万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

俺みたいな文系素人が進化論を面白がるための約20冊

私はどこからどう見ても文系でサイエンス的な素養は全くなく、数学大嫌いな人間なんですが、進化論についての一般向けの本を読むのは大好きでして。
そんな私が面白がってきた本を並べてみたら、私みたいに面白がりたい人へのブックガイドにならないかな、なったらいいなぁ、などとしばらく前から考えてまして。忙しくてブログ書く時間がとれなかったんですが、時間がとれたのでやってみますね。

そもそもなんで進化論の本を好んで読むようになったのか振り返ってみると、ご多分にもれず、学生時代にグールドの「ワンダフルライフ」を読んだから、なんですねー。
奇妙奇天烈でかつ美しいバージェス動物群のイラストに彩られた本書。もうそのイラストの数々を眺めているだけでも楽しめるのですが、その生物たちについて語るグールドがこう、熱いわけです。修造みたく*1。
グールドが本書で展開する進化観というのが彼独特でして、曰く、カンブリア紀に突如として(現代からみると)奇妙奇天烈な生物たちの化石が多く出てくるようになるのは、この時期に生命が一気に多様化したからであり、その中には現在生き残っている生物とは類縁関係のない物が、そりゃあもうたくさん含まれている。いわばこの時期の世界は進化の壮大な「実験室」みたいなもので、現在生き残っている生物というのは、その中から幸運にも生き残ったものに過ぎないのだ、ってな感じでしょうか。今でも「生物の進化=生物の進歩(至、人類)」という素朴な進化観は根強い物だと思うのですが、そんな進化観に「いや、お前、運がよかったんだよ」とガツンと一発喰らわせた傑作です。読んだ当時はその面白さに足下がぐらつくような興奮を覚えたものです。


もっとも、グールドのバージェス動物群に対する見方自体は、その後の研究で旗色が悪くなっていたりいたします。

「カンブリア紀の怪物たち」は、実際にバージェス動物群の研究に携わった著者が、「いやいや、検証してみるとアノマロカリスもオパビニアも、今生き残っている動物と無縁ってわけでもないよ?」と反論した本です。このコンウェイ=モリス、進化論読み物の2大巨頭であるグールドとドーキンス、その両方と喧嘩しているという癖のある御仁。あとでもう一回でてきます。

カンブリア紀になって突如として多様な生物の化石が見つかるようになることを「カンブリア爆発」などと呼んだりするのですが、「眼の誕生」はカンブリア爆発の原因について大胆な「光スイッチ仮説」を提唱して話題になった本です。カギを握るのは「視覚」。
つまり、この時期になって、生物は初めて「視覚」を獲得したのではないか、ってな話なんですな。視覚をもった捕食者は、うまい具合に他の動物を食べちゃう。で、食われる側もたまったもんじゃないってんで、防御用の甲羅的なものを発達させたものが生き残ったりして。甲羅みたいな硬い部分は化石も残りやすくなる。つまり、視覚という要素が生物の生き方を大きく変え、その結果、化石が残りやすくなるような外骨格や甲羅なんかが進化することを促したんではないか。その結果として、多くの化石が出てくるようになったのではないか、という説です。


カンブリア爆発についてはきっちり反論がなされているとは言っても、グールドの進化観自体が否定された、というわけではありません。「進化=進歩。んでその頂点として人類に至る」という素朴な生命観を真っ向否定し、進化における偶然の要素を重視する進化観は今でも影響力を失っていません。むしろ、読み物としては、今となっては旗色が悪い「ワンダフルライフ」よりも、「ダーウィン以来」から始まるエッセイ集をお勧めしたいところです。

エッセイの傾向といたしまして、初期は生物や進化における変わったトピックスを取り上げることも多いんですが、連載が進むにつれて歴史的視点・科学史的視点が多くなっていきます。過去に唱えられ、現在では否定されているこの学説は、当時の進化観ではどのような意味を持つのか(あのダヴィンチも俎上にあがります。また、ラマルクは実はダーウィニストだったんじゃねえかってな大胆な話まででてきますよ)、進化についてのみならず、「進化論の歴史」も話題になるのですね。かと思うと野球やチョコレートバーが主役を張る回もあったりしまして、ユーモアと知性と教養が縦横無尽。無人島に持っていくならこれかマスターキートン*2です。


進化における「偶然」の要素を重要視するのはグールドだけではありません。

日本が誇る大物、木村資生の「生物進化を考える」は、新書でコンパクトにまとまっていますが、古生物学ベースになりがちな進化論についての本の中では、遺伝学にベースを置いた入門書として実に貴重だと思います。筆者が唱え、今では(若干修正されつつも)広く受け入れられている「分子進化の中立説」を手早く知るためにも絶好の本です。これぞクラシック。
本書では、ある突然変異が(それが個体の生存に対してプラスに働くものであれマイナスに働くものであれ)その地域に暮らす集団に定着するには「運」の要素が大きいことが鮮やかに示されます。
また、なんつーか、大御所なもんだから、海外の大物に対して結構バッサリ切ったりしてましてね。それがなんとも痛快で面白かったりするのですよ。グールドの断続平衡進化*3なんて、『それよりも四〇年も前に提唱されたライトの平衡推移理論とくらべて、さほど新しいものがない』(60ページ)とか、もうバッサリですよ(笑)。

もうひとつ、少しずれますが「大絶滅」と言う本もオススメします。

「大絶滅」と言うタイトルでいくつも本がでてたりしまして少しややこしいんですが、この本は史上最大の絶滅であるペルム紀末の絶滅について、その原因を探ろう、という本であります。絶滅と言えば恐竜が絶滅した時のそれが有名ですが、ペルム紀末の絶滅といったらそれが可愛く見えるといいますか。人によっては「むしろ生き残った生物がいるというのが不思議に思える規模」の絶滅だったそうでございまして。
様々な仮説が検討されるのですが、共通するのは「……え? これ、何が原因だとしても生物には手のうちようがなくね?」といった感覚でございまして。
進化を直接扱った本ではありませんが、大量絶滅が過去複数回起こっていることを考え合わせますと、生命の存続と言うのが偶然の要素に左右されるかをわかりやすく示した本だと思います。

更にずれますが、偶然の要素としての気候変動を扱った本として「古代文明と気候大変動」もオススメです。

「銃、病原菌、鉄」と同程度にはもてはやされていい本だと思うんだけどなー。

さて、グール
ドと並ぶ大スターが「利己的な遺伝子」で有名なドーキンスでございますな。

私も最初は勘違いしていたんですが、ドーキンスはいわば「利己的な遺伝子」というキャッチコピーを考案し、考えを広めるのに大きく貢献した人物でして、この理論は彼がオリジナル、というわけではありません*4
何かとショッキングなイメージでとらえられた「利己的な遺伝子」ですが、実際に読んでみるとショッキングな話はほとんどありません(逆に、いたって真っ当な話にも攻撃性を持たせることができてしまう切れ味の鋭さがドーキンスの魅力でしょうか)。要は、「自分自身の生き残りに不利に働くような利他的行動がどうして進化してきたのか、『遺伝子の生き残り』という観点から見るとうまく説明できるよ」という本なんです。

ドーキンスは元々動物行動学が専門の御仁。対してグールドは古生物学が専門。この二人、論争が多いことでも有名でした。
ただ傍から見ているとこの論争、素人目ながらどうにもちぐはぐでして。例えばですが片や「自然淘汰の力は遺伝子に対して働くから遺伝子が大事なんだ」と言えば、片や「いや、自然淘汰は個体を通して働くのだから個体が大事なんだ」と言う、といった具合で。「自然淘汰は個体を通して遺伝子に対して働く」*5というのに「大事」という言葉を入れちゃったことで喧嘩になってると言いますか。

さて、閑話休題。ドーキンスの読み物としては「盲目の時計職人」も有名ですが、一番お勧めしたいのは「祖先の物語」です。

生命の歴史を、人類からその系統樹を一番最初の生命まで遡っていく形で記述していこうという野心的な本なんですが、系統樹を遡っていくにつれて語られていくトピック群が面白いです。例えば人とチンパンジーが共通の祖先から分かれたのは約700万年前だそうですが、その分岐が繋がる個所に差し掛かるとチンパンジーと人間に共通するような進化についてのエピソードが語られ、もっと遡って人間御一行と魚類が合流するところでは魚類と人間についてのエピソードが、人間御一行様と植物が合流するところではまた植物のエピソードが……ってな具合です。


ただ、面白いのですが少々イレギュラーな感はあります。生命の歴史を扱った本で面白かったのは、なんといってもリチャード・サウスウッド*6「生命進化の物語」ですね。

もう、この手の一般向けの本では決定版と言っていいと思います。同じ趣向の本では過去にリチャード・フォーティの「生命40億年全史」なんかも読んだことありまして、こちらもその時代にどんな生物が生きていたのかをスケッチ的に描写した楽しい本だったんですが、「生命進化の物語」は、その生物たちの相互作用的な繋がり、まさに生命の「歴史」のつながりを見事に記述した名著だと思います。例を挙げますと、ありがちな本だと恐竜については「鳥盤類と竜盤類に大きく分けることができて、腰骨の付き方が違ってる」でおしまいなんですが、本書ではそこからさらに進んで「鳥盤類の恐竜は多くが2足歩行の草食恐竜だった。草食だから消化のために長い腸が必要になるよね*7。だから、鳥盤類の、前方に飛び出した恥骨と言うのは下から長い腸を支えるのにとても都合がよかったんだ。反対に、竜盤類の2足歩行の恐竜は全て肉食恐竜だから腸も比較的短くて済んだ。だから恥骨が下から腸を支えなくても差し支えなかったんだよ」というところまで説明してくれるわけです。いや、本当に素晴らしい。


逆に生命の歴史の一部分にスポットライトを当てた本として、「生命 最初の30億年」とかはいかがでしょうか。

30億年というととんでもなく長い時間。先に触れたフォーティの本の名前も「生命40億年全史」つまり、30億年引くとあと10億年しか残っていないわけなんですが、じゃあ30億年で生命の歴史をほとんどカバーしちゃってるんじゃね? ってな疑問も湧きそうなもんですよね。うーん、まあ、カバーしてるっちゃあカバーしてるんですけれども。問題は、30億年かかってようやく前述したカンブリア爆発にたどり着くってことなんですよ。
まだ脊椎動物すら出てきていない。30億年かかってようやくそこにたどり着いたっていうのが、生命の歴史、なんであります。
そんな、生命の歴史のほとんどを占めるのに軽視されがちな「カンブリア紀前夜」を扱った、落ち穂拾い的な貴重な1冊です。


初期の生命と言うと「生命はどのようにして、どこで生まれたのか」って話が必ず出てきまして、そんなときに必ず話題になるのが極限環境で生きる生物です。昔の地球は今とは全然違ったのだ、ってな具合で。
進化についての本ではありませんが、そういった意味でオススメしたいのが「深海生物学への招待」と「地中生命の脅威」、さらに「アリの背中に乗った甲虫を探して」です。

「深海生物学への招待」は、深海の熱水噴出孔という隔絶的な環境で暮らす豊かな生物たちを活写したやたら面白い1冊。

「地中生命の驚異」といっても、ミミズとかモグラとかだけじゃなくてですね。岩石の中にだって、実は生物はいるんです。

そして、私たちが想像する以上に生物は広がっているのだということを、それを追い求める科学者たち*8を追う形で見事に描いて見せたのが「アリの背中に乗った甲虫を探して」です。
かのリンネは地球上全ての生物を分類することを目指しました。ところがレーウェンフックがお手製の顕微鏡をのぞいてみると、そこにはわんさか微生物が生きていました。熱帯の昆虫研究者テリー・アーウィンは「熱帯雨林に生息する節足動物」の種数を約3000万種(!)と推定しました。ダン・ジャンセンは一度挫折しましたが、地球上のすべての種を発見するというプロジェクトを諦めていません。それどころか、今まで生物がいると思っていなかった深海の熱水噴出孔は、はたまた海底を500メートル掘り進んだ岩石の中は、調べてみると生物で溢れていました。さらにさらに、リン・マーギュリスがかねてから主張していたように、私たちの細胞の中のミトコンドリアは、かつては独立した生物でした。また、カール・ウーズが辛抱強く細菌を調べてみたら、それは今まで知られていた最近とは全く異なるカテゴリの生物「古細菌」でした(つまりこの世には「真核生物」「真正細菌」「古細菌」という3種類の生物がいるということで、ウーズは生物のドメインをいきなりひとつ増やしてしまったというわけですよ! ウーズは「地中生命の驚異」にもヒーローとして登場します)。かくも生物は、私たちの想像を超えて広がっているってなわけです。


さて、ドーキンスに戻りまして、ドーキンスの本で一番最近に翻訳されたものは「進化の存在証明」という本なんですが、進化の証拠というのならもっとお勧めの本があります。

この「人体 失敗の進化史」は、人間の体がいかにヘンテコな作りになっているかを解剖学者が愚痴って見せているかのような楽しい本です。人間の体は、どうも隅々までエレガントとは言い難い、と。腰痛は起きやすいし、他の動物に比べて圧倒的に難産だし、神経は最短経路通らないで無駄にぐるりと大回りしているし。いったいなんなんだよ、これ。いや、それはね、人類の体ってのも、その祖先の体のつくりをこれこれこんな風に使いまわして作られているからなんですよ……というのが、解剖学者の視点から語られていきます。
同じテーマを、古生物学の視点から語ったのが「ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト」です。

著者は通称「腕立て伏せの出来る魚」、鰭から四肢への間をつなぐミッシングリンクの例として有名になった鰭に関節を持つ魚であるティクターリクを発見した人物です。
そんな筆者が本書で語るのは、人類と魚類の秘められた繋がり、です*9。魚の鰭から、ティクターリクのような関節を持った肉厚の鰭、そして人間の腕にまで至る旅路を、古生物学、解剖学、時には進化発生生物学まで動員して追求する、実に贅沢な本です。


進化発生生物学、通称「エボデボ」。これ、進化関連の本で登場することも多いのですが、一般向けの本で面白かったのが何と言っても「シマウマの縞、蝶の模様」ですね。

あなたが遺伝子に対して抱くイメージとはどういったものでしょうか? かつて私が抱いていたイメージは「生命の設計書」。設計書に基づいて生物の体が作られていく、どちらかというと静的なイメージでした。
その静的なイメージを見事にぶち壊してくれたのが本書、であります。
比喩的な表現でありますが、遺伝子自身も汗水たらして働いて、生物の体を形作っているんです。そんな遺伝子の奮闘ぶりを実に面白く読ませてくれます。
また、それは「進化」が実際に起こったことだということのこれ以上ないくらい良質の証拠でもあります。ショウジョウバエも、蝶も、シマウマも、人間も、そしてその他多くの生物も、みんな実に似通ったそっくりの遺伝子ツールを持っているのに、その活用の仕方がちょっと違うだけで、実にさまざまな形態の生物が生み出される。いいかえると、人間が進化の歴史で使いまわしているのは骨や内臓器官だけではありません。遺伝子も盛大に使いまわしているのです。


さて、日本では欧米ほど騒がれることは少ないですが、進化論は宗教と仲が悪い、ということになっています。
正確には、信心深い人の中の一部と、と言うべきでしょう。
進化などは実際にはなかった出来事で神が生物を作ったのだという説を「創造説」、また、進化の上で神の介入を必須・または前提とするような理論のことを「インテリジェントデザイン論(ID理論)」と呼んだりします。グールドとドーキンスの諸作にも度々、主に攻撃の対象として登場してきますですな。
そんなグールドとドーキンスが宗教をテーマにした本を挙げますと、この2冊。

ドーキンスの「神は妄想である」と

グールドの「神と科学は共存できるか?」です。


この2冊については以前にもエントリを立てたことがあるので、深く立ち入ることはいたしませんが(そのエントリはこちら)、ドーキンス自身が「神は妄想である」の中でけちょんけちょんに批判していたグールドの立場に、その後上梓した「進化の存在証明」の中で接近していることは指摘しておきたいです。引用しましょう。

どうか考えてください、主教。どうか用心してください、教区牧師。あなたがたは、ダイナマイトで遊んでいるのであり、手ぐすね引いて待ちかまえている――予防しないかぎりほとんどかならず事が起きるとさえ言うことができるかもしれない――誤解をもてあそんでいるのです。公衆の前で話すときには、賛成なら賛成、反対なら反対とはっきりさせるように、より大きな注意を払うべきではないでしょうか。非難を受ける身になりたくなければ、自ら労を惜しまず、すでにして流布している誤解に反論を加え、科学および理科教師に積極的に熱い支援を与えるべきではないでしょうか?*10

あのドーキンスも丸くなったもんだなあ、と、思わず目頭を押さえたりもするわけですが。
さて、皆様お待ちかね。あとでもう一回登場すると予告していました問題児、サイモン・コンウェイ=モリス、満を持しての再登場です。

この著書「進化の運命」でコンウェイ=モリスは何をしたかったか?
グールドもドーキンスも無神論者です。しかし、コンウェイ=モリスはキリスト教を信仰しています。
だから、コンウェイ=モリスはグールドとドーキンスに喧嘩を売ることにしました。もちろん、彼は優秀な古生物学者ですから、科学の許す範囲内で。いやむしろ、科学を総動員して。
彼はまず生命が如何に自然に発生しづらいかを、これでもかと述べ始めます。宇宙には生命の発生に適した星がたくさんある? 本当か? 実際にはこんな研究もあるぞ? 百歩譲って生命の発生に適した星があったとして、生命はそんなに簡単に湧いて出てくるのか? 生命の発生についての研究はこんなにも困難に直面しているぞ? それでも長い時間をかければいうけれど、本当か? そんなに時間的余裕があるのか? こんな研究もあるぞ?……といった具合。
そして、生命が誕生した後にたどった道筋については、これでもかと収斂進化の事例を述べ立てます(時には「ちょっと強引じゃない?」「お前、収斂って言いたいだけちゃうんか」と突っ込みを入れたくなるほどです)。鳥の翼、コウモリの翼なんてのはもちろんのこと、ヒトの視覚処理と他の生物の視覚処理、しいてはイルカやコウモリの聴覚処理*11、しまいにはホシバナモグラの触覚処理の類似性、ヒトの社会性と他の哺乳動物の社会性、はたまた社会性昆虫の暮らしなどからこれでもかこれでもかと共通点を述べ立てます。そしてグールドが否定した「進化の方向性」という概念を、進化には(それが使い回しの歴史であるがゆえに)実は強力な制約があるのではないか、という形で復活させようと試みるのです。
そしてこの決め台詞ですよ。引用します。

そのどれ一つをとっても、神の存在を前提としていないし、まして証明もしていないが、すべては符合している。それもやはり「盲目の時計職人」による無意味な活動だと考える人もいるだろうが、その黒いメガネをはずして欲しいと思う人もいることだろう。どちらを選ぶかは、もちろん、あなた次第だ。

グールド、ドーキンス、コンウェイ=モリス、どれか一つの立場に賛成したり、どれかを批判したりということはここではしません。ただ一つ考えたいのは、科学者が発言するその背景、です。
前述したように、コンウェイ=モリスはキリスト教徒です。彼のこの進化観にキリスト教の存在が大きく影響を与えているのは言うまでもありません。
しかし、科学がその手の思想的影響から独立すべきだというのは理想としては正しいのかもしれませんが、現実的ではありません。というか、影響を完全に排除できるわけがありません。心理学なめんな。
大事なのは、著者のそういった思想的背景を持含めて理解しようという意識かと思います。科学だから正しい、というのは思考停止に他なりません。もちろん、科学は誤りを速やかに正せるような仕組みを備えてきているわけですけれど、それでも全面的に信頼したり、逆に全面的に否定したりするような種類のものではないんですよ、多分。きっと、もっとダイナミックな人間の営みなんです。
例えばグールドには「人間の測りまちがい」という著作があります(以前絶賛したことがありますので、よろしければこちらのエントリもどうぞ)。彼はここで、IQテストの誤用――ここは「悪用」と言ってしまいましょうか――に代表される、単純な知能観による差別的な政策を批判していますが、忘れてはいけないのはグールドの立場です。彼はユダヤ系移民の息子であり、また、サヴァン症候群の子どもを持つ親であります。IQテストは移民選抜に問題のある形で利用されましたし、優生学華やかなりし世では彼の息子に居場所はないでしょう。つまり、グールドは彼の過去と未来に対する敵に徹底的な攻撃を加えたのです。彼の信じた武器、科学を使って。
ある理論についてはその理論の正否だけではなく、個人的信条やその当時の社会における考え方なども含めた形で評価すべきだというのが、科学史にも造詣が深いグールドが繰り返しエッセイ集で表明していた主張ですが、その主張はグールド本人にもあてはめる必要がある、というわけです。当然の話ではありますが。
そして、進化論の大元締め、ダーウィンその人も例外ではないかもしれません。

この「ダーウィンが信じた道」はダーウィンの伝記なんですが、ダーウィンの理論の背景には「奴隷制度反対」という政治的立場・個人的な信条があったのではないかと言う観点からダーウィン像を再構築してみよう、という趣きの本です。
進化論関係の本など読んでいますと、やはりどうしてもダーウィンがすっごいもてはやされている文章に複数回遭遇するんですが、そんなダーウィンはこの上ない賢明な人物ではあっても、決して「聖人」ではなかったというわけです。

さて、長々と書いてきましたが、まだまだ面白そうな本はたくさん残っています。結構未読のまま残っている本って多いんですよ。ダーウィンの伝記って前述「ダーウィンが信じた道」くらいしか読んでいないし、大御所たちが実際に書いた本って案外手つかずのまま残してしまっているし(例えばリン・マーギュリスの「共生生命体の30億年」が、本棚からプレッシャーをかけてきています。くじけそうです。)、進化心理学関係の本はこれから読んでいきたい分野ですし。
これから先も、一生かけて楽しんでいきたいジャンルですね。

*1:松岡修造氏

*2:サバイバルの教官的な意味で

*3:大雑把に言うと、大きな進化と言うのは日々着々と進むんじゃなくて、短期間でザザザっと進んで、その後は長い安定した期間があるもんなんだよ、という説

*4:ハミルトンの「包括適応度」という概念をわかりやすく一般に広めた本が「利己的な遺伝子」という本だ、という認識でおります、はい。

*5:これも不正確な表現かとは思いますが、あくまで一側面だと思って、まあ、勘弁してください

*6:なんとドーキンスの職場での上司だった御仁であります

*7:素晴らしいことに、草食動物が長い腸を必要とする理由、というのも先立つ章で触れられています。

*8:ナノバクテリアまで押さえてますよ、この筆者

*9:もっとも、実際には魚類の出現以前から存在していた生物たちもたくさん登場します

*10:「進化の存在証明」54ページ

*11:イルカやコウモリは反響音を使って物体の位置を特定します。ソナーですな