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チェルノブイリ 見捨てられた町での労働 

2013-02-06 23:20:21 | æœªåˆ†é¡ž

チェルノブイリ 見捨てられた町での労働 

パート2:「区域」内での暮らし

チェルノブイリでの仕事の話をすると、「断ることはできなかったのか?」とよく訊かれます。私は放射線生態学を学びましたし、生まれ故郷はソビエト核兵器施設の中の町、それは初めて核爆弾が作られたニューメキシコ州ロスアラモスのようなところです。チェルノブイリへ行くというのは当たり前の義務でした。テロリストの襲撃があった世界貿易センタービルに、ニューヨークの消防士たちが向かったのと同じようなものです。30歳以下の妊娠適齢期の女性だけは、放射線の危険があるためにチェルノブイリには行くことはありませんでしたが、私は1987年当時35歳だったので、「区域」内で4年半の仕事を始めました。

今日、チェルノブイリでの経験を戦争のようだったと語るリクィデーターに会うと、その人は1986年か1987年、陸軍が指揮していた頃に働いていたのだとわかります。その期間は私たちも軍服を着て、一兵士のようにこき使われ、移動には軍の車両を使いました。米国陸軍のブーツを初めて見たのもチェルノブイリでした。アフガニスタンから入ってきたもので、ソビエト軍と敵対していたムジャーヒディーンの民兵に提供されていました。

チェルノブイリでの最初の三日間は、私にとって心底憂鬱なもので、涙を流し嘆いているか、それを堪えているかの日々でした。人手は不足していて、マネージャーは20日間勤務の10日間休み、残りの人は15日間勤務の15日間休みの12時間シフトで働いていました。何人かで一部屋を共有し、ベッドは二人で一つなので滅多に冷えることはなく、作業は落ち着く気配すらありませんでした。

アルコールは禁止されていて、発電所から半径18マイル(30キロ弱)の立入り禁止区域への出入りの際に検査をされました。しかし、程なくしてお酒はこっそり持ち込まれるようになり、手に入るようになってからはお金のように使われました。食料品を自分たちで買うことはできず、食事は散らかった広い部屋で、ベルトコンベヤーにお盆を載せて運ばれました。チェルノブイリのリクィデーターがソビエト中の家畜と同じやり方で食事をさせられていたというのはなんともこっけいな話です。

被曝が新陳代謝を促進するため、一日三食たっぷりと肉中心の食事に、好きなだけチョコレートを食べていたにも関わらず、私たちはいつもお腹を空かせていました。当時ソビエト連邦ではバナナは市販されておらず、多くの人にとって真新しいものでした。ほとんどの人が私とは逆に苦手だったので、友人たちからバナナをもらっては「バナナを食べ過ぎると尻尾が生えてくるぞ」と言われました。

リクィデーターは、11の異なる標準時区域、世界の約半分にも及ぶ広大なソビエト連邦の至る所から来ていました。10日間の休みの間は、娘と母のいる自宅になんとか帰ろうと四苦八苦していました。悪天候で何日も飛行機が飛ばず、椅子よりも人の方が多い為に(ホテルはない)、空港の床に皆寝ていました。キエフやチェリャビンスクの空港の床で幾晩か眠り、我が家に帰ろうと飛行機を待てども、数日後にあえなく引き返すしかありませんでした。

 

見捨てられた町での労働

チェルノブイリの労働者のために建てられた町、プリピャチの全ての住人が、避難によって悲惨な苦しみを負うことになりました。政府は、住民に三、四日で帰れると伝えました。この上なく皮肉な約束でした。避難民は、家族の記録、衣類を少しと、バスでの移動中に食べる分だけの食べ物以外何も持たず、家族はバラバラになりました。幼い子どもたちはある一カ所に集められ、年長の子どもたちはまた別の場所に行きました。だれもが家族のことで気が狂わんばかりの想いをし、中には数年間離ればなれだった人もいました。キエフにあるチェルノブイリ本部近くのコンクリートの壁には、写真と「どなたか——の所在を知りませんか?」という紙が貼られていました。

 

「というわけで、学校は終わり。」 (CSのコメント)

1986年のプリピャチの人口は45,000人を超えていた。皆チェルノブイリの労働者の家族だ。発電所から2マイル(3キロ強)のところで、間には原子炉に冷却水を供給するプリピャチ川と低湿地が広がっている。

事故当日の夜、住民たちは燃える原子炉の青い閃光を窓から目にしていた。プリピャチでは屋根や屋上が被曝した住宅もあり、特に甲状腺に蓄積される放射性ヨウ素にさらされた。大人よりも小さな子どもの腺は、最も影響を受けやすく、チェルノブイリ事故後に幼児の甲状腺ガンは爆発的に増え、放射線との関連を否定していた者たちは口を閉ざした。

一般の人が浴びても問題ないとされる放射線量の上限を、事故以前の10倍に暫定的に引き上げるというソビエト厚生省の決定によって、チェルノブイリ事故から最初の数日間の被曝は深刻なものになった。ジョレス・メドベージェフ∗

事故から三日後、数百台ものバスの護送車に乗せられ、プリピャチの人々は避難した。ある学校の黒板には1986年4月26日に生徒たちに向けられた教師の最後の言葉が何年も後になって見つかった。「というわけで、学校は終わり。」は『チェルノブイリの遺産』の中で、この数値の引き上げは汚染された食べ物の販売を合法化するためのものであったと述べている。リクィデーターの外部被曝の放射線量の上限も、同じく独断的に引き上げられたとナタリアは言っている。

 ∗ クイシトゥイムの惨事の存在をソ連当局が認める何年も前に、ソビエトの生物学者メドベージェフは、事故の実態を暴く証拠を公表していた。

 

 

避難後のプリピャチ。

 

 

街を取り囲む有刺鉄線。

 

 

プリピャチを浸食していく樹々(2004年)。

 

 

1987年頃の光景。

 

ナタリアの物語は続く

 

プリピャチからの避難民はキエフに無償でアパートを与えられ、そのことは何年も政府のアパートの順番待ちしていたキエフの人々の怒りを買いました。新参者の家の窓は割られ、車は壊され、子どもたちは暴力を浴びせられました。精神的なストレスと被曝もまた健康に影響を及ぼし始めていました。避難民には「やらせ仕事」があてがわれました。プリピャチから来た簿記係はほとんど何もせずに座り、隣では別の簿記係がせっせと働き、二人とも給料をもらう、といった具合に。結局プリピャチから来た人たちの為に新しい収容施設が建てられ、移転の費用は政府がもちました.

 

しかし、1987年に私が訪れた時には、プリピャチは見捨てられた町でした。高層住宅、大きな広場、高いビル、競技場、様々な店が略奪の影を残しつつ、ただあるだけでした。当局は、持ち物を取りに人々が帰ってくるのを避ける為に、財産はすべて埋めてしまったと偽って伝えました。実際のところはというと、盗まれなかったものは一年以上放置され、私が行ってから二ヶ月を過ぎた頃ようやく処分されました。

 

1987年の秋に、オジョルスクの科学者たちによって地域ごとの汚染状況を示す地図が作られ、当局はチェルノブイリから半径18マイル(30キロ弱)圏内を永久に人間の居住を禁止する「立入り禁止区域」とせざるを得なくなりました。およそ1,000平方マイル(2,590平方キロメートル)に及びます。地図はまた、汚染の程度によって葬り去る村を選ぶ指針にもなりました。ビルや住まいだけでなく、それにともなう果樹園、菜園、農耕具など村全体が、事故現場から出たゴミと共に、チェルノブイリを囲む約800ヵ所もの廃棄物のための塹壕に埋められました。プリピャチ、またチェルノブイリの町では、ビルは立ち並んだままにされました。

 

中止となった1986年のメイデーの休日から18年経ったプリピャチにたたずむ錆びた観覧車。

 

その日までにほとんどの人々は何キロも続くバスに護送されて街を去っていた。

 

 

プリピャチでガイドをしてくれたリマ・キセリツィアが、下の写真のバンパーカーの脇の草むらで、高い放射線量(1259マイクロレントゲン毎時)を計測した。

 

 

悲しい体験

 

1987年、私たちオジョルスク放射線生態学研究室の科学者およそ20人は到着して、植物を調べる為に環境除染と再耕作の部門を立ち上げました。既にあった10エーカーの温室を使い、もぬけの殻と化していた幼稚園を事務所にしました。

 

除染して使う机や家具などを探しながら幼稚園の中を歩いていて、その贅沢な内装に驚きました。床には中国製の絨毯が敷かれ、寝室は部屋に合わせてカーテンとベッドカバーが設えてあり、おもちゃ、視覚教材やゲームがそこら中にありました。シーツと枕カバー、タオル一式、エプロン、ドレッシングガウンが綺麗にたたまれて積み上げられていました。並べられたスリッパにはそれぞれの持ち主の写真があり、私は心から悲しくなりました。何かしらの奇跡が起こり、この幼い持ち主たちの命が助かっていることを願いました。

 

別の部屋では、檻の中でしわくちゃになった空のプラスティックバッグのようなものを見つけました。ハリネズミのとげとげの皮でした。次に、中で羽が散らかっている鳥かごを見つけました。ハツカネズミに食べられたようでした。夏の太陽が窓越しに輝き、後悔と悲しみの念が波のように押し寄せ、私を飲み込んでいきました。まるで中性子爆弾の爆撃を受けた後の戦場のようでした。中性子の放射線は生命を絶やし、人の所有物には指一本触れません。

 

お昼寝部屋の一室では、弱り切った犬が子供のベッドに横たわっていて、そのベッドでしか寝ていないようでした。わたしの方へ這ってくることも困難なこの哀れな小さな生き物の世話を、そのベッドの持ち主の子どもがしていたのかもしれません。犬のあまりの状態に心が打ちひしがれました。四本の脚には毛が全く生えておらず、肉からは出血しており、瞳は濁っていて、口から唾液がしたたり落ちていました。放射能で汚染された草地で事故以来ずっと狩りをしていたためにベータ放射線による外部被曝による火傷をしていて、もぐらや地ねずみを口にしていたために、おそらく内部被曝もしていたようでした。病院の中で用具や備品などを探している時に、もう一度その犬を見ました。死んでいました。体は腐っておらず、ミイラ化しているように見えました。放射線の影響だろうと思われます。子どもたちの病室のベッドで最後を迎えたこの悲劇的な小さな命は、死ぬその瞬間まで子どもたちに献身的でした。

 

左: 1988年、ナタリアとプリピャチの友人たち。後ろには火をもたらしたとされるプロメテウス。この英雄の彫像は、現在チェルノブイリ発電所の入り口、レーニンの胸像の近くに立っている。

 

 

下: ナタリア

 

 

ある時、幼稚園でテーブルに触れると突然痛みが親指に走りました。おそらく最初のリクィデーターたちの皮膚や肺を傷つけた「ホットパーティクル」(訳注:高濃度の放射能)だったと思われます。私の指は腫れて、青くなり、後に皮がなくなりました。

 

 

温室と汚染されていない食べ物

プリピャチでは、それまでと同じように植物に与える放射能の影響を調べました。けれども、私たちが使っていた温室の屋根はひどく放射能汚染されていて、私のガイガーカウンターでは200mR/hr*を示していて、仕事を始められる状況にするには、まず除染をする必要がありました。

汚染を最小限度におさえた作物を育てることを目指し、育っていく過程で放射能汚染が最小限となるものを見つけようと、およそ200種類の異なった植物を調べました。

また、料理をする人々に汚染をできる限り抑えるようにと忠告しました。例えば、汚染物質は植物の中に均等にあるわけではありません。放射性汚染物質は根に最も集中し、続いて茎、葉、花という順になっています。キャベツと人参は中心に汚染物質を蓄えるので、洗って皮をむいたら真ん中を捨てるといいのです。土壌の化学特性もまた汚染の集中に影響を及ぼします。例えば、酸性の土では、放射性ストロンチウムとセシウムの吸収が強まります。

肉は骨(ストロンチウムとプルトニウムが集中している)を取り除き、酢の溶液に漬け、液は捨てるようにと忠告しました。魚を食べなくてはいけない時は、頭を最初に取り除き、揚げるか焼くようにし、決して茹でないようにとも伝えました。茹でることで骨の中の放射性ストロンチウムを身にしみこませてしまうからです。果物は事故後の一年は食べられます。まだ雨によって土壌の汚染が根まで届いていないからです。それ以降は果物も同じく汚染されました。見捨てられた果樹園には、巨大なハツカネズミや猫ほどもあるドブネズミが腐った果物を食べながら暮らしていました。

* 200mR/hrとは、ミリレントゲン毎時を表し、放射線を計る単位。ニューメキシコの私の家で測った0,0287mR毎時という自然界に元々ある放射線レベルのおよそ7,000倍に相当する。(CS)

捨てられた村落の家で暮らしていたある夜、一匹の巨大なドブネズミと目が合って、目を覚ましました。床に立って前足がわたしの枕に届くほどに大きなネズミでした。振り返り、走って逃げましたが、その後は金槌を持って眠りにつきました。数日後、ソファベッドの中に子ネズミたちを見つけ、例の母ネズミを捕まえる罠をしかけることにしました。しばらくして、友人と家に帰ってきて、中に入ったものの電気がつきませんでした。ローソクを見つけて点けると、母ネズミの尻尾が罠にかかっていました。友人がネズミを片づけた後、そのネズミが暗がりの中で白熱電球へのコードを食べていたのだとわかりました。

 

「区域」内での労働

私たちの班は、最も汚染がひどかった領域である半径18マイル(約30キロ弱)の立入り禁止区域内の土壌、水、雪、樹、灌木などのサンプルを何百も集めました。冬場働くには衣服が足らず、幼稚園にあった毛布を切ってスカーフ、手袋、帽子、チョッキなどを野外作業用に特別に作って補いました。綺麗な新しいブーツなどほとんどなかったので、ビニールテープをブーツに巻きつけて使いました。

ある仕事で、長いクレーンのあるトラックを使って何百個もの松ぼっくりを集め、それぞれ樹に生えていた高さに分けて箱に入れていきました。手袋をつけずに働くこともひんぱんにあり、土壌のサンプルを掘りだして乾かしたり、灰の中の放射能を計測する為に植物を燃やしたりしました。分析可能な量以上の植物のサンプルを集め、一軒の廃屋に保管していましたが、それの放射能が強くなり過ぎてしまい、その家は壊して埋めるほかなくなってしまいました。立入り禁止区域でのサンプル集めから家に帰ってくると、具合が悪くなることが度々ありました。

 

ここで、我々の放射線探知機についてお話したいと思います。それを身につけている人自身は被曝量を確認することができず、仕事を終えた後に放射線の専門家によって確認されます。

 

 2002年の国際連合の報告によると、チェルノブイリの事故によって避難を余儀なくされたのは、ベラルーシ、ウクライナ、ロシアの226の村落で、35万人を超えていた。2000年の時点で、550万人もの人々が1平方キロメートルあたり1キュリーかそれ以上の汚染をしている地域で暮らしている。

どれほどの線量を浴びていたのか、私たちは教えてもらえませんでした。低線量の外部被曝を記録するカセット線量計も使っていましたが、どの場所から離れなければならない程の高い放射線が出ているかを知るには、計れる線量の上限が低すぎました。働き始めてから4年半の間は、仕事中ポケットに入れておき、どれだけの被曝をしたのか本人が直接確認できるペンシルという線量計を一度も目にしませんでした。自分たちでその場で検知できる線量計がなかったために、高濃度汚染の場所を避ける術がありませんでした。当時は外部被曝にばかり気をとられていましたが、実際どれだけの放射線量の内部被曝をしていたのでしょうか?それはきっと私たちの死後に初めて解明されるでしょう。