サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

「物語の不在」を満たす「誰かの大声」について考える

こんにちは。

 

 前回書いたブログについて続きを書いてみたく思います。

 

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 話の続きの前に振り返ってみると、今年は兵庫県知事選挙だけでなく東京都知事選、衆議院議員選挙、海外ではアメリカやその他の国々でも大統領選が幾つかあり、その結果に注目し続けていた人も少なからずいただろうな思われます。

 あくまで私見ですが、それら多くの選挙で勝利の鍵となったのは「候補者と支持者の声の大きさ」に見受けられました。政策実現よりも「現状で強く敵視してそれらを支える既得権益を倒す」ことを強く訴える主張とそれを増幅するかのような極めて暴力的な響き。それらが合わさった独特な声がSNSやテレビなどで溢れており、斎藤県知事も都知事選で2位の石丸候補も「自分は既得権益と戦い続けてきた!今後も戦い続ける!」という意味合いのことを訴えて多くの拍手喝采を浴びていました。ここで僕が注目したいのは「既得権益」という単語です。

 

 既得権益。Weblio辞書では「一定の地位や権力、法律などによって保証され、既に得られている利益や権利」と述べています。

 

www.weblio.jp

 

 この既得権益を「在日特権」(安田浩一さんの本を読めばそんなのないのはわかる)或いは「抵抗勢力」「移民」などに置き換え、声高な人が大声で「抵抗勢力打破」を叫び続けた結果、めちゃくちゃになったのがこの20年間における日本の言語空間だったように僕には思えます。80年代のバブル以降、経済大国という「物語」を失った後に日本社会そのものを抵抗勢力・敵とするオウム、日本の自虐歴史観を敵視して歴史修正を試みる勢力、自民党の仲間を「抵抗勢力」と叫ぶ小泉などが現れたほか、最近ではその既得権益の対象に女性を暴力や貧困などから救う法人やNHKなども加わり「社会の人間不信ここに極まれり」と思わざるをえません。

 

 ただ呆れてばかりもいられない。そういう陰謀論めいた話を本気で信じる「ガチ勢」は古今東西でそれなりにいたけど、それを大声で叫び続けると「それなりに信じる人も少なからずいる」というのが今回の県知事選などで明らかになった。しかも、それらの物語は従来の言論空間でなくSNS・動画など消費のみを目的とするサブカル的な空間の中で流通しているあたりに強く危なさを感じております。

 

 1980年代の日本=経済大国という大きな物語の崩壊後、それに代わる物語として「戦前の回帰」や日本人の「誇り」をくすぐるナショナリズムなどが台頭してはコケていきました。その中で「自分の社会が既存権益のせいでおかしくなっている」という物語はとても分かりやすくて自分の社会への責任を他人のせいにできるため心地いい。なにせそれを信じりゃこの国の現状に対する責任を負わずに生きていけるんですから。前回のブログで述べた「既得権益をさけぶ人たちの物語を信じさせたものは何か」を答えろというなら「この国のしょぼい現状に対して責任を負いたくない」という心の弱さではないだろうか?と僕は思います。

 

 

僕らが信じているのはメディアでもネットでもない

こんにちは。

 

今回のブログ記事は以下の続きについて

 

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 このブログで僕は都知事選において現職をセンスなく貶めるだけの動画拡散を目指す
とあるツイッターのアカウントの閉塞性、そしてそれは「政治に関心はあるが、支持政党を欲してはいない『大多数の無党派』」に対する訴求にはなっておらず、逆に候補者を毛嫌いさせるきっかけになっている可能性について書きました。

 実際そのアカウントにはその動画について苦言を呈するコメントも多かったものの、そういった声には何も語らず、少数の賞賛コメントには饒舌に返信しているのをみて「この人たちは、そもそも自分らの訴えが他人に届かないと諦めている」のだろう。そのため苦言に耳を貸さず内輪ウケに走り、狭い世界で「自分の孤独さ」から背を背けている。逆に言えばこういう人たちは応援する候補者を勝たせ、自分の理想を実現させる気概がない」と、その態度について批判しています。

 

 さて。今回はその続きを書こうかと思ったものの、数週間前の兵庫県知事選の結果や現在の選挙後のイザコザなどを見ていて頭がついていかず、少々呆けています。「選挙」という政治参加の場において「政党イデオロギー的なものに興味はないけど、政治には関心がある」「現在の日本の状況をよりよく変えてくれるならどこでもいい」と考える有権者に届きうる言葉とはなにか?を考えるつもりが「別に言葉などなくても候補者の売り方次第で選挙には勝てる」という身も蓋もない現実にただ唖然とさせられています。

 

www.jprime.jp

 

 本音を言うとこのPR会社の行った行為が公職選挙法違反云々…などの話は僕にとって案外どうでもいい。法律違反なら警察や検察が知事や会社、関係者らを今後取り調べるはずなので、ここで法律に無知な僕がどうのこうのいっても意味ありません。

 だけど。なんで兵庫の人たちは、この人物を選挙で当選させたのか?という疑問についてはどう考えても全然わかりません。

 

toyokeizai.net

 

toyokeizai.net

 

 リンク先の記事を鵜吞みにするわけではありませんが、この人物については神戸県庁職員へのパワハラ、パワハラを告発した職員への公益通報者保護法違反だとも思える行為や贈答品のおねだり、さらに今回の公職選挙法違反などの疑惑であふれております。更には「自分の当選については考えていない。別候補を応援するため出馬した」と理解に苦しむ主張を唱える奇妙な候補が絡んでいるにも関わらず、その異常さに何も語らない非常識さ。これだけの材料を揃えて考えたのが以下の結論。

「パワハラとか贈答品のおねだり、パワハラ告発の犯人捜しとかほんとにやっていたか分からないけど、こんだけの疑いや常識を持っていない輩に権力与えたらヤベーぞ!」

 

 僕の率直な兵庫県知事選の印象を言わせて貰えばだいたいこんな感じです。東京でも今回の兵庫県知事選の結果が驚きを持って報道されておりましたが、たぶんそれは僕と似た印象を持つ人が多かったからではないだろうか?この人物には県内で強力な「権力」を持つ「知事」という立場についての思慮や常識が足りていないことを察したからではないだろうか?そういうことを書いたら「TVで見ていただけの奴に何が分かる!」と怒鳴られそうだけど、それをいったら殆どの人がTVやネットの情報で印象を語ってるだけなんじゃないのか?とも思います。

 

 今回の兵庫県知事選で想像外の結果をもたらしたもの。それはネットの情報、TVなどの過剰なメディア露出、既存のメディアに対する不信、PR会社の広告、部外者候補の乱入等々…専門家は口々に特定するけど、おそらくその理由をひとつに絞ることはできません。今述べたものやそれ以外の要素が複雑に絡み、今回の結果になったのでしょう。

 ただひとついえるのはメディアでの反応などを見ていると選挙で勝たせた人たちより多くの人が今回の結果に驚いている=ヤベー人が知事になったと考えているということではないだろうかと僕は考えます。

 パワハラ傾向があり、他人の人権にも無関心っぽい人材が僕の職場で上司になったらイヤだし皆さんもそうでしょう?こんなの仕事ができる、できない以前の話だと思います。実際はどうなのかは別として、少なくても「パワハラやその他のトラブルに対する疑惑が多い人物は権力を持たせるべきでない!そんな人物が選挙のため街頭で独り立ちを行い、だんだんと人が集まっていく。そのうち以前の政策で感謝の手紙を受け取ったり握手を求められたり…さらに『知事が辞めさせられたのは既得権益の陰謀』みたいな根拠のない陰謀論みたいな主張も周囲に飛び、それを受けて『改革』を候補者が叫ぶ」…あまりにうさん臭い物語だな。という判断は日常を生きていれば誰でも身に着く常識でありさほどブレないと思っていました。

 だけどある一定の人にはその常識が通じなかった。そのことに驚くと同時に先述のPR会社とこの人物の選挙活動に違反の可能性があるという報道を受けこのできすぎな物語を信じていた人が疑問を抱き始めた心境を語るコメントを見て、「候補者の物語を信じさせたものは何だったのか?」を僕も考えています。改めてこの件についての考えをまとめて述べてみたく思いますが、本日この辺にて。

 

総選挙も近そうなので「ちょっとした夢」について呟いてみる

こんにちは。

 

 前回のブログで書いた記事の続きについて書こうと思っていたんだけども予定変更。ブログを書こうと思い、編集ページを開いたらはてなブログの今週のお題で「ちょっとした夢」というのがあったので、ウダウダな長文ではなく、シンプルに「夢」について
語ってみたいという想いがこみ上げてきました。

 

 与野党ともに選挙で新たなトップを決めた今、衆議院選挙もおそらく近いでしょう。
政権維持か、あるいは交代となるかはわかりませんが、今回こそ両党ともに正々堂々の議論で僕ら有権者に明確な争点を示したうえでの選挙を行ってもらいたい。現在の僕の「ちょっとした夢」です。政治的思想には反するものの、今までの言説などから総裁になった石破さんには節度ある誠実な対応を期待していたんだけど。

 

news.yahoo.co.jp

 

 まだ総理にもなってないのに「総選挙を行う!」発言。つくづく僕らを舐めてるよ。でもこれを言った後で石破さんが総理選出されなかったら、俺は笑うね。

 

 

今週のお題「ちょっとした夢」

蓮舫応援動画に見える「伝えることを諦めた言葉」について。

こんにちは。

 

 先日のブログの続きになります。

 

arrow1953.hatenablog.com

 

  前回のブログで僕は「無党派層というのは支持政党がない人、持てない人ではなくて支持政党そのものをいらないと考えている人たち。といっても無党派層は政治にまったく無関心ではなく、自らの生活に政治がつながりを持った時に行動を起こせる人たち」という考えを述べさせてもらいました。だからこそ候補者は現在・未来の政治が有権者の生活に直結するものだ!というビジョンをに見せなきゃ選挙で勝てるはずもありません。今回、たまたま職場の最寄り駅近くに蓮舫さんが来ており、演説を聞かせてもらったのですが今までの都政を全否定!ではなく「自分だったら現職よりもさらによりよい都政を行える」と訴えるもので僕の中では好感触でした。家路につく中で「現職の強さを考えると勝ち負けは分からないけど頑張って貰いたいな」と演説を思い返して素直に思えたのです。

 

 でも、数日後。蓮舫さんを応援するという「勝手連」みたいな人の呟きがツイッターで流れてきたのを目にしていたら、正直どうでもよくなりました。ここでは武士の情けで直接リンクを張りませんけど、現職を東京音頭の替え歌で貶す動画が出ており「若者による都政を変えようアクション!拡散希望」とあったけど、その閉塞性にウンザリさせらて「マジで投票を辞めよっかな?」とも思いました。

 同時にこの閉塞的な動画にデジャヴみたいなものを抱き、それは何だったのかを思いだすと、以前僕が多摩地域で発行するタウン新聞のライターだった頃に取材した「九条を守る会」の集会の光景に重なったのです。僕は原則的に「護憲派」であり、会の主張には同意しています。ただその集会で有識者が講演を行った後、会のメンバーが10分前後の演劇を披露したものの、その演劇がもう、ひどいひどい。憲法改正で日本も徴兵制になり、若い人が戦争へ…みたいな内容でそこはまぁそういう物語になるだろうね。とは思うけど演技や歌のヘタさ、テンポのひどさなど「演劇舐め腐ってんじゃねぇ!」と怒鳴りたくなるくらいです。それでも演じる人、見る人は全員マジメな表情。そんなマジメだけども酷い光景を見ながら「この人他ち本気で護憲派を増やす気はあるのか?」「それにしてはあまりに内向きだな」と、考え込んだのを覚えています。今回の蓮舫さん応援の動画と、九条の会の演劇。この両者の共通点はなんなのかを考えると、ある推測が見えてきます。それはとてもいいにくいけど、「両者は自分らの主張が大多数になることをどこかで諦めている」のではないか?そして自分たちは少数派のため孤立しがちであり、不安に抗うため自己満足な表現に走ってそれに集まる仲間を見て「自分は孤独ではない」と再確認をしたがっているだけにしか見えません。

 応援動画の呟きに対する反応を見るとその殆どが苦言でしたが、選挙に勝ちたいなら普通、その動画を削除します。苦言に溢れた動画を広めても候補者や支持者の評判が下がるだけですからね。だけどその動画の投稿者はそんな苦言にも意を介さず少数の「いいね!」にすがり続けていました。その振る舞いには選挙の候補者を当選させるという意思が感じられず、逆に候補者が落選しても自分たちのプライドを守る!という保身のみしか感じられません。以前から僕が批判する「社会性を持たないオタク」も主義主張は違えどそのメンタリティーは同類であり、今改めて考えると連中のその醜さに僕は苛立っていたのだと思います。この話、続きます!酔狂な人はお付き合い下さい。

 

 

都知事選からそもそも「無党派層」とは何かを改めて考えてみた

 こんにちは。

 

 選挙で今回も負けた!

 先月ブログを書こうと思ったら、僕の住む東京都ではちょうど「都知事選」。政治をろくに分かっていないくせに、なにか分かった風なことを語りたがる僕はわざと何も語らずに都知事選をただ眺めていました。もちろん選挙には行っていますよ。蓮舫さん、残念だったなぁ。と思うと同時に、僕の頭をよぎっていたのは今回の結果だけでなく、以前の選挙結果などを踏まえて「なぜ自分の応援する候補は選挙に勝てないのだろうか?」という率直な疑問でした。ちなみに、僕の政治的な立ち位置は数の暴力に任せた強引な国会運営が許せないのと護憲派であるため「反自民」。最近の裏金問題などで評判がた落ちな自民を相手に、東京以外の地方選などでは結構野党側の候補が選挙で勝っているのに、今回の都知事選では「自民色の強い現職都知事が再選。という結果になっております。自民党に対する反発が日本国内で強まりながらも「反自民」候補が選挙で勝てない。どうして?と考えている内に「無党派層」というものを僕は誤解していたのではないのか?という想いが湧いてきたので、その辺について書いてみたく思います。

 

「支持政党なんていらない」のが無党派層

 「無党派層」について考えてみる前に「無党派」「無党派層」といった単語がいつ頃から日本で目にする機会が増えたのか?ネットの大辞泉では今も昔も政治に関心のない層が一定数いた。としながらもその性質は90年代で大きく変貌。90年代以前を伝統的無党派層、90年代より後を「新無党派層」と分けてその違いを述べています。

 

伝統的無党派層
政治に対する情報や知識を持たず、選挙への関心も低い層

 

新無党派層
政治に対する情報や知識は豊富。だがその関心や期待に応えられる政治家や政党などを見つけられず、無力感と政治不信を深めている層

 

    そしてこの新無党派層増加の大きな問題はこれらの人々を置いてけぼりにした政党側にある。だが、この層のニーズに合致する政党や政治家が選挙で現れたらこの層は集まり選挙結果を大きく左右する。

 

※ざっくり説明をまとめてみたけど、詳しくは以下のリンクで

kotobank.jp

 

 TVや新聞などメディアの世論調査で「支持政党なし」という文言をよく目にしていたためか、僕は「支持政党がない、持てない人たち」を無党派層と思い込んでいたのですが、そうではなくてそもそも「支持政党なんていらない」という人が無党派層なのではないのでしょうか?

 「支持政党なんていらない」とはどういうことか。それはたぶん、政治に興味を持てないということではありません。メディアで無党派層などと呼ばれる人にも「この国をよりよくしたい」という希望は当然あります。その希望を実現させてくれるなら誰でもいい。よりよい国づくりという希望を見せてくれるなら候補者が別に自民でも、そうでなくてもどうでもいい」との想いが無党派層を投票所に向かわせたのだと僕は思っています。支持政党に縛られていないからこそ自民に反感を抱いていた無党派の多くはその希望を蓮舫さんではなく、石丸さんに見て「現職が勝つのはイヤだけど、別に野党の推薦する候補が勝たなくてもいい」と、票を投じた結果が今回石丸>蓮舫だったのでしょう。普通に考えれば野党の組織票という後ろ盾がある蓮舫さんを選ぶ方が現職に勝つ可能性が高い。だけど多くの人はそれを選ばなかった。その件は別の機会にあらためて考えてみたく思います。

 

 無党派層が選挙のカギを握っている。だからこそ野党やその支持者らはなんとかして無党派層に働きかけることで野党の支持を伸ばしたい!と考えます。僕も「立憲や共産の支持者が増えれば、どんな選挙でも与党に勝てる」と思い込んでいた。でもそれは勘違いでした。

 無党派層は別に支持政党を持ちたいと思っているわけではないためどれだけ訴えてもたぶん政党の支持者にはなってくれません。僕は先ほど「反自民」と述べたけど、ほとんどの人は「裏金問題」には怒っていても自民のやり方や以前の政策などについてさほど怒りも憤りも持っていない。だからこそその場その場で応援できそうな人を見つけて票を投じる。ツイッターで「今回の都知事選で蓮舫が石丸に負けたのは政策云々でなく単に蓮舫よりも石丸推しが多かったということ」という呟きをたまたま見たけど「言いえて妙」です。

 なんとなく「自民推し」な人がこの国の長期政権を支え、自民政治に愛想を尽かした人が「野党推し」に鞍替え。その後「野党推し」に飽きた人たちがまたなんとなくの自民推しになって元どおり。そんな環境が長年続いている中で、僕たちが声高に「反自民!」などと叫んでも、どれだけ響くのだろうか?と、僕は最近疑問です。

 

この話、続きます。できたらお付き合い下さい。

 

昨年3/30のブログについて語ることからやり直そう

 こんにちは。久々のブログ更新でございます。皆様、お変わりございませんか?

今年になってからまともにブログを書いておらず、どうにもやる気がわいてこない。本音を言わせてもらうと、昨年3/30に書いたこのブログ記事以降「どうでもいいや!」といった想いが強くありブログから意図的に距離を置きました。

 

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 内容的にはフェミニズムやトランス問題、政党の議員・党員排除などについての声がツイッターなどのネット上で暴れまわっているのを見ていてウンザリした僕は「議論を積み上げず、相手を殴るだけのケンカだったらよそでやりな。周囲には単なる迷惑だ」と愚痴みたいなことを呟きました。

 

 そりゃ意見が合わなけりゃ議論すべき相手に罵詈雑言をぶつけたり、全否定したくもなったりするでしょうよ。でもtwitterみたいな話題の専門性が薄く、大勢の人が利用する場では利用にそれなりの公共性が求められると思います。そういうことをいうと「関係ない人はだまってろ!」みたいな反応がくるかもしれないけど、twitterという公共性の高い空間を利用する僕にもそれらに「うるさい!」と文句をいう権利はある。大勢の人たちが行き交う通りで喧嘩や怒鳴り合いを目にしたら両者の正当性を問う前に、まずは争いを止めたり「うるさいな!喧嘩だったら他所でやれ」と文句をいったりするでしょう?互いが互いの正しさを唱えるのはいい。だけどその唱えている言葉はどんなものか?その言葉を唱えている場所はどんなところか?もう少しその辺を考慮いただきたいと思う。

フェミニズムも離党騒ぎもトランスも周囲を見て、他人のことを考えろ - サブカル 語る。

 

    その当事者と思しき人から「どっちもどっち論はやめろ」だの「お前の言い分は論をすり替える単なるポジショントーク」だのとなんだのまぁ大変な話になり、気分も相当滅入っていました。ツイッターを見る限りは現在、それらを巡って声高に対立相手を殴る言説は以前に比べて減った印象だけど、一般的な常識から見たら過激な言葉を使って悦に入り、内輪ウケで気分よさそうにしている反面、周囲ドン引き。みたいな人たちは
います。世界にはマイノリティーとマジョリティーで様々な人権・権利を巡る対立があり、その中で不利な環境にいる人が現状打破のため本気なのだというのは僕にだって理解できます。ただ、その不利な環境をどうやって変えていくのか?といったら地道な交渉・議論の積み上げしかありえない。相手を言葉で叩きのめしてみたところで何も変わらない。逆にそこで過激な言葉の殴り合いを公衆の面前で披露し合ったらその対立そのものを人々は敬遠したり関心を持ってくれそうな人を敵に回したりするでしょう。

 
 民主主義というのは単なる多数決合戦ではなく「多数」をベースにしながら少数の声をおろそかにせず、双方の妥協点を探っていく手続きであると僕は思っているので、周囲を敵に回したってなんもメリットもありません。自分たちの権利を守る議論を優位に進めたいならできるだけ賛同者・味方を増やすのが何よりも得策。そこで大切なのが丁寧で誠実な「正論」なのではないか?と思うのです。あらためて昨年3/30のブログを読むと、周囲の迷惑を考えずに相手を殴るだけの乱暴な言葉への怒りが強く出ており、僕もまた、ある意味では乱暴な言葉で誰かを殴っていたんだな。主張ではあったけど誠実な「正論」とはあまりよべるものでなかったな。と思わされた。一年を経た反省をここに記して、本日はこの辺で。

 

なにげない職場での雑談で思わぬ力をもらったことについて

こんにちは。

 

 新年のあいさつもせず、ダラダラした毎日を過ごしておりました。ダラダラって
いうのも多少誇張した表現ですが正直いってあんまり愉快でもない、鬱屈した日々に
この数ヶ月置かれていた。っていうのは事実です。

 何があったかというと、ずばりパワハラ。昨年に勤めている職場で部門の移動があり
そこでありえないほどの理不尽な罵詈雑言、誹謗などを受けたことで頭が少々狂った。
すぐにその職場も手を打ってくれて部門移動は取り消しになったものの、今でも脳裏に
金切声で叫ばれ続けた光景が浮かび滅入ったりする日もあります。

 

 職場もなるべく心身に負荷をかけないような業務に従事するために、比較的少人数で穏やかな人の多い部門に暫定で配属させてくれるなど配慮をしてくれたものの、やはり
僕自身、毎日挫折感に苛まれておりました。そんなある日。一緒に業務に携わっている先輩職員が「毎日いっしょに業務に携わる人のことをまったく知らないのもどうかと思うので…」ということになり、業務の手を止めて些細な雑談。その中で趣味の話題になり「以前演劇に関わって脚本などを書いたけどもお蔵入りになった」ということに触れたら声のトーンが一変。なんでもその人も空想で物語を考えることはあるけれど、それを形にできる技術を持っていない。そんな技術がある人が羨ましい!とやたらそのお蔵入りになった脚本に興味を持ってくれて、どんな物語なのかと詳細を聞いてきてくれたのです。

 物語は12/24のクリスマス・イブで24歳のフリーターが主人公。そのフリーターがイブの深夜のコンビニで業務を行っていた時、年末の派遣切りにあって無職になった中年がコンビニ強盗にやってきたことから始まる群像劇。店内にはお互いの好意を知りながらも恋人同士になりきれない大学生二人の男女に、イブ当日に交際相手の二股発覚でフラれた女性店員。その数人がそれぞれ抱える苦悩・孤独をすり合わせていく悲喜劇で、12/24、主人公の年齢、いきなり起きたトラブルに主人公や周囲の人たちが巻き込まれる海外ドラマ「24」を思わせる状況などの要素を含め、トリプルミーニングで「24(にじゅうよん)」っていうタイトルをつけて書いたけど、結局、その舞台は実現できずにお蔵入り。その後も幾つか戯曲を書いたもののどれもお蔵入り。そんな話を興味深そうに聞き入ってくれたので「まぁ自分からしたら単なる汚点だけど、そこまで面白がってくれたなら話してよかったな」などとその話を打ち切って業務に戻りました。

 

 次の日。昼食後の昼休みに仲はいいものの部門移動のため疎遠気味だった別の同僚が
いきなり「演劇のシナリオ書くんだって?」と、声をかけてきたのです。どうしてその
話を知っていたのかというと、前日に雑談を交わしていた先輩同僚が喫煙ルームで職員数人の前で僕の脚本のことをべた褒めしていたということでした。僕に声をかけてきた同僚も「おせじをいうわけではないけどその物語のあらすじやタイトルを聞いて、俺も
面白いなぁと思ったよ」と言ってくれたのは嬉しかったけど、所詮舞台にならない脚本なんて価値なしだ。という想いが強く、その誉め言葉を素直に受け入れられませんでした。

 

 だけど。やっぱり誉め言葉っていうのは嬉しいもんで、その日自宅のパソコンでまだ
保存してあった脚本をできるだけ客観的に目を通してみたら面白かったんですよ。そんなの単なる自画自賛だと言われたっていい。面白い。ただ、10年前に書いた物語なので
所々でネタも古くなっている。これをどうやってアレンジを加えるかと、上演のあてもない脚本の前で腕組みしている自分がいました。その次に目を通したのはこのブログ。以前の記事を読むと、なかなか読ませるものがある。

 

 そんな以前の作品を幾つか読んで「やっぱり僕は文を書くのが好きなんだな。」と、
今回つくづく思いました。ブログは今後も続けていくつもりですけど、今年はこのブログの最大のファンは「自分」という想いを抱き、自分が読んで楽しいブログを目指していきたいと思っております。このブログが好きで読んでいただいてる酔狂な方がどれほどいるかわかりませんが、どうぞ今後もお付き合い下さいませ。

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