努力する学生になってはいけない

著者の芦田宏直氏は、twiiter上では極論を言う変人のように見られている(?)が、本書を通読してみて、まっとうな哲学者であることがよくわかった。専門学校の校長としての訓示には、大学生と伍して就職戦線に立ち向かう専門学校生への愛情に溢れている(申し訳ないけれど、大学にいると、専門学校を意識することはほとんどない)。表題も、やや奇矯に聞こえるけれど、考えないで自分のやり方に固執して努力を続けることはよくない、という意味。

私が特に共感するのは、次のような個所。

そもそも学業成績は、学生の「個人」情報ではない。学校のカリキュラム成績、教材成績、教員成績、ひいては教育成績でしかない。何でも「個人情報」扱いする学校は、すべてを学生のせいにして、自分たちの教育責任を回避しているだけです。(230ページ)

この種の『力』能力の特製の一つ一つは、学校教育(=若者)に特有な課題ではないということだ。「若年者」を離れれば、大概の大人は「コミュニケーション能力」を身につけているというのか。そんなことはあり得ない。世の中の組織の会議で、まともな議事が進行する会議がいくつあるというのか。ほとんどの場合は、「コミュニケーション」不全状態でしかない。大人の自分たちでさえコントロールできない「コミュニケーション」を、なぜ「若年者」に特有の課題であるようにでっちあげるのか。私にはそのセンスがわからない(257ー258ページ)

おそらく自分たち中高年に都合よく、また、気持ちよくしてくれるような若者を採用したいがために、「コミュニケーション能力」云々と言っているだろうと私は考えている。

学者に対しては、こんな意見も

学者の仕事の中核は「翻訳」。よく、翻訳ばかりやって、ろくに自分の思想ももたないくだらない翻訳学者というレッテルを貼る輩もいるが、それは大きな間違い。翻訳を何一つやらずに未邦訳の文献を使って自分の意見しか書かない研究者の方がどれだけたちが悪いか。
まずは世界的な水準の研究を自国文化に馴染ませることが研究者の仕事。研究者がたくさんの文献をこなすのは正確な翻訳をするためのこと。その翻訳が多数の自国読者を生み、たくさんの読解=解釈を意味、そのことによって底辺文化が広がり、その結果、研究水準全体が上がっていく。それが大学教授を国民が税金で養っている理由(137ページ)

訳書が15冊ある私は、少し自信が湧いてきたぞ。