「肯わぬ者からの手紙」第67信(『週刊金曜日』2024年11月22号)[全文]
2024年 12月 04日
『肯わぬ者からの手紙』第67信
米国統治下の民を分かつ
贋物の嘆息と苦悩の忍耐
(『週刊金曜日』2024年11月22日号)[全文]
まず——。
昨夜来の韓国の、相当程度に根底的な――かつ、深い感銘と満腔の敬意とを覚える事態については、当初の予定を急遽、変更し、今月12月20日発売の『週刊金曜日』掲載予定の『肯わぬ者からの手紙』第68信で取り上げるべく、現在、テキストを作成中です。
それに先立って、とりあえず——。
以下、『肯わぬ者からの手紙』第67信《米国統治かの民を分かつ/贋物の嘆息と苦悩の忍耐》(『週刊金曜日』2024年11月22日号掲載)全文を公開します。
今般の米大統領選と日本国の衆議院選挙から首班指名についてはさまざまに思うところがありますが、第一に暗然とするのが、前者をめぐる日本の〝自認リベラル〟マスコミ・タレント、似而非(えせ)知識人らの、米民主党政権に対する批判精神の根本的欠如でしょう。
小文中に言及したバーニー・サンダースの認識程度は、最低限、前提とされるべきものと、私は考えるのですが。
案の定……というより、最悪の予測をもさらにさらに上回って——残りの任期でゼレンスキー大統領を利用し、世界を破壊できる限りし尽くそうとでもいうかのようなバイデン政権の妄執と、それに肩入れする英国等の常軌を逸した挙動が加速しています。
――これについて、もともとは、今月の『肯わぬ者からの手紙』第68信を充(あ)てる予定でしたが、他日を期します。
今回の第67信・冒頭に引いた上野英信「私の原爆症」の述懐は、この引用部分のあと、以前にも『肯わぬ者からの手紙』第34信《とめどなく悪を許し続け/痛み想像し得ぬ魂の衰弱》(『週刊金曜日』2022年2月25日号掲載)で引いた《「三たび許すまじ原爆を」という歌があるが》《私はいまなお一度目を許すことができないのである》へと続きます。
どちらの部分も重要であり、私はこのエッセイ「私の原爆症」を、上野自身のみならず、現在の私が構想する〝現代日本文学史〟の最高の水準を形成する作品群の一つと考えています。
上野英信氏とは、かつて一度だけ、ほんの短い時間、私は正面から対座していたことがありました。私が二十代の半ばから三十代の前半まで、請われて「顧問」を務めていた出版社の応接スペースでのことです。
にもかかわらず私は、それ以前むろんその肖像写真にも接していたはずなのに、どうしてか、それが上野氏とはまったく気づかず――ただ、眼前の温和な表情をたたえた人物に不思議な好感を覚え、対座しているあいだ何を話すでもなく、ただ、にこにこしていただけという失態ぶりでした。
すると上野氏──と、あとで人から聞かされた人物──の方も、やはり黙ってにこにこと私を見返しておられ、結局、その何十分間かはそれで終わってしまったのです。まったく一言のやりとりもないまま、最初で最後の対面が終わったという事実に、私自身、振り返って自分の迂闊さをあきれ果てています。
しかし、おそらくこの珍妙な対面の前後の時期のことだったはずですが、ほかならぬその上野英信氏が、何篇かの掌篇小説を含む私の最初のエッセイ集(ただし小説も含む)『星屑のオペラ』(1985年/径書房刊)を激賞されていると、出版社の主宰者であり同書の担当者でもあったベテラン編集者が、久びさに会った私の顔を見るなり昂奮した口ぶりで話し、「×××××をさえ褒めたことのなかった上野英信が、あなたを——」と、やはりもともと上野氏と浅からぬ縁があり、同時におそらく戦後日本最高の作家の一人と目される人物の名を挙げ、言ってくれているときも――私はそれかどれほど重大なことなのか分からず、まさしく〝狐に摘まれたように〟きょとんとしているだけだったのでした。
初対面の迂闊さ以上に、二十代終わりの私の鬱陶しい客気は、上野英信に褒められる、ということの意味や重さをおそらく完全には理解しえていなかったのでしょう。恥ずかしいことです。
後に、英信氏の伴侶だった上野晴子さんからいただいた水茎の跡も麗しい御手紙(いまも大切に保管しています)に、同様の英信氏の評価の言葉が綴られていたのをはじめ、思い返すとあまりにももったいなかったその「一期一会」の不思議に清すがしい記憶とともに、英信氏の言葉は、その後の自分自身にとっての得難い励ましの一つとなりました。
『星屑のオペラ』(1985年/径書房刊)
カバー・帯
この本については『朝日新聞』1985年4月1日付「読書」欄に著者インタヴューが出ているのですが、こうしたものの管理が苦手の極みの私は、度重なる引っ越しで掲載紙がどこかにまぎれてしまい、出てきません。
もし「縮刷版」等に触れる機会のある方がおられれば、御覧いただきたいと存じます。
カット写真と併せ、後段で言及した、大分県・日出生台(ひじゅうだい)での自衛隊・米海兵隊の実弾砲撃演習に抵抗してきた酪農家・衞藤洋次(えとうようじ)さんは、1999年、オーロラ自由アトリエの季刊『批判精神』第2号に御寄稿いただき、その後、オーロラ自由アトリエ代表の遠藤京子さんと、現地をお訪ねしてお会いした方です。
もともと日本には「綜合雑誌」なる概念があり、ウィキペディアによれば、それはそれは《政治、経済、社会、文化全般についての評論などを掲載する雑誌。いわゆる「論壇」を構成する雑誌として扱われてきた事情もあり、オピニオン誌も含めてこの範囲に入れることが多い》(ウィキペディア「総合雑誌」)との説明なのですが、この衞藤洋次さんの御寄稿だけでなく、毎号の特集をはじめ、1999年春に創刊され2001年春まで、多大な困難のなか7冊が発行した季刊『批判精神』は、当時も——そして今はいっそう、その先見性とその全ページにわたる妥協なき徹底性(ここが重要)において、あの時代の日本における稀有の「綜合雑誌」であったと、私は考えています。
今夏の訃報を受けた際にも書きましたが、このときの訪問の模様は、私が「全巻個人解説」を担当した『松下竜一 その仕事』全30巻(1998年~2002年/河出書房新社)の第15巻『砦に拠る』(2000年1月刊)の解説「『ほんとうの怒り』の美しさについて」全60枚にも詳述しています。
なお、先日、ブログにも記したとおり、この四半世紀前の総1800枚に及ぶ「全巻個人解説」30篇には、削減それ自体が研磨であるような作業のみを施し、総700頁ほどの「文藝批評」として、来年早早、1冊の書物の形が与えられるべく、現在、校正作業中です。
これについては、近日中に刊行の御案内を——。
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