大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

いかといかとある我がやどに・・・巻第8-1507~1508

訓読 >>>

1507
いかといかと ある我(わ)がやどに 百枝(ももえ)さし 生(お)ふる橘(たちばな) 玉に貫(ぬ)く 五月(さつき)を近み あえぬがに 花咲きにけり 朝(あさ)に日(け)に 出(い)で見るごとに 息(いき)の緒(を)に 我(あ)が思ふ妹(いも)に まそ鏡 清き月夜(つくよ)に ただ一目(ひとめ) 見するまでには 散りこすな ゆめと言ひつつ ここだくも 我(わ)が守(も)るものを うれたきや 醜(しこ)ほととぎす 暁(あかとき)の うら悲しきに 追へど追へど なほし来鳴きて いたづらに 地(つち)に散らせば すべをなみ 攀(よ)ぢて手折(たを)りつ 見ませ我妹子(わぎもこ)

1508
望(もち)ぐたち清き月夜(つくよ)に我妹子(わぎもこ)に見せむと思ひしやどの橘(たちばな)

1509
妹(いも)が見て後(のち)も鳴かなむ霍公鳥(ほととぎす)花橘(はなたちばな)を地(つち)に散らしつ

 

要旨 >>>

〈1507〉どうなったか、どうなったかと、いつも心にかけている我が家の庭に、枝をいっぱい伸ばして生い茂っている橘は、薬玉に貫く五月が近くなり、こぼれるほどに花を咲かせました。朝となく昼となく庭に出て見るたびに、命がけで思いを寄せるあなたに、清らかな月夜に一目なりと見せたいからと、決して散るなよと願い、こんなにも気をつけて見守っているのに、何といまいましいことか、ホトトギスが、明け方のもの悲しい時に、追っても追ってもやって来て鳴いて、むやみに花を散らせてしまうので、しかたなく引き寄せて手折ったのです。ご覧になってください、あなた。

〈1508〉十五夜過ぎの清らかな月の夜に、あなたにぜひ見て欲しいと思った、我が家の庭の橘です。

〈1509〉あなたがご覧になって後に鳴いてくれたらよいのに、ホトトギスが、橘の花を地面に散らしてしまいました。

 

鑑賞 >>>

 大伴家持が、「橘の花を攀(よ)ぢて、坂上大嬢に贈る」歌。「攀づ」は、引き寄せて折る意。1507の「いかといかと」は、どうなっているかと心にかける。または、広大なさま、茂ったさまと解する説があります。「百枝さし」は、多くの枝が伸びて。「玉に貫く」は、五月の節句に紐を通して薬玉にすること。「あえぬがに」は、こぼれるほどに。「息の緒に」は、命がけで。「まそ鏡」は「清き」の枕詞。「ここだく」は、こんなにも。「うれたきや」は、忌々しい。「醜」は、対象を卑しめ罵る語。「すべをなみ」は、仕方がないので。

 1508の「望ぐたち」は、十五夜過ぎの。「くたち」は、盛りを過ぎること。本来なら、満月が清らかに照る十五夜に花を見せたいと思うところですが、家持はそうではなく、どこか翳りのある風光の中で愛でたいと言っています。1509の「鳴かなむ」の「なむ」は、願望。

 

 

 

大伴家持の略年譜

718年 家持生まれる(在京)
724年 聖武天皇即位
728年 父の旅人が 大宰帥に
731年 父の旅人が死去(14歳)
738年 内舎人となる(21歳)
    橘諸兄との出会い
739年 妾と死別(22歳)
    坂上大嬢との出会い
741年 恭仁京の日々(24歳)
744年 安積親王が死去
745年 従五位下に叙せられる(28歳)
746年 越中守となる(29歳)
749年 従五位上に昇叙(32歳)
751年 少納言となる(34歳)
754年 兵部少輔を拝命(37歳)
755年 難波で防人を検校、防人歌を収集(38歳)
756年 聖武太上天皇が崩御
757年 橘諸兄が死去
    兵部大輔に昇進(40歳)
    橘奈良麻呂の乱
758年 因幡守となる(41歳)
    淳仁天皇即位
759年 万葉集巻末の歌を詠む(42歳)
764年 薩摩守となる(48歳)
    恵美押勝の乱
766年 称徳天皇が重祚
    道鏡が法王となる
767年 大宰少弐となる(50歳)
770年 道鏡が下野国に配流
    正五位下に昇叙(53歳)
771年 光仁天皇即位
    従四位下に昇叙(54歳)
774年 相模守となる(57歳)
776年 伊勢守となる(59歳)
777年 従四位上に昇叙(60歳)
778年 正四位下に昇叙(61歳)
780年 参議となり、右大弁を兼ねる(63歳)
781年 桓武天皇即位
    正四位上に昇叙(64歳)
    従三位に叙せられ公卿に列する
783年 中納言となる(66歳)
784年 持節征東将軍となる(67歳)
    長岡京遷都
785年 死去(68歳)

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について