Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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暮らしの中で直感が占める割合が大きくなっている

最近は体調が良かった日が多かったような気がする.とはいえ悪い日もあって,そうい う日はずっと寝ている.いまだに突然不安感に襲われることがあって,そうい うときにうまく対処できることもあれば,対処しかねるときもある.自分がどういうときに 安心するのか,どういうことをしたら元気になるのか,ということをずっと考えている.

最近あまり素直な感情になれていないなと思う.素直な気 持ちでいる間は,だいたい平穏な気分で過ごせているように思える.素直じゃないとき は,頑固というか,容易に他人の言うことを聞いてなるものか,という気持ちで過ごし ていることが多い.じゃあなんで他人の言うことを聞かないかといえば,自分の頭でちゃ んと考えるべき,という発想が頭のなかにずっとあって,なんでも他人の意見を批判的 に受け取ってしまうから.

理屈で考えるようにする

批判的になってしまう理由の一つとして,理屈としては筋が通っているんだけど怖くて受け 入れがたいから,というものがある.より抽象的に言うと,自分の中では理屈よりも直感を優先して いるようなところがあると思う.でも当然優先すべきは理屈のはずで,どうして理屈よりも 直感を優先する傾向が出てきたのかはよくわからない.ふつうの人が僕を見たら,理屈 が通っているほうを選ばず,自分の中の謎のルールを選んでいる謎の人類,というふう に映るはず.過ごしている環境が違えば,今頃陰謀論者になって世の中を席巻している かもしれない.でも運良くそうはならず,ソフトウェア開発者として糊口を凌いでいる.

いまさら言うまでもないけれど,直感よりも理屈で考えるメリットはたくさんある.まず論理という枠組みに基い て構築されているので,後からゆらぐことがないし,時間的に見ても長持ちする.崩れてしま う不安はあまりない.これが直感によるものだと,この直感は正しいのだろうか,とい う新たな問いが登場してきて,ずっと悩み続けたりすることになる.「なんかこれを購 入したほうが良い気がする」という話よりも,「こういう理由があって,予算はこれく らいで,この製品はそれらの条件を満たすから」という理由で物を買うほうが,たぶん 幸せになれる.

どのようにして直感優先の思考プロセスが形作られてきたのだろうかという問いについ ても考えてみる.よくありそうなシナリオをまず考えてみると,理屈による思考の限界 を感じた結果,直感の比重が増えていった,という話が考えられそう.

世の中,理屈ではうまく説明できないような事柄はよくある.そういう事柄にたくさん 遭遇することもあれば,めったに遭遇せず,すぐに忘れてしまうこともある.自分の場 合はそういう事柄にたくさん遭遇し,なおかつ,自分は何にでも理由を求めてしまう気 質なので,理屈で説明できない事柄への解答として,直感の優先,といった概念を発達 させてきたと思う.

直感というのは便利なもので,理屈で説明できない事はあっても,直感で説明できない ものはほとんど無い.説明というよりは「そんな感じがするし,そうなっているから」 という解答に誘導してしまうのが直感である,と書いたほうが正確かもしれない.

ポストトゥルース

最近はポストトゥルースの時代と言われている.これまでの時代と比べて,われわれの 思考の指針であった論理を構成するはずだったファクトの信頼性が失われていたり,意 図的にフェイクニュースが流されたり,といったことが世の中で起こっている.「理屈で考 えていたけどしょうもない嘘だった」みたいな失敗体験が積み重なりやすい土壌ができ ていると思う.真面目に論理的に考えて,その結果失敗を体験する,ということが繰り 返されると,わざわざ知力体力を消耗するちゃんとした思考をするのもばかばかしい, という態度になっていくと思う.

似たような話題として,SNSをやっていると,理屈が全然通じ ない人が見掛けの上ではたくさん登場して,やるせない気持ちになることがある.やはり真 面目に考えるのもばかばかしい,という気持ちになっていく.と同時に,たちが悪いことに,多様 性の時代なので,価値観が全く相容れなくても,まあまあ正しい,間違っているのは自 分だった,ということもまれにあるので,自分の思考が正しいのか,たまに不安になっ てしまう,ということがある.しかし自分はインターネットが好きなので,あまりSNS を離れてしまいたくない気持ちがある.

同時に2つの正しさが並立するというのは,これまでの人類の歴史ではあまりなかった ことで,そういう概念をうまく処理できるようには,自分の脳は進化しきれていないと 思う.歴史的には,アウフヘーベンしましょう,すると1つに考えがまとまって,よかっ たですね,という結末を迎えることになると思うけれど,SNSとかではそういうことは 起こらない.

そもそも論として,SNSは荒事の場所で,基本的には殴り合いが行われている場所なの で,真面目に考える場所ではない.理屈をやる場所はまた別にあると思うし,SNS基準で世の中に幻滅しても仕方がな い.しかし世の中的にはSNSの立ち位置はなんか偉くなってきていて,そんなんでいい のか,と思ったりする.

どう暮らすか

話が脱線してしまったけれど,直感よりは理屈で考える習慣を僕は取り戻したほうが良いと 思う.ずっとSNSをやっていると,硬派な文章を書くことが無く,論理展開のふんわり した文を乱発することになるので,論理構成力も落ちてしまっている.意識とは言葉な ので,普段使う言葉の質が低下すると意識の解像度も落ちる,そんな気がする.

人間はどのようにして,直感的な不安を論理で打倒してきたのだろうかと,不思議に思 う.はるか昔の人類は,論理的に考えるとうまくいきそうだけど,めちゃくちゃ不安だ, といったとき,どっちを選んでいたのだろうか.もともと世界は混沌としていて,不可 解そのものなのだけれど,たまたま人間の論理が通用する瞬間があって,そのたびに人 類は論理の力を世界に敷衍し,光に照らされている場所を広げてきたのだろうと思う. そういう歴史がずっとあって,天気予報とかもできれば,未知のウイルスに対する防御 策といったものを人類は手に入れつつある.

その一方で,人間の感情が商品としてサービスの一般的な対象になってきている.する と,人類が求めているものは筋の通った論理的な機構ではなく,うまく感情を制御する 技術,勝ち誇った気持ちになりたい,感動したい,という概念になってくる.そうなる と,すくなくとも一般消費者の間では,あまり論理の出番はなさそうだなーと思う.一 般消費者が論理の力を使ってみずから賢く考えることが利益に繋がっていた時代が終わっ た,ということもできる.

自分がどうするか,という話をすると,論理的な世の中であってほしいと思っているか ら,なるだけ論理的な概念が通用するような界隈にとじこもっていたほうが精神的には 良いと思う.でもその世界は打倒されてしまうかもしれない,という不安もうっすらあっ て,それが最近の不安感の正体なのかもしれない.まあ多分それは杞憂で,自分がそう いう荒事と近い界隈にいるだけ(政治とか,ミリタリーとか)だと思う.世の中の大半の 人は,話の通じる論理的な人だと思って暮らしていたほうがいいと思う.ぜんぜんこい つら話通じねえ,と考えながら暮らすと,お互いにそう感じながら暮らすことになって, どんどん敵対的になっていきそう.差別は良くないよね,というロジックは,たぶんこ こから生まれているのだろうな〜と思う.

孤独感

自分が感じる不安のうち,もう一つは孤独感で,このまま永遠に誰ともわかりあえない ままなのだろうか,みたいな不安に包まれて,溺れそうになってしまうことがある.だ いたいそういうときはTwitterをやったりして不安を誤魔化している.なぜそう感じる のかというと,前述の,世の中に対する不信感みたいなものがあると思う.他人の期待 値が低くて,なにかあったときに助けてくれないだろう,みたいな変な思い込みを持っ ていると思う.世の中を悪し様に捉えていて,無意識にそれを補強するような情報ばかり選択的 に摂取しているかもしれない.

SNSでは,こんな酷い人がいました,みたいなコンテンツがよく流れる けれど,ああいうのに慣れてしまうとどんどん世の中を信頼できなくなると思う.とは いえSNSは好きなので,難しい.自分はミリタリーが好きなのだけれど,この界隈の人 は政治的思想が強い人が多くて,ずっと10年前の政権交代の悪口を書いていたりして, だけどミリタリー知識は面白い,みたいな感じで,浮き沈みが激しい.こういうのって どうしたら良いのだろうか,と思う.政治と宗教の話はしないようにしましょう,とい う昔ながらの箴言は,こういう形でコンテンツを腐らせないための知恵だったのかな, と思う.

特に落ちはないけれど,他人を信じること,他人の幸せを祈ることが,一番大事なのか なと思う.他人を信じられるようになるインターネットを作りたい.

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