本物の作り手になりたいなら、「なんかいいよね」を禁止しよう。
2007年 10月 09日
ブログの更新具合を見ていただいてもわかると思うけれど、
いまの僕には、自分のために自由に使える時間がほとんどない。
こういう状態がつづくのは肉体的にも辛いのだけれど、
何より、精神衛生上よくない。
自分には、もっとやるべきことがあるのではないか、
という気持ちがわくと同時に、そんなことすら考えているのが時間の無駄、
と目の前のなんやかんやを片付けている自分がいる。
思考停止。忙しいとは、まさに心を亡くすことなのだなぁと、へんに納得がいく。
そんなときに、この言葉に出会った。ガツンとやられた。
長いけれど引用する。
「必ずこうしなければいけない!」というルールではありませんが、もしあなたが、いいコピーを書きたい、すばらしいアイデアをつくりたいと心の底から思っているのなら、ひとつだけお願いしたいことがあります。忙しい忙しいと言いながらも、この数週間、本を読み、映画を見、展覧会にも足を延ばした。
明日から、あなたの毎日の生活のなかで、「なんかいいよね」という言葉を禁句にしてほしいのです。
あなたは、いい映画を見てドキドキしたり、いい音楽を聴いてホロッとしたり、いい小説を読んでジーンとしたりしたときに、しばしばこういう言葉を発してはいないでしょうか。
「なんかいいよね」「なんかステキだよね」「なんかカッコいいよね」と。
明日から、それをきっぱりとやめにしてほしいのです。そして、かわりにこう考えてみてください。
「なぜいいのか。これこれこうだからじゃないか」「なぜカッコいいのか。こういう工夫をしたからじゃないのか」と。
こういう思考を働かすことができなければ、あなたはけっして「モノのつくり手」になることはできません。
(『広告コピーってこう書くんだ!読本』16ページ)
自分にとって、最低限の「心の栄養」だけは切らさずにいたつもりだ。
けれど、僕はどんなに面白い本に出合い、すばらしい絵画を前にしても、
「なんかいいよね」ぐらいの感想で済ませてきた気がする。
その作品がなぜいいのかを掘り下げることはせず、ただ「いいもの」と触れ合った、
その事実だけで満足してしまっていたように思う。
もちろん、出合うもの、出合うもののよさ(あるいは悪さ)に対して、
「なぜ?」を発し続けるのは大変なことだろう。
「なんかいいよね」の一言で済ませられたら、これほど楽なことはない。
でも、何でもかんでも「なんかいいよね」としか言えない人間には、
「作り手の方程式」はわからない。
自分がモノを作るとき、偶然「なんかいい」状態を再現できたとしても、
そんな奇跡は何度も続かない。すなわち、プロの作り手になるのは難しい。
だから、「なんかいいよね」を禁止せよと、この本は言っているのだろう。
このブログを書くとき、僕はできるだけ手間をかけないようにしている。
ブログは僕の仕事ではないし、大事な趣味の一つではあるけれど、
なるべく時間をかけたくない(いや、かけられない)のが本音である。
それでも、ときおり、どうしても手間隙かけて伝えたいことが出てくる。
「なんかいい」とか「なんかやだ」で済ませられない思いがある。
ひときわ忙しいときの僕は、そういう思いを、我ながら鬱陶しくも感じるのだけど、
これからは少し心を入れ替えたい。
この本は「なんかいい」から、紹介しているのではない。
忙しさにかまけて、作り手としての大事な思いを忘れかけていた僕に渇を入れてくれた、
「とてもいい」本だから、誰に頼まれたわけでもなく、紹介している。
いま作り手である人にとっても、これから作り手を目指す人にとっても、
きっと必要な本である。
こんなふうに、「なぜいいか」を考える時間を、少しずつでいいから確保していきたい。