原発問題

原発事故によるさまざまな問題、ニュース

『死の淵を見た男』<運命を背負った男 ~チェルノブイリ事故×10だった~> ※69回目の紹介

2016-06-07 22:31:51 | ã€å‰ç”°æ˜ŒéƒŽã¨ç¦å³¶ç¬¬ä¸€åŽŸç™ºã®ï¼•ï¼ï¼æ—¥ã€‘

 ï¼Šã€Žæ­»ã®æ·µã‚’見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。69回目の紹介

『死の淵を見た男』著者 é–€ç”°éš†å°†

「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」

それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)

吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。

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**『死の淵を見た男』著書の紹介

第22章 運命を背負った男

 「チェルノブイリ事故×10だった」 P354~

 2012年2月7日、食道癌の手術をおこなった吉田は、その抗癌剤治療で吐き気や嘔吐に苦しみながら、なんとか回復の道を辿っていた。だが、7月26日に脳内出血を起こし、その後、2度の開頭手術とカテーテル手術も一度受けるという厳しい闘病生活を続けている。

 洋子夫人が言う。

「食道癌の手術は、肋骨を1本外しておこなう10時間近い大手術になりました。そこで一度退院してから、今度は、脳内出血で倒れましてね。その姿をみながら、どうして、パパはこんなにひどい目にばかり合うんだろう、神様に嫌われちゃったのかしらって、正直、思いました。あれだけパパは頑張ったのに、と。でも、こういう人が、あの時に福島にいたっていうのは、やっぱり運命だったのか、とも思います。

なぜ、一億3000万人中でパパが選ばれたのかしら、と思った時、若いころから、運命を受け入れることをずっと言い続けた人だったので、こういうことがやっぱり決められていたんじゃないかしら、と。主人は、私の前で、弱音とかを吐いたことがない人なのでわかりませんが、あの事故の時、現場に残る人たちを分別する時に、まだお若い方や女性の方とか、(免震重要棟の中には)沢山いらっしゃったので、主人の胸の内はどれだけ苦しかっただろう、と思います」

 その吉田所長が私の取材に答えてくれたのは、食道癌の手術が終わって、脳内出血で倒れるまでの短い期間、2012年7月のことだった。

 長時間に及んだ取材の中で、最も私の心に残ったのは、吉田が、想定していた「最悪の事態」について語ったことだった。彼の頭から離れることがなかったのは、自身が背負わされていたものの”大きさ”にほかならなかった。

「格納容器が爆発すると、放射能が飛散し、放射線レベルが近づけないものになってしまうんです。ほかの原子炉の冷却も、当然、継続できなくなります。つまり、人間がもうアプロ―チできなくなる。福島第二原発にも近づけなくなりますから、全部でどれだけの炉心が溶けるかという最大を考えれば、第一と第二で計10基の原子炉がやられますから、単純に考えても、”チェルノブイリ×10”という数字がでます。私は、その事態を考えながら、あの中で対応していました。

だからこそ、現場の部下たちの凄さを思うんですよ。最後まで部下たちが突入を繰り返してくれたこと、そして、命を顧みずに駆けつけてくれた自衛隊をはじめ、沢山の人たちの勇気を称えたいんです。」(略)

※『死の淵を見た男』の紹介は、今回で終わります。

次回から『リンゴが腐るまで』(原発30km圏からの報告-記者ノートから-)の紹介を始めます。

2016/6/8(水)22:00に投稿予定です。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日


『死の淵を見た男』<運命を背負った男 ~緊対室に巻き起こった万雷の拍手~> ※68回目の紹介

2016-06-06 22:08:13 | ã€å‰ç”°æ˜ŒéƒŽã¨ç¦å³¶ç¬¬ä¸€åŽŸç™ºã®ï¼•ï¼ï¼æ—¥ã€‘

 ï¼Šã€Žæ­»ã®æ·µã‚’見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。68回目の紹介

『死の淵を見た男』著者 é–€ç”°éš†å°†

「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」

それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)

吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。

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**『死の淵を見た男』著書の紹介

第22章 運命を背負った男

 緊対室に巻き起こった万雷の拍手 P350~

(前回からの続き) 立錐の余地もない緊対室では、共に闘った部下たちが、吉田の話を一言も聞き漏らすまいと静まりかえっていた。

「私はこれから抗がん剤治療と手術を致します。でも、手術をして、患部を摘出すれば治ると言われていますので、医者に任せてみようと思います。ここでみんなと一緒にやって来たわけで、こういう状態でここを去るのは非常に心苦しいし、断腸の思いです」

 吉田はあの極限の場面での部下たちの凄まじい闘いぶりを思い出しながら、そうつづけた。

「あの日々を、私は忘れることができません。今も厳しい状況に変わりはありませんが、みなさんのおかげで、なんとかここまでくることができました」

 直接の部下たちも、協力企業の人間も、あの苦しかった日々を思いだしながら吉田の話を聞いている。少し、深刻な雰囲気になったので、吉田は、ここで得意の冗談を飛ばした。髪の毛の薄い福島第一原発の総務部長の名前を出して、こう言ったのだ。

「すでに私は一回目の抗がん剤治療を受けましたが、まだ頭の毛を抜けておりません。彼よりも、癌治療を受けている私の方が毛があるはずです!」

 吉田がそう言ったとき、全員がかたわらに立っている総務部長の頭と吉田とを見比べ、一斉に笑いが起こった。吉田らしい冗談だった。

「どうか、皆さんには、これからも頑張ってほしい。まだまだ困難なことがつづくでしょうが、みなさんにはそれをどうか乗り切ってほしいと思います。福島県の人だけでなく、日本中の人たちがみなさんに期待しています。そのことを忘れず、高橋君の下で力を合わせてやってください。ありがとうございました。私も必ずここに戻ってきたいと思います」

 それは、吉田の万感をこめた挨拶だった。吉田が話し終わると、緊対室に万雷の拍手が巻き起こった。

「ありがとうございました」

「頑張ってください!」

「早く治して帰って来てください」

 吉田が緊対室を出る時、部下たちがそう言って駆け寄った。涙をうかべている者もいた。それは、過酷な闘いを共にした戦友たちとの別れだった。

(中略)

「第二の免震棟にも行って、挨拶させてもらったんですよ。あの事故の時の対応で、部下たちはかなり被曝しましたからね。そういった連中は、バックアップの仕事をしろということで、新たにつくられた福島第二の安定化センターに送られて、ここで仕事をしていました。だから、ここでも、目いっぱい部下たちが集まってくれてね。ワーッともう、部屋いっぱいで、別れる時は、頑張ってください、ってずいぶん、励ましてもらいました」

 こうして吉田は”戦友たち”に別れを告げたのである。

  (次回は「第22章 運命を背負った男 「チェルノブイリ事故×10だった」」)

※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、

2016/6/7(火)22:00に投稿予定です。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日


『死の淵を見た男』<運命を背負った男 ~緊対室に巻き起こった万雷の拍手~> ※67回目の紹介

2016-06-02 22:26:52 | ã€å‰ç”°æ˜ŒéƒŽã¨ç¦å³¶ç¬¬ä¸€åŽŸç™ºã®ï¼•ï¼ï¼æ—¥ã€‘

 ï¼Šã€Žæ­»ã®æ·µã‚’見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。67回目の紹介

『死の淵を見た男』著者 é–€ç”°éš†å°†

「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」

それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)

吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。

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**『死の淵を見た男』著書の紹介

第22章 運命を背負った男

 緊対室に巻き起こった万雷の拍手 P350~

洋子夫人は、吉田とは大学時代に知り合い、吉田が入社した翌年、昭和55(1980)年に結婚した。

「主人は、若い時から、そういう宗教関係の本を読んでましたので、松香くさい人だなと思ったこともあります。旅行に行って、有名なお寺があると、そこのご住職に頼んで中まで見せていただくんです。ずけずけ行って、押しが強いんですよ。でも、そういう時の対応を見て、すごく大人だなと思いました。若い時から、普通の若者とは、ちょっと違ってました。生と死というものにすごい興味があったんだと思います。私は”æ­»”とかを意識すると、怖いという感じを持ってしまうんですけど、主人は達観してるというか、死をそういうものでは捉えていなかったですね。死ぬんだったら、それはそれでしょうがないじゃないかという死生観があって、私でもそいう話を聞くと、ちょっと自分がホッとするようなことがありました。主人は物事をあるがままに受け入れる、あがいてもしょうがないというか、運命を受け入れるという考え方をもともと持っていたと思います」

 吉田は、事故から8か月後、突然、食道癌の宣告を受けた。吉田の身体は、いつの間にか癌細胞に蝕まれていたのである。

「癌の告知は、一緒に受けたんです。東電病院で人間ドックを受けた時、食道のあたりにかなり大きな影があるって指摘を受けまして、詳しくは、慶応病院の検査を受けて、ということになりました。それで11月16日に、告知されたんです。食道癌で、”ステージ・スリーです”と、2人で告知を受けたんですが、なんか人の病気のことを聞くような感じで、2人とも落ち着いて聞けました。先生の話が、遠くから聞こえるような感じで、ああ、そうなんですかあ、という風でした。あんなに主人は頑張ったのにこんな酷い目にあって・・という感情が出てくるのは、ずっとあとですね」

 それは、生と死の狭間で踏ん張った吉田に、あまりに過酷な運命だった。さらに詳しい検査のために入院した吉田は、福島第一原発の所長を、後任の高橋毅に譲った。

 吉田が福島第一原発に戻り、闘いの日々を過ごした免震重要棟の緊対室で、全員に対して挨拶をすることができたのは、2011年12月初めのことである。

 緊対室には、突然去った吉田の姿を見ようと、協力企業も含めて数百人の人間が集まった。マイクを持って、テレビ会議のためのディスプレイの前に立った吉田は、そのひとりひとりに向かって、

「皆さん」

と語りかけた。福島第一原発では放射線の中での活動のため、建物の中にいても全員がタイベック姿である。免震重要棟から一歩外に出る時は、さらに全面タスクを装着するのである。

「皆さんに挨拶もできないまま、こんな形で(後任)の高橋君にあとを譲ってしまいました。誠に申し訳ありませんでした。もう私の病気については、みなさんもご承知かと思いますが、どういう状況かと申しますと、食道癌のステージ・スリーということを病院で診断されました」

  (「第22章 運命を背負った男 緊対室に巻き起こった万雷の拍手」は次回に続く)

※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、

2016/6/6(月)22:00に投稿予定です。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日


『死の淵を見た男』<運命を背負った男 ~大声をあげて泣いた~> ※66回目の紹介

2016-06-01 22:28:39 | ã€å‰ç”°æ˜ŒéƒŽã¨ç¦å³¶ç¬¬ä¸€åŽŸç™ºã®ï¼•ï¼ï¼æ—¥ã€‘

 ï¼Šã€Žæ­»ã®æ·µã‚’見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。66回目の紹介

『死の淵を見た男』著者 é–€ç”°éš†å°†

「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」

それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)

吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。

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**『死の淵を見た男』著書の紹介

第22章 運命を背負った男

 大声をあげて泣いた P341~


(前回の続き)

「すごく苦労したんだというのは、ひと目でわかりました。驚いたのは、その時の恰好です。結構派手なパジャマというか、ジャージみたいな、ピエロが着るようなものを着て帰ってきたんです。なんでも、除染のために来ていた物は捨ててくるので、その代わりに古いみたいなものを来てたようです。こっちは生きて帰ってきてくれたのでそれだけでうれしくて涙がでましたけど・・・」

 夫に許されたのは、わずか「2泊」だけだった。冷却が進んでいたとはいえ、指揮官である所長がそれ以上、現場を離れるわけにはいかなかったのだ。

 帰宅翌日、洋子が、大声をあげてなく場面があった。夫が、「自殺したのではないか」と、思ってしまう出来事があったのである。
「翌日、主人が何かを机の上にそろえて、”ここにあるからね”って言って、ふらっといなくなったんです。主人が出かけたあと、机のところにいってみたら、財布とか預金通等とか携帯電話とかが、みんなきれいにおいてあるんですよ。それを見て、まさか、と思ってしまったんです。だって、預金通帳まで揃えておいておくなんて、変じゃないですか。それで急に心配でたまらなくなって、ひょっとして・・・と、変なことを考えてしまったんです。私、静岡が実家なんですけど、そこのあねに、”どうしたらいいんだろう”って電話したんです。そうしたら姉は、主人のことを、ちゃんと把握してますので、”吉田さんはそういう人じゃないから大丈夫よ”って言ってくれたので、なんとか、気を取り直そうとしたんですけど、それでも心配でたまらなくて・・・」

 夫は、あれだけの経験をして、しかも、部下の中で、2人の若い命を失わせてしまっている。その地獄のような現場から離れた時に、ふと気が緩むことがあってもおかしくない。そう思うと、洋子の胸で不安がたまらなく膨らんでいってしまったのだ。

「私の中で不安がどうしようもなく大きくなってしまって・・。それから1時間ぐらい経ったでしょうか。ドアが、ギイーって開いて、”ただいまあ”って、何事もなかったように帰ってきたんですよ。私は、言葉がなくなっちゃって、その瞬間、主人にしがみついて、わーんって泣いちゃったんです。たいがい、わーんって、声を出して泣くことってないです。大人になってから、あんなに泣いた経験って、ちょっとなかったです」

 驚いたのは、吉田である。

「どうしたの?」

 吉田はこの時、お金を少しだけポケットに突っ込んで散髪に行っていた。放射能がつきやすいのは髪の毛なので、なるべく短く刈ってこようと思ったのである。

「主人は大きいですから、「わたしは、銅のあたりにしがみついて泣いていましたが、向こうは、意味がわからなくて、呑気な顔して、”どうしたの?”って言っているから、理由を言って、”いなくなっちゃうつもりだったの?”というようなことを聞いたんです。”そんなことするわけがないじゃない”って言っていました。私は、主人が自分の責任を果たして、亡くなったんじゃないかと、ふっと思ってしまったんですね。それが無事戻ってきたことで、プツンってなっちゃったんですよ」

  (次回は「第22章 運命を背負った男 緊対室に巻き起こった万雷の拍手」)

※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、

2016/6/2(木)22:00に投稿予定です。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日


『死の淵を見た男』<運命を背負った男 ~大声をあげて泣いた~> ※65回目の紹介

2016-05-31 22:22:35 | ã€å‰ç”°æ˜ŒéƒŽã¨ç¦å³¶ç¬¬ä¸€åŽŸç™ºã®ï¼•ï¼ï¼æ—¥ã€‘

 ï¼Šã€Žæ­»ã®æ·µã‚’見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。65回目の紹介

『死の淵を見た男』著者 é–€ç”°éš†å°†

「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」

それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)

吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。

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第22章 運命を背負った男

 大声をあげて泣いた P341~

「もしもし、俺だ、俺だ」

 受話器の向こうから聞こえてくる夫の声に吉田洋子(55)は、思わずこう応えた。

「パパ? 生きてた? 大丈夫?」

 生きてた? - 夫の置かれていた状況をこれほど的確に表す言葉は、ほかになかっただろう。福島第一原発所長の吉田正郎が、東京の自宅に電話をかけることができた時、家族は、

「パパが生きているかどうか」

 ということが最大の関心となるほど、重い空気の中にいた。すでに地震から1週間近くが軽過。プラントは冷却の報告に向かってはいるが、もちろん予断は許さない。ふと自分が「生きている」ことだけは、家族に伝えておこうと思い立った吉田は、やっと架かり始めたPHSを使い、本店の回線を経由する形で自宅に電話を入れたのだ。

 水素爆発や格納容器の圧力上昇など、連日の報道でいやというほど危機的な状況が伝えられていた家族にとっては、テレビが報じる福島第一原発の深刻な情報は、そのまま夫の「命」にかかわるものだった。妻に「生きてたの?」と聞かれた吉田は、

「とりあえず、今は生きてるよ」

 と応じた。それは、吉田らしいひと事だった。大げさにも言いはしないが、それでも、状況を過小につたえることはしない。そして、吉田は、こうもつけ加えていた。

「どうなるかわからんけど、しょうがねぇから、今、生きてることだけ伝えておく」

 部下が近くにいる中で所長たる吉田が家族としんみり話すわけにはいかなかった。

「女房は、その時は泣いてなかったですね。泣く余裕もない状態だったんじゃないですか。あの時どうだったの?って聞いたことがあるんだけど、なんせ、次から次といろんなことが起こるじゃないですか。旦那がいるところが地震と津波に襲われて、もう大騒ぎになってるわ、一号機は爆発するわ、3号機は爆発するわって、派手なシーンをテレビで見てるわけでね。想像をはるかに超えた大変なことの連続だから、もう泣くとかそんな状態じゃなかったみたいですよ」

 吉田は、そう言った。一方、洋子夫人はこう語る。

「報道があまりに深刻なものばかりなので、その頃の記憶が欠落しているんです。次男から急に電話がかかってきて、テレビをつけてみて! と言われてスイッチを入れた時、(原子炉建屋が)爆発しているのだ映し出されて、頭が真っ白になってしまったんです。自分は何をやったらいいのかわからず、テレビを見てるしかなくて・・・ただ、主人が無事でいて欲しいとそればかり祈っていました」

 2人の間には、30歳、27歳、24歳の3人の息子がいる。それからというもの、洋子には、夫の命を心配するだけの日々が続いたのである。夫がやっと「3日間」だけ家に帰ってくることができたのは、それから1か月以上経ってからのことだった。

「あれは、4月だったと思いますが、事故後、初めて家に帰ってくることができたんです。マンションのドアが開いて、顔を見た途端に、ああ、生きて戻ってくることができたんだ、と思いました」

 地獄の現場から帰還した夫は、痩せて、髪も伸び、やつれていた。

  (「第22章 運命を背負った男 大声をあげて泣いた」は、次回に続く)

※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、

2016/6/1(水)22:00に投稿予定です。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日


『死の淵を見た男』<決死の自衛隊 ~突然鳴り始めたアラーム~> ※64回目の紹介

2016-05-30 22:33:46 | ã€å‰ç”°æ˜ŒéƒŽã¨ç¦å³¶ç¬¬ä¸€åŽŸç™ºã®ï¼•ï¼ï¼æ—¥ã€‘

 ï¼Šã€Žæ­»ã®æ·µã‚’見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。64回目の紹介

『死の淵を見た男』著者 é–€ç”°éš†å°†

「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」

それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)

吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。

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第19章 決死の自衛隊

 突然鳴り始めたアラーム P297~

(前回からの続き) 原田一曹から声が上がった。出発する前に衛生隊から、「これが、鳴ったら、すぐ退避してください」と説明されている。原田は、そのことを言ったのである。だが、その時、松井の目に”あるもの”が飛び込んできた。

 「人」である。

 そこは真っ暗ではなく、工事現場にあるような自家発電のライトが何か所かについていた。そこまでくる坂は真っ暗だったが、そこには灯りがあった。その中にタイベックを来た東電の現場の人間が立っていたのである。彼は、手招きして松井たちの消防車を誘導しているのだ。

 目の前には、不気味に浮かび上がった3号機があった。松井たちの線量計のアラームは鳴り続けている。そんな中で、「外」に立って、自分たちの消防車を誘導している人間がいるのだ。

「その時、なんというか、私、すごい、と思ったんですよ。この中に立ってる人がいるということ自体に、なんというか言葉に語弊があるかもしれないですけど、この状況の中で、本当に、すごいなと思ったんです。やっぱり、現場のひとは、ものすごい強い気持ちをもって真剣に対処してるんだな、ということを感じました。私は、その瞬間、”アラームが鳴ったら退避してください”という説明を忘れていました。それで、原田一曹に私から指示を出したんです」

 松井は原田に向かって言った。

「放水しろ!」

「わかりました!」

 原田はそういうと、車を全身させて、ターレットの向きを決めるレバーの調整に入った。運転席に原田、助手席には松井がいる。距離にして目標までおおよそ50メートルはあった。だが、最長80メートルまで飛ぶ性能を持つだけに、その距離はどうということはない。

 まず目標点を正確に定めるために最初の水を噴射した。真正面に立っているその東電の人間から、「もうちょっと向こう」という合図が手であった。

 原田が少しだけターレットを「右」に振った。目標点をずらして噴射したのだ。外に立っている彼が、今度は頭の上で、大きなマル印をしている。

「よし!」

 原田の手に力が入った。あらためて放水のボタンを押すと、ブワーンっという大きな音がした。目標に向かって凄まじい勢いで水が飛んで行った。10トンの水を、わずか「2分あまり」で放出するのである。それは、恐ろしいほどの音だった。

 運転席の原田一曹、助手席に松井二佐は、無言で一挙に放出されていく水を見ていた。

 あっという間に10トンという大量の水が、原子炉に向かって出ていった。

「外に立っている彼が、手で、グッと大きくマルをしてくれました。ああ、うまくいった、と思いました。その時は、やっぱり、期待にこたえられたというか、ちょっとホッとしました」

 アラームは鳴り続けていた。現場から離れてその音はやっと止まった。Uターンをして、坂を上がってもとの待機所に戻った時、役目を果たしたという満足感が2人にこみあげてきた。

「お疲れさん」

(略)

 松井たちの放水は、この1回だけで終わり、翌18日には、別の人間が行って放水を実施した。また、20、21日の2日間で陸・海・空、全部含めて3回放水し、放水回数はトータル5回となった。

 松井が百里基地に戻ったのは、3月19日である。(略)

  (次回は「第22章 運命を背負った男 大声をあげて泣いた」)

※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、

2016/5/31(火)22:00に投稿予定です。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日


『死の淵を見た男』<決死の自衛隊 ~突然鳴り始めたアラーム~> ※63回目の紹介

2016-05-26 22:28:22 | ã€å‰ç”°æ˜ŒéƒŽã¨ç¦å³¶ç¬¬ä¸€åŽŸç™ºã®ï¼•ï¼ï¼æ—¥ã€‘

 ï¼Šã€Žæ­»ã®æ·µã‚’見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。63回目の紹介

『死の淵を見た男』著者 é–€ç”°éš†å°†

「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」

それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)

吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。

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**『死の淵を見た男』著書の紹介

第19章 決死の自衛隊

 突然鳴り始めたアラーム P297~

 一行が福島第一原発の正門についたのは、もう午後6時半頃のことだ。松井の所属する航空自衛隊と、齋藤らが乗る陸上自衛隊の消防車輛が到着した。

 松井たち幹部は正門横にある警衛所に入った。ここでそれからおこなう作業について、東電の人間から詳細な説明を受けた。松井たちの前に、発電所内の地図が広げられた。

「これから3号機というところに放水をしていただだきます。いま正門にいますから、直接行くのではなく、いったん3号機と正門の間ぐらいのところに集まって待機し、そこから、一台ずつ行って放水してもらうことになります」

 すでにあたりは真っ暗だった。警衛所の中では、全員がゴーグルをとった。建物の中は灯かりがついていた。蛍光灯に照らし出された中で説明する東電の人間の緊迫感が、松井に伝わってきた。

「説明してくれた東電の人は若い方だったですよ。正門と3号機との中間地点のところに一回集まって、そこから一台ずつ放水して戻ってくる、つまり一台が戻ったら、次の一台が行って、また放水して、というやり方であることが説明されました」

 30分ほど説明はつづいた。

 松井たち自衛隊側も、自分たちで順番を決めていった。最初に行くのは、陸上自衛隊の化学防護車にした。これがまず現場に行き、その段階で現場の放射線量の数値が想定以上になっていたら、「赤色灯をまわして、スピーカーで撤収の合図を出す」ということを決めたのである。

「案内は私たちがします」

 最期にその若い東電の人間がそう言って打ち合わせは終わった。

「説明を受けてる時は、怖いというよりは、教えてもらった通りに、ちゃんと3号炉のところにつけるかな、という方が不安でした。東電の人が案内するといっても、厳密には、待機するところから3号炉までは一台ずつ自分たちで行かないといけない。そこから向こうは、”先で待ってる”ということなんです。教えられたのは一直線だったので、なんとか行けるだろうとは思いましたが・・・」

 いよいよ松井たちの放水活動が始まった。まず先に行ったのが、打ち合わせ通り、陸上自衛隊の化学防護車である。

 放射線の汚染状態の中でも、調査・測定が可能な特殊な偵察車輛である。まず、これが現場に降りていった。そのあとを松井たちの消防車が行くことになっていた。しばらく経って、化学防護車が帰ってきた。赤色灯もまわっおらず、スピーカーで撤収の合図も出されなかった。いよいよGOである。

「消防車としては、私たちが最初でした」

 と松井は言う。

「暗い中をS字カーブのような坂をうねりながら下っていきました。それほど急な坂ではなかったです。基地を出発する前に衛生隊から渡された線量計はスティックタイプのものです。タイベックの下には、われわれの作業服、つまり、自衛隊でいう戦闘服のようなものを着ていますが、その胸のポケットに入れていました。それが、坂を下りてきて、2号炉と3号炉の手前の十字路の交差点みたいなところに来た時に突然、鳴りだしたんです」

 ピピピピ・・・無機質なアラーム音がいきなり鳴り始めた。2人の線量計が同時になり始めたので、松井は驚いた。タイベックの下の自衛隊の作業着のポケットに入れている線量計だけに数値をみることもできない。

「隊長、線量計が鳴ってます。どうしましょうか」

  (「突然鳴り始めたアラーム」は、次回に続く)

※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、

2016/5/30(月)22:00に投稿予定です。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日


『死の淵を見た男』<決死の自衛隊 ~重装備での出来事~> ※62回目の紹介

2016-05-25 22:39:05 | ã€å‰ç”°æ˜ŒéƒŽã¨ç¦å³¶ç¬¬ä¸€åŽŸç™ºã®ï¼•ï¼ï¼æ—¥ã€‘

 ï¼Šã€Žæ­»ã®æ·µã‚’見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。62回目の紹介

『死の淵を見た男』著者 é–€ç”°éš†å°†

「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」

それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)

吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。

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**『死の淵を見た男』著書の紹介

第19章 決死の自衛隊

 重装備での出来事 P294~

  (※「重さ20キロの「鉛」の防護衣」は、前回で終わりました※)

 自衛隊への命令は、空中からの放水だけではなかった。地上からの放水に対しても各自衛隊に折木統合幕僚長から指令が飛んでいた。

「消防車2台と隊員6名で福島第一原発に行き、放水を実施せよ」

 茨城県小美玉市百里にある航空自衛隊・百里基地で施設隊長をつとめていた松井敏明・2等空佐(40)に命令が下ったのは、3月16日から17日へと日付が変わる頃である。

 施設隊とは、基本的には、基地の施設の維持・管理を担当する。そのほかにも、火事が起こった時に、消火活動も行うため、自前の消防車を持っている。

「福島第一原発で水素爆発などがあって大変な状況であることはテレビでも出ていましたので、わかっていました。しかし、その頃はまだ、われわれが行くことになるとは思ってなかったですね」

 松井二佐は、当時をそう振り返った。

「それが15日か16日か、だんだん、いろんなルートで ”もしかしたら消防車を持っていくかもしれない”という話が耳に入ってきてました。消防車というのは、航空自衛隊の基地には、通常2台あります。消防車の座席は、移動中にパッと着替えられるように、消防服などを普段からいろいろ積んでるんです。だから、座席に余裕があるかというと、そうでもないんですね。命令を受けて、1台に3人ずつ乗って出発しました。座席は2列ありますから前に2人、うしろに1人です。放射線に関して、不安がなかったといえば、うそになるんですけど、不安よりは、”すぐ準備をして出てくれ”という命令だったので、できるだけ早く準備をして、早く出発しなければいけないという意識の方が強かったと記憶しています」

 出発したのは、3月17日の午前3時半ごろだった。基地を出る前に、放射線を測る線量計を衛生隊から借りた。衛生隊からは、
「この線量計のアラームが鳴ったら退避してください」

 という説明があった。

「その線量計をつけて私たちは出発しました。消防車というのは、スピードが遅いですから、(原発からおよそ50キロ南にある)四倉パーキングエリアについたのが、朝7時から8時ぐらいだったと思います。出発して4、5時間はかかったと思います。すでに陸上自衛隊の消防車が何台も来ていました。そこに陸上自衛隊の二佐の方がいまして、その人が指揮官になり、”今から、Jヴィレッジに再度集合したのちに、原発に向けて移動する”と言われたんです」

 Jヴィレッジに行くにあたって、通常のホースによる消防活動をおこなう消防車ではなく、ターレット付きの消防車が選ばれた。ターレットとは、強力な噴射機のことで、消防車の座席の上ぐらいのところについている。航空自衛隊から派遣した消防車は、1分間におよそ6トンの水を噴射できる威力を持っている。最長で80メートル先にある目標物に大量の水を浴びせることができるものだ。ホースをつないで海から海水を入れ続けたそれまでの作業とはまったく異なる冷却・注入方式が可能な消防車だった。

「通常のホースでしか消化できない消防車は、Jヴィレッジのところで待機することになりました。最初は、1台に10トン入るAM-B3という消防車に乗って、私と原田克哉・一等空曹(43)の2人で行くことにしました」

 Jヴィレッジに着いたものの、そこから第一原発への出動命令は、なかなか出なかった。防護衣(タイベック)を来て、ゴーグル式のマスク姿で待機していた松井と原田が、やっと原発に向かって出発したのは、薄暗くなりはじめる午後4時台のことだった。

「どうして待機が長かったのかは説明がなかったので、よくわからないんです。別に悲壮感はなかったです。Jヴィレッジから隊列を組んでいったので、2時間ぐらいかかったような気がします。ふつうの乗用車で行くと、1時間ぐらいと聞いていたんですけど、消防車で隊列組んで、もともとスピードが出ない消防車なので、すごい時間がかかりました」

 この時、陸上自衛隊の木更津駐屯地からも、はるばる消防車が来ていた。木更津駐屯地本部管理中隊の救難消防班にいた斎藤祐之・2等陸曹(39)たちである。

「四倉からヴィレッジに行き、そこから第一原発に向かっていきました。時間がかかったのは、やはり暗かったことが一番ですね。案内役の東電の人は、道のどこに亀裂が入り、どこに隆起があり、また、どこが危険か、ということを知っているのでサッサと行けますが、こっちはそうはいきませんから」(略)

  (次回は「突然鳴り始めたアラーム」)

※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、

2016/5/26(木)22:00に投稿予定です。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日


『死の淵を見た男』<決死の自衛隊 ~重さ20キロの「鉛」の防護衣~> ※61回目の紹介

2016-05-24 22:24:59 | ã€å‰ç”°æ˜ŒéƒŽã¨ç¦å³¶ç¬¬ä¸€åŽŸç™ºã®ï¼•ï¼ï¼æ—¥ã€‘

 ï¼Šã€Žæ­»ã®æ·µã‚’見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。61回目の紹介

『死の淵を見た男』著者 é–€ç”°éš†å°†

「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」

それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)

吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。

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第19章 決死の自衛隊

 重さ20キロの「鉛」の防護衣 P287~

(前回からの続き)

 離陸後およそ30分。加藤二佐は、次第に近づいてくる福島第一原発を見ながら、「任務をどう達成するか」と、それだけを考えていた。もちろん、福島原発を直に目にするのは、事故後始めてである。加藤は、操縦席の左右に座っている伊藤輝紀・3等陸佐(40)、山岡義幸・2等陸尉(32)の両操縦士の間から前方の景色を見ていた。

 これまで飛行訓練で何度も近くを通ったことがある。直上こそ通貨したことはないものの、その姿は見慣れていたつもりだ。しかし、「ああ、あそこが原発なんだ・・・」

 今回にかぎってあらためてそんな思いがしたのは、やはりこの任務に特別な気持ちを抱いていたからに違いない。

「到着の直前にモニタリングの値を聞いて、前日の値とそれほど変わらないことがわかりました。自分の機と、もう一機に、予定通り上空からの放水を実施するということを伝えました。建物から高度30メートルのホバリングによる停止した状態での投下ではなく、高度90メートルを移動しながらの投下です。あとは水をどう目標に向かってまくかということだけを考えていました」

 放射線量によっては、ホバリングによる「定点散水方式」をおこなう可能性もあったが、やはり前日と同じで数値が高く、「移動散水方式」をとることになった。言うまでもなく定点散水方式のほうが目標への投下量は多くなるのだが、現場の放射線量を考えれば、致し方なかった。

 普段の訓練とは違う緊張感が彼らを捉えていた。放射線量への不安もあったが、彼らを特別な気持ちにさせたのは、その厳重な状態と装備である。

 空港ヘルメットの下に、防護マスクをかぶり、戦闘用防護衣を来て、その上に放射線を遮断するための”鉛”の入った偵察用防護衣を着こむのである。これには鉛の襟巻がついており、首回りをこれで保護した。

 さすがに、鉛の防護服を装着した時には、任務の重大さと危険性を感じて身が引き締まった。

「驚いたのは、やはり重さですね。全部で20キロもあって、つけてみると、ずっしりと来ました。首のまわりの襟巻にも、手袋にも、鉛が入っているんです。鉛の襟巻は、つけてマジックテープで留めましたが、鉛の手袋はつけるのをやめて通常のゴム製のものにしました。鉛の手袋ではスイッチ類なんかも全然触れませんから」

 放射能への不安はなかったのだろうか。

「不安はありましたが、一般的に、被曝する時に一番守らなければならないのは内臓です。防護マスク事態は、訓練でつけているのでどうということはないんですが、ただ、声は、ほとんど聞こえませんでした。機内は普通にしゃべっても聞こえないぐらいうるさいので、航空ヘルメットの中にリップマイクがあります。通常はそれを通じて話すんですが、今回は、中に防護マスクをつけていますから、当然、口にはリップマイクがつかない。だから、リップマイクをガムテープで防護マスクの声が出るところに貼り付けました」

 加藤機は、南下したまま海側から右に回り込んだ。上部が吹き飛ばされ、廃墟のような状態となった原子炉建屋を、加藤は、上空から見た。あまりに無残な光景だったが、加藤にはもう放水任務を完遂することしか頭になかった。

「建屋の屋根がなかったり、鉄骨はあるんですけど、まわりにいろんなものが飛散していました。間近で見るとやはり、ああ、すごい被害だなあと思いました」

 気になったのは、建屋の周囲にある高い鉄塔だ。風が吹いて、少しでも機体が流されれば、この鉄塔にぶつかる可能性がある。注意の上にも注意が必要だった。

「あらかじめつけていたデジタルの線量計の値が、近づくにつれ上がりました。もうここまで来ると私が指示することは何もありません。操縦士が合図を送って、うしろの整備員がスイッチを押すだけです」

 3号機建屋は目前だ。緊張が高まった。高度がぐっと下げられた。

「放水用意・・・放水・・・いま!」

 伊藤操縦士の「いま!」という合図によって、スイッチは押された。

 スイッチは、木村、中嶋の2人の整備員が握っている。コードのついた黒いスイッチレバーの先に赤いボタンがついている。この時、木村と中嶋は一緒にこの赤いボタンを押した。思いを込めた”スイッチオン”だった。水は投下された。

「直上ぐらいに来た時に、デジタル線量計で測っていた線量がドンッっと上がりました。相当な線量だったと思います。スイッチは一人で押せるんですけど、木村と中嶋が2人で押したと言ってました。思いを込めて押したのだと思います。私はずっと現場を見続けていました」

 投下が終わった。爆音が続く中、整備員が叫んだ。

「異状なく、投下完了!」(略)

  (「重さ20キロの「鉛」の防護衣」は、次回に続く)

※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、

2016/5/25(水)22:00に投稿予定です。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日


『死の淵を見た男』<決死の自衛隊 ~重さ20キロの「鉛」の防護衣~> ※60回目の紹介

2016-05-23 22:08:16 | ã€å‰ç”°æ˜ŒéƒŽã¨ç¦å³¶ç¬¬ä¸€åŽŸç™ºã®ï¼•ï¼ï¼æ—¥ã€‘

 ï¼Šã€Žæ­»ã®æ·µã‚’見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。60回目の紹介

『死の淵を見た男』著者 é–€ç”°éš†å°†

「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」

それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)

吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。

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第19章 決死の自衛隊

 重さ20キロの「鉛」の防護衣 P287~

 福島第二原発に退避した人たちが、続々と第一に帰ってきたのは、3月16日である。

「とにかく水を入れろ」

 吉田所長が事故当初から言い続けている作業には、多くの人手が必要だった。現場で動くべく、いったん退避していた人間が、次々と帰ってきたのだ。

 ひたすら水を入れ続ける作業は、”根比べ”の様相を呈している。暴走しようとするプラントをぎりぎりのところで止めても、それが数時間後には、ふたたび悪化するという状態が繰り返されていた。

 現場には、原子炉以外にも重大な懸念材料があった。各原子炉には隣接して使用済みの核燃料を保管しておくプールが設置されている。爆発した3号機や4号機では、爆発のショックや落ちてきた瓦礫などの影響で、プールが損傷している可能性があった。

 プールの水が失われれば、ここでも核燃料はメルトダウンを起こす。屋根が吹っ飛び、むき出しの状態であることから、そうなった場合の放射線放出量は桁違いで、その影響は計り知れない。ここにも水を補給するーすなわち「放水」の必要がったのである。

 異空間のように孤立した中での現場の活動に対して、東電からはあらためて自衛隊に支援が要請された。北澤俊美・防衛大臣から折木良一・統合幕張長に、陸用自衛隊のヘリコプターで上空から水を投下するよう指示が出されたのは、この日の午後である。

 ただちに3機のヘリが、福島第一原発周辺の放射線量をモニタリングすると同時に、大型ヘリ(CH-47)が現地に向かった。だが、放射線量が限界値を突破していることがわかり、この日の活動は見送られた。

 水蒸気が発生している3号機は「水位低下」が進んでいる可能性が高いことがわかり、放水は3号機を優先することが決定された。

 こうして「空」から、そして「陸」からー現場の闘いにあらためて自衛隊が加わることになった。

 この活動に投入されたのが、千葉県木更津市の木更津駐屯地に駐屯する陸上自衛隊第一ヘリコプター団の第一輸送ヘリコプター群である。

 地震発生直後に仙台の陸上自衛隊の霞目飛行場に飛び、ここから被災地への支援・輸送活動をおこなっていた第104飛行隊の加藤憲司・2等陸佐(39)を乗せた大型輸送ヘリ(CH-47)が福島第一原発に向かって離陸したのは3月17日午前9時前である。

 一番機に加藤を筆頭に5人、2番機には4人が乗り込み、仙台沖で海から取水して、そのまま福島第一を目指して南下していったのだ。

 水を入れたのは、野火消火器財1型と呼ばれるバケットだ。高さ2.4メートル、直径が2.2メートルもあるこのバケットを水面に落として引き揚げれば、自動的に中に大量の水が入る。その量は、最大で7.5トンにも達する。

 機体を迷彩色に塗り、前後に一つずつローターをつけたこのボーイング社製のCH-47「は、ベトナム戦争下の1962年に登場して以来、アメリカや日本だけでなく、イギリス、オーストラリア、台湾などにも配備されている大型輸送ヘリとして空中機動作戦には欠かせない世界で最もポピュラーな機種である。

「ここか・・・」

  (「重さ20キロの「鉛」の防護衣」は、次回に続く)

※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、

2016/5/24(火)22:00に投稿予定です。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日


『死の淵を見た男』<協力企業の闘い ~異空間のように孤立~> ※59回目の紹介

2016-05-19 22:17:54 | ã€å‰ç”°æ˜ŒéƒŽã¨ç¦å³¶ç¬¬ä¸€åŽŸç™ºã®ï¼•ï¼ï¼æ—¥ã€‘

 ï¼Šã€Žæ­»ã®æ·µã‚’見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。59回目の紹介

『死の淵を見た男』著者 é–€ç”°éš†å°†

「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」

それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)

吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。

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第18章 協力企業の闘い

 「異空間のように孤立」 P287~

 あとで、阿部はこの時、はるばる柏崎から”応援部隊”が、いわきまで来ていたことを知った。

「柏崎で私が教えてた原防の消防隊のメンバーの中で、25歳前後の3人が、先に来ている私らが大変だろう、ということで、志願して、いわきまできてくれていたことを知りました。

 いわきでは、こんな大変な時に、なんで柏崎から来るんだ、なんて無謀なことするんだ、と言われたらしいんですよ。退員の一人が、”先発してきている人間が難儀してるんで、それで応援に来ました”言ったらしいです。原防の福島の人間はびっくりしたんですよ。そのときに、”私たちは柏崎から来てるのに、なんにもしないわけにいかねえんだ。手助けしないわけにいかねえんだ。私たちは応援します”と、ここまで来ようとしたらしいんでね。私、そんなことがあったなんて、あとになるまで知らなかったですよ。でも、協力企業でも、そこまで一生懸命だったというのは、事実なんですよ」

 阿部は、震災半年後の2011年9月いっぱいで原防を退職した。

「福島にあのとき行った若い連中と飲むことがあるんですよ。最初に行った私たち3人と、あとからきた3人です。あの時は、大変だったな、って。私自身、心意気というか、そういうのが、すごくありがたいですよ。気持ちのいい人間たちで、いざとなったら働くメンバーでね。うちは、ずっとよその会社には負けない、という信念でやってきたところがあります。あの中を応援部隊まで来てくれていたことが嬉しかった。自分たちは仲間だという気持ちを持って若い人たちが来てくれたことを知って、本当に、いい若者だなあ、と思ったですよ」

「生」と「死」が行ったり来たりする究極の場面が次々と現れては消えていった。放射線量が上がったかと思うとまた下がり、あるいは、原子炉の圧力が、これまた現場で奮闘する男たちをあざ笑うかのように上昇したり、下降したりした。

 そんな中に入ってこようとする人間はきわめて限られていたのである。

 佐藤眞里が言う。

「本当にここだけが異空間のように孤立してたんですよ。いろんなものが欲しく仕方がないのに何も来ない。もう静粛っていうんですか、不思議な静けさがありました。結局、必要ないろんな物資が小名浜まで来たのにもって帰っちゃったとか、どこそこに置いたままになっているとか、そういう状態になっていたんです」

 現場の奮闘は、いつ果てるともなくつづいていた。

  (次回は「第19章 決死の自衛隊 重さ20キロの「鉛」の防護衣)

※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、

2016/5/23(月)22:00に投稿予定です。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日


『死の淵を見た男』<協力企業の闘い ~男泣きに泣いた~> ※58回目の紹介

2016-05-18 22:03:32 | ã€å‰ç”°æ˜ŒéƒŽã¨ç¦å³¶ç¬¬ä¸€åŽŸç™ºã®ï¼•ï¼ï¼æ—¥ã€‘

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『死の淵を見た男』著者 é–€ç”°éš†å°†

「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」

それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)

吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。

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第18章 協力企業の闘い

 「男泣きに泣いた」 P282~

(前回からの続き)

 目の前で泣く阿部の姿が、佐藤はありがたかった。

「原防の阿部さんが、ボロボロと涙を流してPHSで話していました。こっちは、行ってもらいたいんですけど、協力会社の方ですので、自分の判断で行くことができなくて・・・。阿部さんが泣きながら、そう言ってくれるのは、本当にありがたかったです・・・」

 しばらく経って、原防の社長に連絡がついたが、やはり社長は「社員の命を守る立場にある。阿部一人を出せばその次も、と結局は大勢を現場に戻らせることになりかねない。そこまで協力企業がやらなければならないことはない。答えは、「阿部さん、ここは(行くのを)我慢してくれ」だった。

 つながりにくいPHSで何度もGMに指導を行っていた阿部に、社長から許可が下りたのは、よく16日の朝のことだった。

「もう、なんとかしてやらんきゃならん」

 泣きながら訴える阿部の願いを、ついに社長が受け入れてくれたのである。

「阿部さん悪いけど、じゃあ、行ってくれるかね」

 社員の命を心配する社長を、阿部の熱意が揺り動かした瞬間だった。

「すみません、迷惑かけてすみませんでした。ありがとうございます」

 阿部は、やっと福島第一の現場に戻ることができたのである。危険な現場に向かうというのに、阿部の気持ちは「ありがとう」だったという。

「社長も、こっちの命を心配してくれて、苦しかったと思うんですよ。でも、許可が出て、嬉しかった。何度も阿部GMから夜中に相談があって、その中には、”消防車から放水をして、30メーターぐらいの高さに水を上げて、建屋の中に水を入れる、ということもやりたいんだが、できるでしょうか”というような内容もあったんですよ。圧力にもよるけど、25メートルとか27メートルくらいまでは有効射程ですから、”その範囲であれば、できます”と私は答えました。(略)

  (次回は「異空間のように孤立」き)

※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、

2016/5/19(木)22:00に投稿予定です。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日


『死の淵を見た男』<協力企業の闘い ~男泣きに泣いた~> ※57回目の紹介

2016-05-17 22:18:11 | ã€å‰ç”°æ˜ŒéƒŽã¨ç¦å³¶ç¬¬ä¸€åŽŸç™ºã®ï¼•ï¼ï¼æ—¥ã€‘

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『死の淵を見た男』著者 é–€ç”°éš†å°†

「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」

それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)

吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。

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第18章 協力企業の闘い

 「男泣きに泣いた」 P282~

 その時だった。佐藤がハンドマイクを持って阿部を呼び出したのである。

「原防の阿部さん、原防の阿部さん、電話が入ってますので、こちらに来ていただけますか」

 唯一、免震重要棟の緊対室とつながるPHSに、阿部宛ての電話が入っているというのだ。体育館の一番奥にいた阿部は、暗い体育館の中に身体を横たえている人をよけながら、佐藤のもとに走った。

「阿部GMから電話です」

 それは、同じ姓の阿部孝則・防災安全グループGMからの電話だった。

「阿部さん、(残った)消防車のエンジンがまた止まってしまいました。消防車の水タンクに水を補給するやり方を教えてくれないだろうか」

 水タンクに水を補給するには、吸管をいったん水から引き揚げて、ポンプの中を一度、空にしなければならない。手順がいくつもある。

「阿部GMは、それを今から自分ひとりでやる、なんとかやり方を教えてくれないかと、私にいうんです。でも、それって、一人でやるのは大変なんですよ。場所が場所だし、重たいし、さらに、ポンプの操作もあるわけですよ、とても経験のない人が一人でできるようなものじゃない。私、それを聞いて、急にどうしようもないでね、哀れになっちゃってね。涙が出てきたんですよ・・・。現場に行ってやりたいんだけどって・・・」

 阿部は、暗闇の中で一人で活動をやるGMの姿を思い浮かべた。あまりに、哀れで涙があふれてしまったのである。

「もし水が上がらん時は、もう一度、操作をやり直していろいろやらないといかんわけです。そういうのを思い浮かべたら、あまりにかわいそうでかわいそうで、私、男泣きに泣いたですよ。”わしがいきますから・・・”って言いましてね。でも、こっちは社長から行くな、と言われているから、私も勤め人だから、行けない。連絡手段もないから、社長に直接頼むこともできなかったですよ。うちの社長は東電の出身だったでね。許可さえ下りたら、私は行くから、って言ってね。なんとかそっちからうちの社長に連絡とって頼んでもらえないだろうか、って話をしたんですよ」

  (次回は「男泣きに泣いた」の続き)

※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、

2016/5/18(水)22:00に投稿予定です。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日


『死の淵を見た男』<現場の窮状は手にとるようにわかった ~土壇場の葛藤~> ※56回目の紹介

2016-05-16 22:18:29 | ã€å‰ç”°æ˜ŒéƒŽã¨ç¦å³¶ç¬¬ä¸€åŽŸç™ºã®ï¼•ï¼ï¼æ—¥ã€‘

 ï¼Šã€Žæ­»ã®æ·µã‚’見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。56回目の紹介

『死の淵を見た男』著者 é–€ç”°éš†å°†

「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」

それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)

吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。

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**『死の淵を見た男』著書の紹介

第18章 協力企業の闘い

 「土壇場の葛藤」 P279~

「誰か助けてください!大型免許をもっておられる方はいませんか。消防車を運転できる人はいませんか!」

 暗闇の福島第二原発の体育館に佐藤眞里の声が響き渡っていた。体育館の入り口付近にだけ灯りがついている。かろうじてついているその光が、手にメガホンを握って叫んでいる防災安全グループの佐藤の姿をぼんやりと写し出している。それは切羽詰まった涙の訴えだった。

(俺がいる。俺が行けます)

 その時、日本原子力防護システム(JNSS)の新潟事務所に勤める阿部芳郎(63)は、そう思った。阿部は、地震発生直後にはるばる柏崎から福島第一原発まで”応援”に駆けつけた協力企業の一人だ。原防は、昭和52(1977)年に主に原子力関連施設の警備をおこなう目的で設立された会社である。

 だが、阿部は37年間、新潟県内の消防署勤務を経験した消防マンだ。60歳の時に原防に入った阿部は、警備よりも「消防」のエキスパートが要求されるプラントとへの給水活動の応援のために、若手2人を連れて地震翌朝には福島第一原発に乗り込んでいた。ただちに同じ協力企業の南明興産と共に給水活動を展開し、15日朝、吉田所長の指示によって福島第二原発への退避を命じられるまで、不眠不休で活動していた。ちなみに南明興産は、1号機と2号機の水素爆発で計3名の負傷者を出している。

 だが、福島第二の体育館の退避してきた阿部たち協力企業の前で、佐藤眞里が泣きながら叫んでいた。

「皆さん、助けてください。誰か助けてください!」

 佐藤は必死だった。この日の朝、死に装束をまとって座っているように見えた吉田ら幹部たち「69人」を除いて、福島第一原発の免震重要棟から退避してきた東電社員と協力企業の人々は、600人近かった。

 福島第二原発の体育館に、彼らは収容されている。しかし、「69人」の懸命の闘いにも、限界があった。特に原子炉への注水活動の人員不足が時間を経るにつれ、露呈し始めたのだ。


(中略)

 そんな葛藤を見ながら、佐藤地震も泣きながら「助けてください」と叫んでいたのである。阿部を突き動かしたのは、その佐藤の懸命な訴えにほかならなかった。すでに3日にわたって、注水活動をおこなってきた阿部だけに、現場の窮状は手にとるようにわかった。

「佐藤さんが暗い体育館の中で必死で訴えていました。爆発で消防車がやられましたから、現場の絶対数が足りなくなっていたんです。要請に応じて、近くまで消防車が何台も到着するんです。でも、一定の場所から中には入ってきてくれないんですよ。要するに、放射能が怖いから消防車を置きっぱなしにして帰るわけなんです。

それを現場まで運転していって、さらに給水口につないだり、いろいろ操作をしなくちゃいけない。同じ消防車でもメーカーによってとりあつかいが違いますから、操作は簡単ではないんです。でも、その人手がない。佐藤さんが手にハンドマイクをもって、”誰かいませんか!”って叫んでね。最後の方は、もう泣きながらでしたよ。大型免許があれば、現場まで消防車を運ぶことができるかもしれないが、でも、そこから先もあります。そこまでできる人って、やっぱり限られているわけです。」

 それこそが消防署に37年間も務めていたその道のエキスパートである阿部だった。運転はもちろん消防車を使った注水活動については、どんなことだってできる自信が阿部にはある。行って助けてやりたい。阿部はそう思った。だが、それは許されなかった。

「やはり私たちは協力企業ですから、自分たちの社長の指示に従わなければいけません。東京本社にいる社長が、社員をそんなところに行かせるわけにはいかないと、現場に行くことを許してくれなかったんです。社長の気持ちとしては、当然だったと思います・・・」

  (次回は「男泣きに泣いた」)

※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、

2016/5/17(火)22:00に投稿予定です。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日


『死の淵を見た男』<小便器自体は、ずっと真っ赤、誰もが疲労の極にあった> ※55回目の紹介

2016-05-12 22:00:00 | ã€å‰ç”°æ˜ŒéƒŽã¨ç¦å³¶ç¬¬ä¸€åŽŸç™ºã®ï¼•ï¼ï¼æ—¥ã€‘

 ï¼Šã€Žæ­»ã®æ·µã‚’見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。55回目の紹介

『死の淵を見た男』著者 é–€ç”°éš†å°†

「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」

それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)

吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。

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**『死の淵を見た男』著書の紹介

第17章 死に装束

 「残るべき者が残った」 P275~

 緊対室は、シーンとなった。それまでの喧噪が嘘のような静謐な空間となった。だが、不思議に悲壮感はなかった。

 伊沢はこの時、残るべきメンバーが「残ったのだ」と思った。

「私がみんな送りだした後、振り返ったら、発電班はいっぱい残ってたんですよ。えっ、と思いました。発電班は、技術を持っていますから、残らなければならない人は多かったですが、それでも、25人ほど残っていた。びっくりしてしまいました」

 その時の静けさが伊沢は、脳裡から離れない。

「みんなが、ウワーって避難して、出尽くしたじゃないですか。そのあとって、残るべき者が残って、終わった時は、すごく静かでしたよ。シーンとした中で残った者がお互いの顔を見ました。いや、悲壮感じゃないですよ。笑顔って言ったらあれだけど、なんて言うか独特の雰囲気でした」

 その時、黙っていた吉田所長が静粛を打ち破るように、こう言った。

「なんか・・・食べるか?」

 死をいやでも意識せざるを得ない緊張の空気が、この一言で一瞬にしてやわらいだ。これこそが吉田の吉田たる所以かもしれない。

 吉田の一言で、それぞれがごそごそと食べ物を探し始めた。

「なんか食べるもんねえかなあ」

「あった、あった、あった」

「ほら、ほい、ほい、ほい」

 せんべいやクラッカーなどが、いろんな場所から出てきた。そして、各々がそれらを配り始めたのだ。

「なんか食べるかって、吉田さんが言った時、あっ、俺とおんなじこと言ってる、と思ったんですよ」

 伊沢は、そう笑った。

「中操にこもって、シーンとなった時に、私も同じことを言ったことがあるんですよ。なんか、雰囲気を変えるというか・・・。吉田さんが言った時、みんな、”うおっとお”って、そんな感じになりましたね。みんなで、あっちこっち、机とかいろいろごそごそ探しましたよ。非常食しかないんですけどね。飲み物は、残っていたペットボトルの水だった」

 探しているうちに、誰かがヨウ素剤を見つけた。

「あっ、ヨウ素剤がありました」

 そんな声が飛んだかと思うと、ヨウ素剤も食べ物と一緒に配られた。

(中略)

 すでに、身体はぼろぼろになっていた。免震重要棟のトイレは、真っ赤になっていた、と伊沢は言う。

「トイレは水も出ないから悲惨ですよ。流すこともできませんからね。みんなして仮設のトイレを運んできて、それがいっぱいになったら、また次の仮設トイレを組み立てながらやってましたけど、とにかく真っ赤でしたよ。みんな、血尿なんです。あとで、3月下旬になって、水が出るようになっても、小便器自体は、ずっと真っ赤でした、誰もが疲労の極にありました」

 およそ600人が退避して、免震重要棟に残ったのは「69人」だった。海外メディアによって、のちに”フクシマ・フィフティ」”と呼ばれた彼らは、そんな過酷な環境の中で、目の前にある「やらなければならないこと」に黙々と立ち向かった。

  (次回は「第18章 協力企業の闘い「土壇場の葛藤」」)

※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、

2016/5/16(月)22:00に投稿予定です。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日