「さすが広々した景色だね~」
「和歌山城」にやって来たミモロ。天守閣から城下町の景色を眺めます。
紀ノ川の河口に位置し、遠く淡路島や四国を望む和歌山市。町の中心部に位置する虎伏山の山頂に築かれた城で、周囲を濠が囲み要塞としての機能も優れています。
大小ふたつの天主閣を多門櫓がつなぐ連立式天守は、姫路城や松山城と並ぶ日本三大連立式天守のひとつだそう。
「お城好きには、たまらない姿なんだろうね~」と、まだ城好きとまでは、言えないミモロです。
でも、この城を舞台に戦いはなかったため、天主閣は戦いで焼失することはありませんでしたが、落雷と太平洋戦争での空襲で焼失。昭和33年に再建された3代目です。
天主閣の内部は、資料館になっていて、城主にまつわる品々が展示されています。
あちこちの資料を見学…
「実際に戦いに使ったのかな?昔の??」と、「大坂夏の陣」も終わり、すでに徳川家の時代です。
徳川の葵の紋が入った品々も…
「ピストルもある~」交易が行われていた江戸末期のもの。
さて、「和歌山城」の初代城主は、徳川家康の10男の頼宜(よりのぶ)で、将軍であるお兄さんの秀忠によりここに。元和5年(1619)のこと。治める領地は、紀伊(和歌山県)だけでなく、伊勢(三重県)、大和(奈良県)の一部に渡り、55万5千石。徳川御三家の1つ、紀州徳川家の誕生です。
それから幕末まで13代の城主が治めます。
紀伊徳川家の出身の将軍と言えば、8代将軍吉宗。紀伊徳川家のの5代目城主でした。
「暴れん坊将軍だよね~」とミモロの頭には、「タンタタ~タタタタ」とお馴染みのメロディが浮かびます。
家康は、ひいおじいさんに当たり、4代家綱や5代綱吉とは、いとこです。
2代目和歌山城主の父、光貞の四男で、紀州生まれ。子供の頃、江戸の紀州藩邸に暮らしたことも。この時、かなりやんちゃ坊主だったとか。「それが暴れん坊将軍の由来なの??」とミモロ。う~それは関係ないと思うけど…。
お父さんだけでなく、お兄さんが次々に亡くなり、22才の時、紀州藩主になります。「この時、和歌山に戻って来たの??」そう、藩の財政再建や災害の復旧などに手腕を発揮。この時代には、和歌山城の大手門に人々の意見を聞く「目安箱」が設置されたそう。
「江戸城で始めたんじゃないんだ~」
7代将軍の家継が8歳で早世し、徳川家の本家筋の血筋が途絶えたことから、尾張・水戸・紀州の徳川御三家から将軍を出すことに。そこで、御三家筆頭の尾張家を抑え、紀州から本家に養子に迎える形で、8代将軍になります。以降、なんと14代家茂まで将軍は、紀伊の血筋になります。将軍を出しても、廃藩を免れた紀州藩。和歌山城は、吉宗のいことが城主となり存続します。
「この景色、吉宗さんも見たんだよね~きっと…」
城下町の様子は異なりますが、地形的には、そうかも…。
紀州徳川家の血筋の最後の将軍となったのが、14代の家茂。皇女和宮さまと結婚した将軍です。
でも、吉宗以外、和歌山に住んだことも、来たことはありません。みんな江戸生まれですから…。
天主閣から続く建物には、和歌山出身の著名な人物の資料
陸奥宗光、南方熊楠、川端龍子、松下幸之助、有吉佐和子などの説明が…。
御殿の様子を示す襖絵なども展示されていました。
「お城の他の場所にも行ってみたいな~」と、広い敷地内を見下ろすミモロです。
晴天にも恵まれたこの日…青空と緑が美しい和歌山の町でした。
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「和歌山城」にやって来たミモロ。天守閣から城下町の景色を眺めます。
紀ノ川の河口に位置し、遠く淡路島や四国を望む和歌山市。町の中心部に位置する虎伏山の山頂に築かれた城で、周囲を濠が囲み要塞としての機能も優れています。
大小ふたつの天主閣を多門櫓がつなぐ連立式天守は、姫路城や松山城と並ぶ日本三大連立式天守のひとつだそう。
「お城好きには、たまらない姿なんだろうね~」と、まだ城好きとまでは、言えないミモロです。
でも、この城を舞台に戦いはなかったため、天主閣は戦いで焼失することはありませんでしたが、落雷と太平洋戦争での空襲で焼失。昭和33年に再建された3代目です。
天主閣の内部は、資料館になっていて、城主にまつわる品々が展示されています。
あちこちの資料を見学…
「実際に戦いに使ったのかな?昔の??」と、「大坂夏の陣」も終わり、すでに徳川家の時代です。
徳川の葵の紋が入った品々も…
「ピストルもある~」交易が行われていた江戸末期のもの。
さて、「和歌山城」の初代城主は、徳川家康の10男の頼宜(よりのぶ)で、将軍であるお兄さんの秀忠によりここに。元和5年(1619)のこと。治める領地は、紀伊(和歌山県)だけでなく、伊勢(三重県)、大和(奈良県)の一部に渡り、55万5千石。徳川御三家の1つ、紀州徳川家の誕生です。
それから幕末まで13代の城主が治めます。
紀伊徳川家の出身の将軍と言えば、8代将軍吉宗。紀伊徳川家のの5代目城主でした。
「暴れん坊将軍だよね~」とミモロの頭には、「タンタタ~タタタタ」とお馴染みのメロディが浮かびます。
家康は、ひいおじいさんに当たり、4代家綱や5代綱吉とは、いとこです。
2代目和歌山城主の父、光貞の四男で、紀州生まれ。子供の頃、江戸の紀州藩邸に暮らしたことも。この時、かなりやんちゃ坊主だったとか。「それが暴れん坊将軍の由来なの??」とミモロ。う~それは関係ないと思うけど…。
お父さんだけでなく、お兄さんが次々に亡くなり、22才の時、紀州藩主になります。「この時、和歌山に戻って来たの??」そう、藩の財政再建や災害の復旧などに手腕を発揮。この時代には、和歌山城の大手門に人々の意見を聞く「目安箱」が設置されたそう。
「江戸城で始めたんじゃないんだ~」
7代将軍の家継が8歳で早世し、徳川家の本家筋の血筋が途絶えたことから、尾張・水戸・紀州の徳川御三家から将軍を出すことに。そこで、御三家筆頭の尾張家を抑え、紀州から本家に養子に迎える形で、8代将軍になります。以降、なんと14代家茂まで将軍は、紀伊の血筋になります。将軍を出しても、廃藩を免れた紀州藩。和歌山城は、吉宗のいことが城主となり存続します。
「この景色、吉宗さんも見たんだよね~きっと…」
城下町の様子は異なりますが、地形的には、そうかも…。
紀州徳川家の血筋の最後の将軍となったのが、14代の家茂。皇女和宮さまと結婚した将軍です。
でも、吉宗以外、和歌山に住んだことも、来たことはありません。みんな江戸生まれですから…。
天主閣から続く建物には、和歌山出身の著名な人物の資料
陸奥宗光、南方熊楠、川端龍子、松下幸之助、有吉佐和子などの説明が…。
御殿の様子を示す襖絵なども展示されていました。
「お城の他の場所にも行ってみたいな~」と、広い敷地内を見下ろすミモロです。
晴天にも恵まれたこの日…青空と緑が美しい和歌山の町でした。
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