ブログのルールは日本国憲法。

先日のバイトさん筆禍事件で、「ブログは個人の場所なんだから、個人の意見を書いて何が悪いのだ」とか「日本には言論の自由があるのだから、個人がどう感じたか思ったかをどう書いても構わないのではないか」という意見をちらほら見ます。
ぶっちゃけ「オタクは実際キモイんだから、キモイものをキモイと書いて何が悪い」という意見です。
これは半分正しくて半分間違ってると自分は思うのですね。


日本では言論の自由が保障されているので、はっきり言えば何を言おうが書こうが本当は自由です。
いま禁止用語とされている言葉で罵詈雑言・誹謗中傷を書こうが本当は勝手です。
しかし自由という「権利」は責任という「義務」と表裏一体のモノだということを忘れてはいけないと思うんですね。
何を書いてもいいけれど、それに対して発生することには責任を取らなくてはいけませんよ、と。
罵詈雑言・誹謗中傷を書けば謝罪し、罪を償わなければならない。
であるなら償えないこと、責任が取れないことは書いてはいけない。
これは「公に向かって発言する文章の書き方」のルールだと思うんですね。


人によってその責任を取れるレベルが違うから、そのレベルの線を引いた場所ってのが自主規制の正体なんですよ。
もちろん自分にも責任が取れないことはあるわけで、文章を書くときには自分の自主規制がはたらきます。


その自主規制はブログを書くことをクルマの運転になぞらえたときの「安全運転しよう」という自制心と同じだと思います。
スピードを出したいんだけど出さない。書きたいんだけど書かない。
規制や自制はブログ社会にとってもクルマ社会にとっても安全で円滑な社会を維持するために必要なことです。
自制心なくスピードを出して爆走すれば、違反し、事故を起こし、社会的制裁を受ける。
規制なく何でもかんでも書けば、抗議され、場合によっては法律に問われ、社会的制裁を受ける。
同じことだと思うんですね。


問題はクルマには法律という明確な基準がありますが、ブログにはそれが無いことです。
そしてクルマの法律は国家から課せられた明確な基準であるのに対し、ブログの規制はあくまで自主規制であることです。


一般国道の最大制限速度は60km/hと決まってるし、高速道路では100km/hです。(普通車)
これは明確な線引きです。
しかしブログでは何だったら書いても良くて、何だったら書いてはいけないのか明確な基準はありません。
だから何を書いても良くて、何を書いてはいけないのか、明確な基準を設けて欲しいと思ってる人はいると思います。
そしてこれ、先日書いたパロディの話と繋がることなんです。


どこまで描いても良くて、どこまで描いてはいけないのか、明確な基準を設けて欲しいという意見もよく見ます。
でも、これって言論の自由や表現の自由を自ら制限し、放棄することに繋がると思いませんか?
つまり責任という義務は負いたくないから権利を放棄しますよということ。
自分はこれは「公に向かって発言する文章を書く人間」や「公に向かって発表する作品を描く人間」が一番やってはいけないことだと思うのですね。


国家や企業は出来るだけ大きく個人の権利を制限したい。でも個人は出来るだけ大きく個人の権利を持っていたい。
この権利のせめぎ合いをし続けなくてはいけないと自分は思うのです。
日本国憲法第三章「国民の権利及び義務」第十二条にはこう書かれています。

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

権利は不断の努力で保持しなければならない。
かといってこれを濫用して何でも書いてもいいってわけではない。
それを決めるのは国民の皆さんなんですよ、と。
そうであるなら自分は最大限の自由と権利を持っていたい。
だからこそ自分は曖昧な運用をされかねない人権擁護法案に中指を突き立て、個人ではなくブログやプロバイダー会社によるデジタルでテンプレート的な自主規制を招きかねない筆禍事件を憂うのです。


憲法は自由・権利の保持義務、濫用の禁止、利用の責任を明確に書いてます。
自分の書いた先日の日記に対し、それなら「公に発言する文章の書き方」の明確なルールが欲しいという意見を目にしましたが、自分はこの日本国憲法こそがその明確なルールだと思います。



選挙前ですし、もう一度日本国憲法を読み直してみるってのもいいかもしれませんね。