ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

身辺雑記 公的なものについて 

 今回は政治社会の話ではなく、身近に起こった出来事について書こうと思います。といっても、あまり詳しくは書けないのですが。
 1つめは、自治会の広報紙に載せたい記事があって、編集責任者にどこに諮ればいいのか尋ねたところ、経過はわかりませんが、程なくして執筆依頼の文書が届きました。意外にすんなり承諾されたのかと、少し張り切って取材をして、締め切りのだいぶ前に添付メールで原稿を送りました。その後、取材に協力してくれた人から、自分の話が地元の広報紙に載るなんて、今まで経験したことがないので、恥ずかしいやらドキドキするやらで、と言われました。小生も原稿を送ったきりで、そのままになっていて、多少の不安もあったので、編集責任者の方に話をしたところ、親切にも校正会議後のゲラ刷りの写真を送ってくれたのです。
 しかし、見て仰天しました。文章自体はだいたいそのままだったのですが(それはまあ当たり前ですが)、見出しの文言を削られた上に、形式も変更されていました。驚いたのは、挿入してあるはずの図が外されていて、これでは話の一部が通じなくなりそうでした。これはちょっとまずいと思って、編集責任者に話したところ、まだ印刷には間に合うはずなので、担当者と直接話をした方がいいということになり、要望を伝えました。しかし、回答の方は、全体的に紙面が少ない中で記事を挿入したために、図は入れられなかった。形式なども含めて校正会議を経た完成稿なのでこのまま行きたい。見出しの一部削除については「まあ、これくらいはイイでしょ」ということでした。理屈っぽく言えば、こちらにも裁量権(編集権)があるということでしょう。まあ、それは理解できないこともありません。が、この「手の加え方」とその後の物言いにはやはり驚きました。でも、これで行くと言われてしまったら、もうどうしようもありません。
 一昨日、取材に協力してくれた人のお宅を訪ねて、半ば謝罪をしたのですが、実際の記事を見ていないので、あまり趣旨がよく伝わらなかったかもしれません。後日実物を見たときにどう感じるだろうかと想像すると残念でなりません。この人はけっこう高齢で(って小生が書くのですから、実際かなりの「高齢者」です)、取材後「冥途のみやげにするかぁ」などと笑っていたので、ますます憂鬱な気分になります。

 もうひとつ別の話をつけ加えますと、これも詳細は省きますが、知人の大工さんに家の一部の改修工事をお願いしたところ、ある業者さんを紹介されて、工事が始まったのですが、まあ何というのか、「職人芸」と言ったら大袈裟ですが、そのレベルからあまりにかけ離れていて、杜撰な箇所が目につく仕上がりとなりました。急遽その紹介してくれた知人にも来てもらって、三者で確認をし、必要な箇所には至急修繕を施すことになったわけです。「改修」したところをさらに「修繕」ですから、笑い話にもなりません。たとえば、工具で削った際に出来たと思われる傷跡とか、位置を確認しないで付けた部品、埋めていない空洞やへこみなどを、こちらから逐一指摘すると、業者側の反応が薄いというか、その様子を見ていると、「これくらいはイイでしょ」とでも言いたげでした。しかし、小生にとっては、今までも何人か職人さんの仕事ぶりを見てきて、こういう仕事をする人は初めてなのでびっくりだったのです。業者を紹介した知人にしても、これでは立つ瀬がないのでは、と思うのですが、そういう思いはあまり伝わらないようです。

 二つとも悪意があっての所作ではないと思っています。一方は完全なボランティアで、他方は対価のある請負仕事で、これらを一緒くたにはできませんが、共通するものがあるとすれば、広報紙も家の一部も、破損したり処分されない限りは、今後もそのまま残るということでしょうか。大袈裟なことを言えば、小生ほか直接関わった関係者がこの世からいなくなっても、そのまま「存在」している可能性がある。家の方は特にそうです。ひょっとしたら何世代にもわたってそのままかも知れないのです。 
 それは、わけがあって家の一部を改修するために、前にあった建造物を撤去したら、近所のみんなから「もったいない」「惜しい」などと再三言われて、話をしているうちに気づいたことです。私的な所有物であるはずの家の一部が、実は必ずしも個人の持ち物ではなかったのではないか。もっと言えば、建築物というのは、出来上がったらどれも個人の所有物の域を超えているのではないかと。これは、建築家の山本理顕さんの『権力の空間/空間の権力』(講談社メチエ)にも、そのようなことが書かれていたように思います。
 我が家の場合も、建築物である家自体が住人である小生らはもちろんのこと、尋ねてくる近所の人や友人たちにも一定の印象や効果を与えているかもしれません。その近くでこんな出来事があった、こんな話をした、等々……小生個人にははかりしれない、そして個人の所有物であることを超えた世界がそこに広がっていたかも知れないのです。広報紙も同様です。

 先日東京・明治神宮外苑の樹木伐採の映像をテレビで見ていて、同じものを感じました。今日は書きませんが、ここには「悪意」というか、再開発の利権そのものが見てとれます。公的社会のあるべき優先順位が全然ちがうと思います。

 結局ぼやきを書いただけになりましたが、公的なもののあり方がいかに個人の思いにつながるのか(当然逆向きもあると思います)、良心と良識をもって事に当たるというのはもちろんですが、もう少しあれこれ考えてみたいと思います。



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被団協のノーベル平和賞受賞のこと

 日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル平和賞を授賞しました。大変喜ばしいことだと思うのですが、朝刊(毎日新聞)の1面トップを目にすると、「号外」と見紛うような紙面構成に何となく「違和感」があります。「慶事」とは言っても、米国のメジャーリーグで大谷選手が50ー50を達成したとかいう話などとは別ものではないか。日本すごい、日本万歳、のようなお祝い気分でいいのだろうかとまず思います。
 でも、それだけではありません。ノーベル賞が「政治的」という話はもはや指摘するまでもありませんが、平和賞と経済賞は特にそうです。核廃絶運動への貢献を言うのなら、21世紀の今でなく、もっと早くに受賞していて当然です。それが何で今なのか。
 確かに、今、国連の安全保障理事会ほかが機能せず、戦争の拡大が危惧され、指導者が核兵器の使用可能性に言及する状況はありますが、核戦争への危機感を言うのなら、1960年代あたりの方が今よりはるかに強かったでしょう。キューバ危機もありましたし……。だから、受賞理由は、被団協の長年にわたる核廃絶の取り組みだと説明されればされるほど、逆に、今の方がある意味「安心」して核問題へのメッセージを発せられるという意味なのかと。もちろん団体と関係者の長年の運動の積み重ねを評価するとしても……等と想像してしまいます。
 違和感のふたつめは、受賞のスピーチで代表委員の田中熙巳さんが強調していた点でもありますが、核兵器禁止条約を批准・署名せず、被爆者支援にも概して後ろ向きな日本政府の姿勢に対する批判に(たぶん意図的に)スポットが当たらないようにしてきたことです。これは最初の違和感とも関連しますが、当初からノーベル賞受賞のお祝いムードを先行させ、話題を「戦争反対」と「核廃絶」の一般論や(今と切り離した)過去の話へと「囲い込んだ」のです。……と思っていたら、宮崎園子さんが(米国の責任を含め)的確な記事を上げていてくれました。一部引用させてください。
ノーベル平和賞 授賞式 日本被団協 田中熙巳さん【演説全文】 | NHK | ノーベル賞2024
喜ばしいがどこかひっかかる日本被団協のノーベル賞受賞、彼らの訴えの「芯」をノーベル委員会は見落としていないか(JBpress) - Yahoo!ニュース

■訴えるだけでなく、闘ってきた人たち
 日本被団協の結成は1956年。原爆被害を受けてから、GHQ(連合国軍総司令部)によるプレスコードによって沈黙を強いられた時期も含めて11年の月日を経て立ち上がり、「原爆許すまじ」「三度(みたび)許すまじ」と訴えてきた人たちの足跡について、「核兵器の使用がもたらす人道上の破滅的な結果について認識を高めるため、たゆまぬ努力を続けてきた」と評価されたことについては、大変喜ばしいことだと思う。
 一方で、授賞理由の中において、日本被団協の活動の重要部分には言及がなかった。それが、とても残念でならない。彼らが訴えてきたのは、核兵器廃絶だけではない。日本被団協のメンバーは、「証言活動に取り組んできた人たち」であるというだけではないのだ。
 日本被団協は、「ふたたび被爆者をつくらないために」として、今からちょうど40年前の1984年に、「原爆被害者の基本要求」をまとめている。この時点ですでに原爆投下から40年が経とうとしているころ。「被爆者はもう、黙ってはいられません」と記したその内容は、「核戦争起こすな、核兵器なくせ」、そして「原爆被害者援護法の即時制定」の二本柱で構成されている。
 つまり彼らは、「被爆体験の語り手」なだけではないのだ。国家補償に基づく被爆者援護、要は、核戦争の被害に対してきちんと責任を認め、その上で、原爆死没者に対する補償も含めた援護法を制定せよ、と米国政府や日本政府を突き上げてきたのだ。
 そして、これら二本柱の要求はいずれも、それからさらに40年が過ぎ、被爆80年を目前にした今に至って、実現していない。
<中略>
 原爆被害に対する国の責任をきちんと問い、国の補償をはっきり確立することが、再び惨禍を繰り返さないために必要不可欠であると日本被団協は訴えてきた。広島弁について書いた9月6日の本連載で触れた、日本被団協初代事務局長の藤居平一氏(1915~1996)の評伝のタイトルにもなった彼の言葉「まどうてくれ」(「元通りにしてくれ」「償ってくれ」の意)は、まさに国家補償を求める悲痛な叫びの象徴のような言葉なのだ。
 なのに、どうしてノーベル委員長はこの部分について、一言も言及してくれなかったのだろうか。被爆者たちの悲願が結実し、2021年に発効した核兵器禁止条約に対してのみならず、国家補償の援護にも背を向けている日本政府に対して、なんらか配慮のようなものがあったのだろうか、などと考えるのは穿った見方だろうか。……

 ……とはいえ、日本政府の問題はおくとしても、ノーベル平和賞が世界の人々の関心を核廃絶や戦争反対に向ける効果は大きいと思います。単純な自国(自民族)擁護、他国(他民族)批判は草の根のナショナリズムとなって、世の中を覆い尽くさんばかりです。ネット空間にも憎悪と中傷が溢れていて、見ていて閉口します。世の耳目がノーベル平和賞に向かっても、それは一時的で、年が替われば、他の物事同様に、「熱」は冷めて、憎悪と中傷の波に飲み込まれていきかねません。どうやってここに「楔」を打ちむのか。大人たちは子どもたちに何をどう語っていくべきか。

 昨日宮田律(おさむ)さん(現代イスラム研究センター理事長、専門イラン史)の著書を読んでいたら、最後にこんな詩が引用されていました。スウェーデンの中学教科書に載っているそうですが、四六時中憎悪や中傷にさらされた子どもたちが、狭量なナショナリズムを乗り越えていくことはできないと思います。

 子ども

 批判ばかりされた 子どもは
 非難することを おぼえる
 殴られて大きくなった 子どもは
 力にたよることを おぼえる
 笑いものにされた 子どもは
 ものを言わずにいることを おぼえる
 皮肉にさらされた 子どもは
 鈍い良心の もちぬしとなる
 しかし、激励をうけた 子どもは
 自信を おぼえる
 寛容にであった 子どもは
 忍耐を おぼえる
 ――ドロシー・ロー・ノルト
  (アメリカの著述家・家族カウンセラー)
(宮田律『ナショナリズムと相克のユーラシア』、279ー280頁)

 金子みすゞの詩「こだまでしょうか」にも似たところがありますが、こちらは他者に映し鏡の自分を見るというか、日本の人にはより詩情豊かに響くかも知れません。最後の最後はここなのかも知れません。

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「ばか」っていうと
「ばか」っていう。

「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。

そうして、あとで
さみしくなって、

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。



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トランプ支持の「リアリティ」

 アメリカの次期大統領に決まったトランプ前大統領は、支持者ともども過激な「言動」やネット戦略が話題になりますが、ジャーナリストの立岩陽一郎さんのルポを読んでいて、過激に映る「表層」だけでなく、「深層」をもしっかり見ないといけない気がしました。確かに接戦と言われつつも、一時はハリス優位とも報道されていた今回のアメリカ大統領選挙が、予想外の雪崩現象でトランプ勝利に終わった面はありましたが、記事に登場する、トランプに票を投じたアメリカの有権者の声はわりと冷静で、彼ら彼女らの「リアリティ」自体を見誤ってはいけないと思いました。自省を込めつつ、トランプに嫌悪感を抱くことと、それは別個です。以下、長くなりますが、立岩さんの記事からの引用です。

トランプ支持のジョージア州
……11月2日、フロリダからジョージアに飛んだ。アトランタ空港で迎えてくれたのが……(旧友の)デールだ。そしてチェロキー郡の彼の家に向かった。美しいゴルフ場のような青々とした芝が続くチェロキー郡に私は前回の選挙でもお邪魔し、デールの紹介で周辺の人々と話をしている。白人が多く住む町で、私が会った人で言えば、ただ一人を除いてトランプ支持者だった。その一人も、「私がトランプを支持していないことをここでは言えない」と小声で言った。
 家でデールと(妻の)ニッキーに話を聞いた。「投票はもう終えたんですか?」と尋ねると、デール、ニッキーともに「既に」と話した。「誰に投票したんですか?」と聞くと、デール、ニッキーともに「トランプ」と笑顔で話した。これは私の来訪目的を知っているからで、当然、次は「なぜトランプ?」と尋ねられることも織り込み済みだ。
 デールは事前に整理していたのだろう。コンパクトに次のように話した。
「中絶、移民政策、そして経済です。移民政策と経済はリンクしています。今の政権は登録なく入国する移民に対応しないだけでなく、その移民を手厚く保護しています。例えばハリケーンの被害には7000万ドルしか支援しないのに、登録なく入った移民にはクレジットカードを与える状況です。私は外国人がこの国に入ることに反対はしませんが、それは適切にすべきだし、経済的な支援に関して言えば、まずは自国民を支援するべきだと思います。中絶については女性の身を守ることはもちろん大事です。でも、生まれる子どもの命も大事です。その命を奪うことはしてはいけません。それができるのは神だけです」
 ニッキーが続けた。
「私も移民政策は重視しています。私はメキシコで育ちました。だから外国を知り、外国の人との関係を大事にしています。でも、その私だってメキシコでは外国人ですから正規の手続きで出入国していました。それがまともな国です。私は手続きなく入国する外国人を規制しない国を知りません。私が求めていることは、適切な手続きで入国させるべきということです。それとインフレーションは凄いです。私は主婦としてそれを実感しています。食費は倍になっています。私たちはまだ食事を制限する必要はありませんが、貧しい人々は本当に大変だと思います」
 真面目に暮らすまともなアメリカ人の普通の意見と言えるだろう。ニッキーに問うた。ハリスが大統領になれば女性初の大統領だが、それはプラスなのかマイナスか?
「女性だからどうということは考えません。白人でないかそうかも考えません。ハリスの発言を聞いたらわかります。彼女にその能力はありません。言っていることが支離滅裂で、何を言っているのかわかりません」
 そこであえて尋ねてみた。「あなたは人種差別主義者?」予想外だったのかニッキーは吹き出しつつ答えた。
「違います。例えば、私が飛行機に乗る時、パイロットの性別や人種を気にするか? 全くしません。良いパイロットかどうか、そこだけです。」
 最後に「トランプは勝ちますか?」と尋ねた。デールは少し考えて答えた。
「Cautiously optimistic(注意深く楽観視しています)」

……月曜日の早朝は、デールの仲間に会った。F3と呼ばれる信仰と体力維持を目的とした全米に拡がる取り組みで、地域ごとに集まってそれぞれトレーニングを行う。……この日は約20キロの重りを背負って山道を駆け足で45分進むというものだった。月曜日ということで参加者は少なく、8人だった。当然のように白人の男性しかいない。終わって神に感謝を捧げた後、取材に応じてくれた。皆既に投票を済ませていると話した。私が「誰に?」と問うと、当然のように口々に「トランプ」と答えた。なぜ?
「彼は命を大事にする。中絶反対もそうだし、彼がいた四年間は戦争がなかった」
 軍隊もどきのマッチョなトレーニングをする彼らがこう言うと、一瞬違和感を覚えるが、トランプ政権時に戦争がなかったというのはトランプ氏が選挙戦でも主張する話だ。皆が口々にトランプ支持の理由を語る。そして現政権の批判とハリス氏への批判も。
「今の経済状態は最悪だ。ガソリン、食料と、値段はどこまで上がるんだ? それなのにバイデン政権は何もしない」
「ハリスはそもそも予備選挙ですぐに敗退した人物だ。それがバイデンが途中で降りて指名されるという形で、いきなり大統領候補になった。つまり彼女は有権者から選ばれた候補じゃない。そんな候補者に票は入れられない」
 どれも、トランプ支持者の語る内容として私も何度も耳にしている話だが、理屈で説明する彼らの言葉は納得できないものではない。特に、ハリス氏は予備選挙を勝ち進んだ候補者ではないという点。これは選挙後に民主党内でも議論になった点だ。
 ただ、私には疑問に思う点があった。……
「トランプの言動は、皆さんにとって不快なものではないのでしょうか?」
 苦笑いするF3メンバー。大手企業でコンサルタントをしていて現在は独立しているという長身の男性が言った。
「確かに。トランプは人間的には尊敬できない。好きにもなれないだろう。しかし、私は彼の性格にではなく、政策に票を投じた。それが大事なのだと思う」
 その隣の宗教団体で勤務しているという男性が続けた。
「候補者のどちらを選ぶか。それが二大政党制のアメリカの選挙だ。だからトランプかハリスか、その選択をするなら、絶対にトランプ、となる」
 そこでデールが、「あなたは人種差別主義者とは聞かないのか?」と笑って言ってきた。それを耳にした全員が、大笑いして、「アメリカのメディアは我々をそう描きたいんだ。もちろん、我々の誰一人、人種で人を差別したいとは思っていない」。
 では、なぜここには白人しかいないのか? その問いを発しなかったのは、「たまたま参加者が白人だっただけだ」との答えが予想できたからだ。
 このジョージアだけが例外なのではなく、過去にオハイオやペンシルベニアといったラストベルトでトランプ支持者を取材した際も、その温かいもてなしと説得力ある語りを感じた。彼ら、彼女らが極めてまともな人たちであると書くと、それ自体が失礼なことかもしれないが、それは私の実感として書いておきたい。

          (立岩「穏やかな雪崩」『地平』2025年1月号 44-47頁)

 上に出て来る人たちは白人(の中間層?)ばかりですから、そこは相応に考慮しなければならない点だとは思いますが、中には4年前の選挙ではトランプに投票しなかった人たちも含まれているはずです。今回トランプの言動の何がリアルに響いたのか、それはそれで尊重というか、よく考えてみないといけない「現実」があると思います。蛇足ですが、兵庫県の知事選についても同様で、5期20年に渡って続いた井戸県政への県民の視線をよく見ないといけないのかも知れません。




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