こんにちは、リブセンスでデータサイエンティストをしている北原です。今回は2020年8月に開催された転職ドラフトの年収非公開施策の分析結果について紹介します。今回は一般向けの内容で、分析手法は集計のみを使いデータ分析の専門用語はほとんど使わずに説明しています。データサイエンティスト向けの、より詳細な分析については後日扱う予定です。
転職ドラフトでは本格的に選考が始まる前に企業がユーザーに年収を提示することになっています。提示された年収は公開されているので、他社の提示年収を参考にすることができ、ある種の市場価格が形成されます。今回の分析では、この仕組みがユーザーあるいは企業にとって不利になることがないかを調べました。
転職ドラフト
まず、転職ドラフトがどのようなサービスを行っているのか、どのようなビジョンをもってサービスを運営しているのかについて説明します。より詳しくは転職ドラフトのサイトを御覧ください。
転職ドラフトは競争入札式のITエンジニア向け転職サイトです。通常の中途採用選考とは異なり次のようなステップを踏みます。
- ユーザーは職務経歴書などを事前に登録し参加表明
- 企業は参加表明しているユーザーの選考を行い、採用したい候補者を指名し年収や業務内容を提示
- ユーザーは指名してきた企業の年収や業務内容を知った上で選考を進めるもしくは辞退
通常の選考では選考通過後に年収が提示されますが、転職ドラフトでは指名の時点で年収を知ることができるのが特徴です。この提示年収は他のユーザーや企業も参照することができます。
転職ドラフトは「実力が正当に評価される世界の実現」というビジョンのもと運営されています。これを実現するために年収がオープンになっています。年収目安がわかるので、ユーザーは不当に低い年収の選考を辞退することができますし、企業も業務に見合わない高年収を提示しなくともすみます。その結果、大きな年収格差が生じるケースは少なくなっていき、実力に応じた年収が提示されるようになると考えています。転職ドラフトがどのような想いで運営されているかは、公式noteなどを御覧ください。
年収非公開施策
提示年収の透明化は「実力が正当に評価される世界の実現」というビジョン実現するためのものですが懸念もありました。提示年収がオープンになっていることで、過去に他の企業が提示した年収に影響されて適切な年収が提示されていないことがあるのではないかという懸念です。
企業によって置かれている状況が異なるので重視しているスキルも異なるはずです。そのため、同じエンジニアに対する評価も企業ごとに異なるはずです。しかし、他企業の提示年収が影響しているのであれば、その金額に近い額が提示されやすくなり本来の適切な年収が提示されにくくなります。
もしそうであればビジョンに反することになります。そこで、他企業の提示年収の影響を調べるために行われたのが2020年8月に開催された年収非公開施策です。
年収非公開施策は、過去に開催された回の提示年収や他社の提示年収を閲覧できなくさせる施策です。この施策によって他企業に影響されない年収が提示されるはずです。なお、効果検証をするのであればA/Bテストを行うべきなのですが、施策の割当によってユーザーや企業が不公平にならないようにするために断念しました。
分析
目的
他企業の提示年収がその後の提示年収に影響を与えるかを検証し、対処の必要性を示すのが分析目的です。なお、対処の必要があったとしても転職ドラフトでは年収非公開施策を恒久化することは予定していません。
方針
今回の分析に最低限必要なのは年収非公開回とその前後のデータだけですが、ある程度トレンドなども確認できるよう分析には2020年に開催された転職ドラフトのデータを使います。具体的には、2020年1月から9月までに開催された転職ドラフトのデータを使います。参加ユーザー数、参加企業数、のべ指名数は以下の通りです。
開催回 | 参加ユーザー数 | 参加企業数 | のべ指名数 |
---|---|---|---|
1月回 | 536 | 127 | 878 |
2月回 | 471 | 125 | 680 |
3月回 | 426 | 124 | 436 |
4月回 | 337 | 102 | 321 |
5月回 | 350 | 107 | 383 |
6月回 | 347 | 111 | 409 |
7月回 | 312 | 99 | 396 |
8月回(年収非公開回) | 364 | 103 | 476 |
9月回 | 325 | 118 | 456 |
基本的には仮説検証型の分析方法をとります。つまり、他企業の提示年収の影響があるとしたらどのようになるかを考え、本当にその通りになっているかを調べていきます。その仮説を元に、他企業の提示年収がその後の提示年収にどのような影響を与えていたかを考えます。
仮説
先に仮説の概要を紹介し、その後に詳細を説明します。
他企業の提示年収の影響があるとした場合の仮説の概要は以下の通りです。
- 提示年収のばらつきが大きくなる
- 特に希望年収のないユーザーのばらつきが大きくなる
- 提示年収水準が変わる
- 特に希望年収のないユーザーに年収非公開の影響が表れる
- 希望年収があると希望年収に近い金額が提示されやすくなる
- 指名数が変わる
- 希望年収があると指名数が減る
なお、提示年収水準と指名数については、年収公開時と非公開時それぞれにプラス要因とマイナス要因があり、双方のバランスで数値が上下します。そのため、提示年収水準が上がるか下がるか、指名数が増えるか減るかはわかりませんが、上下あるいは増減のどちらに変化するかを参考に他企業の提示年収の影響を考えます。
では、他企業の提示年収の影響があるとしたらどのようになるかを考え、個々の仮説について検討しましょう。
提示年収は、主に以下の情報から決められると考えられます。
- ユーザーのスキル・実務経験
- 指名企業の給与水準
- 希望年収
- 他社からの過去の提示年収
過去の提示年収を除くと、これらは企業向けアンケートでも提示年収を決めるのに重視している事項として回答があった上位項目とも一致しています。年収非公開施策でも希望年収は公開されたままなので、過去の提示年収に影響されていた企業が希望年収に影響されやすくなることは十分に考えられます。そのため、転職ドラフトが理想と考えている提示年収は希望年収を書いていないユーザーについてのみ得られます。
企業向けアンケートによると、過去の提示年収の扱いは企業によって異なっており以下の3パターンがありました。
- 提示年収の参考にしている企業
- 提示年収には影響しないが指名の参考にしている企業
- 提示額や指名に影響しない企業
3パターンのいずれのタイプの企業が多いかを定量的に示すのは難しいですが、年収非公開施策による影響が提示額と指名のいずれに強く表れるかあるいはほとんど表れないかで、いずれのタイプが多そうかを予想することができます。
他企業の提示年収の影響がある場合、同じエンジニアに対する評価が企業によって大きく異なっていても他企業の提示年収に近い額が提示されやすくなると考えられます。したがって、通常は提示年収のばらつきは大きくなると予想されます。また、希望年収が提示年収の目安となるため、希望年収のあるユーザーについては希望年収に近い額が提示されやすくなると考えられます。そのため、以下のように希望年収の有無によって提示年収の影響が異なります。
- 希望年収のないユーザー
- 年収非公開によって提示年収のばらつきが大きくなる
- 希望年収のあるユーザー
- 年収非公開によって希望年収のないユーザーと比較するとばらつきは小さくなる
なお、提示年収のばらつきは採用市場が過熱した場合にも大きくなるので、ばらつきの解釈には注意が必要です。
他企業の提示年収の影響がある場合に提示年収の水準が上がるか下がるかは一概には言えません。年収非公開によって提示年収が変わる場合、以下のようなケースが考えられます。
- 年収非公開によって提示年収水準が上昇するケース
- 従来、初期の提示年収が本来の実力よりも低くそれに続く企業の提示年収も低い状況が続くことが多かった(ユーザーも妥協して本来の実力より低い年収で選考を進めることが多かった)
- 年収非公開によって提示年収水準が下落するケース
- 従来、選考を進めてもらうために本来の実力より高めの年収を提示することが多かった
転職市場が過熱していれば後者のケースが多いと考えられます。2018〜2019年は過熱状態でしたが2〜3月に急激に冷え込み、年収非公開施策を実施した2020年8月の時点では回復途上にあります。そのため、どちらのケースが多いとは言い難いです。
ただし、希望年収があるユーザーについては希望年収に近い年収額が提示されることによる影響が予想されます。企業向けアンケートによると回答のあったすべての企業が、ユーザーの実力を判断しにくい場合、他企業の提示年収を参考にしているとのことでした。過去の提示年収を参考にできないのであれば希望年収を参考にするケースが増えることが予想されます。
指名についても上がるか下がるかについては一概に言えません。年収非公開による指名への影響については、以下のようなケースが考えられます。
- 年収非公開によって指名が増加するケース
- 自社の想定年収と乖離する年収が他社から提示されているときに指名を控えていた企業が、指名を控えることがなくなった
- 従来、他社より自社の想定年収が高い場合にユーザーを過大評価している可能性があるため指名を控えていた
- 従来、他社より自社の想定年収が低い場合に悪い噂を流されるレピュテーションリスクがあるため指名を控えていた
- 自社の想定年収と乖離する年収が他社から提示されているときに指名を控えていた企業が、指名を控えることがなくなった
- 年収非公開によって指名が減少するケース
- 想定年収が決めにくいときに他社の金額を元に提示年収を決めていた企業が指名を控えた
- 過去の提示年収から承諾年収を推測できないため想定年収が希望年収を下回ると指名を控えた
- 希望年収のあるユーザーのみ指名が減少し提示年収が希望年収を上回る割合が高くなる
他社と自社の提示年収の乖離を気にしなくなると、提示年収のばらつきは大きくなることが予想されます。
提示年収のばらつき
提示年収のばらつきを、ばらつきを表す指標の一つである標準偏差を利用して調べてみましょう。各開催回において2回以上指名されたユーザーの提示年収の標準偏差を計算し、開催回ごとに希望年収有無別にその標準偏差を平均した値を調べます。ただし、この方法は定量的な評価ができるほど信頼性が高いものではないので、定性的な評価のみに使います。
提示年収のばらつきは以下の通りです。仮説で示した通り、希望年収の有無によって提示年収のばらつきへの影響が異なります。希望年収のないユーザーのばらつきが年収非公開回時に大きくなっているか、希望年収の有無によって違いがあるかに注意しながら見てみましょう。
グラフから次のことがわかります。
- 希望年収の有無に関わらず、年収非公開回(8月回)のばらつきは直前(7月回)より大きくなっている
- 直後(9月回)のばらつきも7月回以前と比較すると大きく、特に希望年収のあるユーザーは年収非公開回(8月回)よりも9月回のほうがばらつきが大きい
年収非公開回(8月回)のみ、ばらつきが大きくなるものと予想していたので9月回もばらつきが大きいのは意外でしたが、これには採用市場が回復してきたことと、年収非公開回をきっかけに企業が行動を変えたことが原因と考えられます。
採用市場は回復過程にあり、年収非公開回(8月回)より9月回のほうが採用市場の過熱感はさらに高まっていると推測されます。その根拠は次の通りです。
- 採用市場が過熱するとばらつきが大きくなることを踏まえると、年収非公開回(8月回)から採用市場が過熱し始めた可能性がある
- 希望年収のあるユーザーは年収非公開の影響を受けにくいので、年収非公開回(8月回)の採用市場の過熱の影響は希望年収のあるユーザーの提示年収のばらつきに表れやすい
- 9月回では採用市場の過熱の影響がそのまま提示年収のばらつきに表れる
- 希望年収のあるユーザーの提示年収のばらつきは9月回のほうが大きいので、9月回のほうが年収非公開回(8月回)より過熱している可能性が高い
このことを踏まえて、希望年収のないユーザーの提示年収のばらつきについて考えると、年収非公開による影響で提示年収のばらつきが拡大した可能性が高いと言えます。
- 前提
- 採用市場が過熱しているほうが提示年収のばらつきが大きい
- 採用市場は9月回のほうが年収非公開回(8月回)より過熱
- 年収非公開の影響がなければ、希望年収のないユーザーの提示年収のばらつきは年収非公開回(8月回)のほうが9月回より小さい
- 実際には希望年収のないユーザーの提示年収のばらつきは年収非公開回(8月回)のほうが9月回より大きかった
- 希望年収のないユーザーの提示年収は年収非公開の影響がなければ9月回より小さいが実際には9月回より大きいので、年収非公開による影響で提示年収のばらつきが拡大したと考えられる
以上より、年収公開時には他社の提示年収に近い年収が提示されやすかったと推測されます。ただし、7月回以前と比較すると9月回のばらつきは年収非公開回(8月回)と同程度に大きくなっています。このことから他社の提示年収はその後の提示年収に影響するものの、採用市場の回復によってかき消される程度のものであると考えられます。
年収非公開回をきっかけに企業が行動を変えた可能性も考えられます。今まで他社の提示年収を参考にして提示年収を決めていた企業が年収非公開回で指名を行うためには、希望年収に沿った指名をするか、エンジニアリングスキルを見極められる人物に担当してもらうなどの採用体制の変更が必要になります。実際に企業向けアンケートでも採用体制を変更したという回答がありました。9月回以降も採用体制が維持され自社基準で提示年収を決める企業が7月以前より増えたならば、9月回のばらつきも大きくなると考えられます。
提示年収水準
まず提示年収水準について開催回ごとの平均提示年収を利用して調べます。ユーザーによって指名数は異なるので指名の多いユーザーの影響が強くならないようユーザーごとに平均提示年収を計算しその値を使って各開催回の平均を計算します。
平均提示年収は以下のとおりです。仮説で示した通り、希望年収の有無によって平均提示年収への影響が異なります。平均提示年収が年収非公開回時に上がっているかそれとも下がっているか、希望年収の有無によって違いがあるかに注意しながら見てみましょう。
グラフから次のことがわかります。
- 年収非公開回(8月回)の提示年収が一番高いが、直近の開催回と比較して著しく高いわけではない
- 年収非公開回(8月回)前後の提示年収傾向は、希望年収の有無による大きな違いはない
- 提示年収には緩やかな上昇トレンドがある
年収非公開回の提示年収が高いことから、仮説の「年収非公開によって提示年収水準が上昇するケース」に該当します。ただし、上昇幅は開催回ごとの変動やトレンドで説明可能な範囲内にとどまっており、影響があったとしても小さいと考えられます。これらのことから、通常の年収公開時について次のことが言えます。
- 初期の提示年収が本来の実力よりも低くそれに続く提示年収も低いことが多い可能性がある
- ただし、その影響は提示年収水準のトレンドや誤差の範囲にとどまる程度に小さい
次に希望年収があると希望年収に近い年収が提示されやすくなるかについて調べます。提示年収が希望年収の1割増減の範囲内であれば「希望年収に近い」とし、開催回ごとに「希望年収に近い」提示年収の割合を計算したものを利用します。例えば、希望年収600万円であれば提示年収が540〜660万円であれば「希望年収に近い」とします。
希望年収に近い年収が提示された割合は以下の通りです。年収非公開回で希望年収に近い年収が提示されやすくなっているかに注意しながら見てみましょう。
グラフから次のことがわかります。
- 年収非公開回(8月回)と直後(9月回)で希望年収に近い年収が提示される割合が高くなっているが、直近の開催回と比較して著しく高いわけではない
- 希望年収に近い年収が提示される割合には上昇トレンドがある
これらのことから年収非公開回(8月回)では希望年収に近い年収が提示されやすかった可能性はあるものの、希望年収の影響はあったとしても小さいと考えられます。また、希望年収に近い年収が提示された割合が低下しているわけではないことから、希望年収のあるユーザーでは年収非公開時に提示年収のばらつき拡大が抑制されていたと考えられます。
指名
指名数は参加ユーザー数や参加企業数が増えると増加するので、以下の2つの指標を使って指名の傾向を調べます。
- ユーザーあたり指名数 = のべ指名数 ÷ 参加ユーザー数
- 企業あたり指名数 = のべ指名数 ÷ 参加企業数
ユーザーあたり指名数は以下の通りです。ユーザーあたり指名数が年収非公開回時に増えているかそれとも減っているか、希望年収のあるユーザーの指名数が年収非公開回時に減っているかに注意しながら見てみましょう。
グラフから次のことがわかります。
- 年収希望のないユーザーは、3月回、4月回を底に上昇トレンドにあり年収非公開回(8月)特有の変動はない
- 年収希望のあるユーザーも、3月回、4月回を底に上昇トレンドが見られるものの年収非公開回(8月)は前後の回と比較して低下している
これらのことから、年収希望のないユーザーの指名への影響はほとんどなかったと考えられます。指名控えは年収公開時も非公開時も発生するので結果的に両者のバランスが取れていたようです。一方で、希望年収のあるユーザーでは想定年収と希望年収の乖離による指名控えが多かった可能性があります。
企業あたり指名数は以下の通りです。企業あたり指名数が年収非公開回時に増えているかそれとも減っているかに注意しながら見てみましょう。
グラフから、4月回を底に年収非公開回(8月)まで上昇トレンドにあったが9月回ではやや低下していることがわかります。年収非公開回(8月)で大きな落ち込みがないことから、年収非公開による指名控えは多くなかったと考えられます。なお、9月回で低下している理由は参加企業数と比較して参加ユーザー数が少なかったことが原因と推測されます。
結論
他企業の提示年収がその後の提示年収に影響している可能性は高いが、転職ドラフトのビジョンに反するほどの影響はない。
- 年収公開によって、わずかながら他社の年収に近い金額が提示されやすくなる
- 年収公開によって、提示年収額は若干低めになるがほとんど変わらない
- 全体的な指名数は年収公開の有無にほとんど影響を受けない
- ただし、他企業の提示年収がわからないと希望年収のあるユーザーへの指名控えが発生しやすい
まとめ
今回は2020年8月に開催された転職ドラフトの年収非公開施策の分析結果について紹介しました。転職ドラフトでは提示年収がオープンになっているため、他企業の提示年収がその後の提示年収に影響することで不適切な年収が提示されやすくなっているのではないかという懸念がありました。そこで、提示年収を非公開する施策を行い他企業の提示年収の影響について調べました。
分析の結果、他企業の提示年収がその後の提示年収に影響している可能性は高いが、転職ドラフトのビジョンである「実力が正当に評価される世界の実現」に反するほどではないことがわかりました。