理解したいところです。
  • 言動の「癖」や「傾向」は個人個人で違いがあります。その「持ち味」同士が周りの人の味わいや、要求されている仕事内容とうまく噛み合ったときが「活躍」であり、「優秀」と称される状態なのではないでしょうか。周囲の人たちの状況や、タイミングなど、偶然性が多分に影響しているのです。
  • 自分を自分として生きる人それぞれを「いいね」と組織が受け入れ、組み合わせの妙によってどうにかこうにか「活躍」してもらうーこれが組織論的脱・「能力主義」の土台です。
  • 問題の根源は、「一元的な正しさ」に社会が支配されていることです。多様なはずの人間にとって、「正義」の名で選択肢を狭めることが息苦しいのです。
  • 間違っても、「あれが足りない」「まだまだ」だなんて、たとえ自分に対しても言わないでほしいのです。「謙虚」とはそういうものではありません。自分の未熟さを知った上で、凸凹した者同士が互いに、「それなりにいい味出してるよな!」とハイタッチするような姿が、自己の能力なんかを過信しない「謙虚」さなのだと私は考えます。
  • いい悪いではなく、ただただ「今こんなこと思ってるんです」の積み重ね、他者と重なる部分もあればそうでない部分も、そのまんま持っていてください。なんでも美談にしないと気が済まないのは、現代人の悪い癖です。
  • 強気なあなたにお伝えしたいのは、自分の後頭部を自分の目で見られる人はいますか?見られないのは能力の問題なのでしょうか?むしろ自身の限界を知り、周りのサポートをてこにしながら対応する術を知っているかいないか、が問題だと言うべきでしょう。

(3)第3章:実践のモメント

  • 「できる上司は~」「世界のエリートはなぜ~」…職場での生き残りをかけた攻略本は雨後の筍状態。けれどなかなか解決しないから、いつまでも手を変え品を変え指南書が出続ける。「働くということ」のしんどさの軽減を謳う産業は、もはやダイエットのようなコンプレックス産業に近いものを感じてしまいます。
  • 「正しさ」や「序列」「優劣」には際限がありません。終わりなき旅なのです。どうせ頑張るなら、今の自分や周りの他者を否定して、「もっともっと」を求める人生ではなく、自分自身を舵取りすることに精を出す。そして、永遠に終わりなき「正しく人を選ぶ」旅は今日でやめにする。「選ぶ」ということばは、他者に対してではなく、自分に使ってこそ、「働くということ」を豊かにするもの。
  • 「優秀」な人を「選ぶ」のでも、「優秀」な営業に「育てる」のでもない。一元的な「正攻法」を捨て、どんな人材にも拙速に良し悪しをつけることなく、他者と組み合わせながら適切な職務に相対させる。「選ぶ」のは他人のことではなく、自分自身の気持ちを俯瞰しながら、落ち着いて自己のモードこそを「選ぶ」のだ。
  • 一元的なやり方を「正攻法」のように扱わず、多様な顧客の多様なニーズを1人の個人に背負わせるより、多様な持ち味の多様な営業パーソンで分担しあいながら負ったらいいのです。一元的な基準ではこぼれてしまう人に、その人に合った役割、在り方を提案できるのが脱・「能力主義」。つまり個人の能力一辺倒ではなく、凸凹の持ち寄りという「関係性」でなんとか前に進む方向性を提案できるというのが組織開発の強みなわけです。
  • 個人はレゴブロックのようなものです。小さな1つのブロックに、「あるべき姿」だのなんだのと言って、あれができてこれもできて…と追い求めることは、ナンセンスです。それどころか、1つのブロックを予測可能な範囲で小さくまとめているに過ぎないことも多々あります。「優秀」な人を「選ぶ」発想から、組み合わせの妙にこそ気づけるよう、自身のモードを「選ぶ」。

(4)終章:「選ばれし者」の幕切れへー労働、教育、社会

  • 新しい視座を身につける前に、「あぁなるほど、そういうふうに仕事を進めたかったんだね」と思ってもらえるような、温かな視線で見守られる経験は不可欠です。一旦自分を受け入れてもらう、という経験です。他者に受け入れてもらった人にしか、他者を受け入れ、新たな視座に立つことなんて、できません。
  • 相手の口を塞がないことーこれが、意外に思う方もいるでしょうが、社会構成員を養成すると謳う者が担うべき基本所作であると思うのです。企業で言えば、「心理的安全性」と呼ばれるものに近いかと思います。まずここにいていいんだな、と思わないで、何を学べましょうか。挑戦できましょうか。
  • 「働くということ」に欠かせないのは、「一元的な正しさ」を強制力をもって教え込むことでも、それを体現する「高い能力」「強い個人」でもありません。むしろ、どんなため息にも耳を傾けるような余裕、懐のようなものが、望まれています。相手の口を塞ぐようなことがはびこっていたら、それは「働くということ」がうまくいっていない証です。
  • 相手が安心して真意を吐き出すことができる空間をつくった上で、それによって意見を交換すること。その際に、変えるべきは相手(他者)ではなく、まず自分のモードを問うてみる。真面目で一生懸命な私たちが引き続き頑張るとしたら、この点です。誰かのものさしに合わせて、人を「選ぶ」ことでは決してありません。
  • 個人が回答したデータはその回答者に帰属するはずです。回答者本人に還元されてしかるべきなのです。「見える化」「エビデンスベースド」と叫ばれますが、データが本人に有益な形で返されているでしょうか。エビデンスがあると誰が喜ぶのですか?などと、ぜひ問うことを諦めないでいただきたいものです。
  • 「仕事」とはこういうことだ、と言われがちなことほど、実は議論が端折られた、案外心許ないものだということです。本書が推奨してきた「働くということ」-自己と向き合ったり、他者の心の内を感じたり、問いかけることーについて、「余裕がない」「無駄」などの逃げ口上で、「取るに足らない」ことだと断じるのは、是非再考してほしく思います。
  • ゴールを決めない、「完成」という概念があるとはなから思わない、とはまさに効率やタイパの真逆中の真逆です。未来を決めつけず、今できることを周囲とがちゃがちゃ試してみる。「失敗前提ですよ、完璧があると思ってないので。徐々に、ちょっとずつ変えていけばいいじゃないですか」
  • 本書が示す「働くということ」の本質は、まさに、分かりやすいものだけではなく「よく分かんないなぁ」というものにこんな感じで出会いませんか?という誘いでした。星の王子さまではないですが「本当に大切なことは、目に見えない」とはその通りで、派手さもかっこよさもない。めんどくさくて、ややこしく、時に支離滅裂。そこに真正面から向き合うのが本書の「働くということ」です。

3.教訓

先日、会社近くの丸善にふらっと立ち寄りました。

そこで面陳列、平積みになっていた本の一例を以下に挙げてみます。

  • 世界の一流は「休日」に何をしているのか?
  • 世界の一流は「雑談:で何を話しているのか?
  • 仕事ができる人の当たり前
  • エグゼクティブはなぜ稽古をするのか
  • 「ドイツ人」のすごい「働き方」

などといったものです。

別に”世界の一流”になりたい人ばかりではないはずだし、”当たり前”の基準は人によって違うはずで、なんとも息苦しさを感じてしまいます。本書でも、”コンプレックス産業”だという言及がありました。

みんなそれぞれが何でもできるスーパーマンではない中、持ち場持ち場で頑張っていて、それが会社という組織になっている。勅使川原さんのいう、1人1人はレゴブロックのようなもの、という例えは非常にわかりやすく、心に響きます。個々のブロックからは想像できないものが組み上がります。

employment.en-japan.com

他者を「選ぶ」のではなく、他者と自分をどう補え合えるのか自分のモードを「選ぶ」という発想は、これからも意識して持っておきたい観点だと気づくことのできる良書でした。

終章に出てくる、こたつから左手を出さずにご飯を食べる子どもに対し、母親が「手を出しなさい」と何度怒っても直らなかったものが、他の家族が「家の中、寒くない?」と話すのを聞いて室温を上げたら、自然と左手を出してご飯を食べるようになった、というエピソードは、環境や前提を自分で捉え直すという意味で象徴的だと感じました。