美術作家である菊池遼さんが以下のようなツイートをしていた。
近代美学、絵画や彫刻や舞踏や詩が模倣を本質とするというのはまあとりあえずは分かるのだが、音楽における模倣ってどういうことなんだろう。なんかピンとこないな。
— KIKUCHI Ryo 菊池 遼 (@harukaka_) 2023年3月2日
僕も芸術の模倣説、つまり、諸芸術を束ねるものとして模倣をもちだす理論にはじめて触れたとき、同じような疑問を抱いた。
芸術の模倣説は音楽をどう説明するのか。
幸いにも、どこかで関連する記述に出会ったことがあり、菊池さんに以下のリプライを送った。
古代ギリシアでは感情を模倣すると考えられていたそうです。プラトンは音楽が何らかの感情の只中にある人間の声音を模倣していると考えたとどこかで読んだ記憶があります。近代でもこの方向性で音楽が捉えられていたのかはよくわかりませんが、参考になれば幸いです
— Masahiro Murayama (@Aizilo) 2023年3月2日
模倣説が音楽を説明する一つの理屈として、菊池さんには理解していただけたが、僕のツイートは近代美学について触れておらず、実際、何か言えるほどよく知らなかった。
そこで、改めて調べてみることにした。
今回の記事は、そこでわかったことのメモ書きである。
参考文献となったのは、スタンフォード哲学百科事典の以下の記事。
今回の疑問に関わるのは1.3節と3.4節であり、それぞれ古代と十八世紀の音楽観を取り上げている。
記事では、多くの思想家が、芸術の模倣説にコミットしているかどうかにかかわらず、模倣を行うものとして音楽を捉えていたことが記されている。
ここでは、何人かの思想家の見解を抜き出し、簡単に紹介しよう。
古代
古代ギリシアでは、音楽は感情を模倣する能力をもつと考えられていた。
ただし、模倣がいかに行われるかに関しては、論者間で相違もあったようだ。
プラトンの場合、音楽は感情的身振り、とりわけ声色を模倣していると考える。
たとえば、『国家』では、ドリア旋法とフリギア旋法に触れ、「これらは節度と勇気を備えた者の猛烈な、もしくは自発的な声のトーンを模倣する」と語っている。
ここでは声色に言及しているが、より広く、音楽が感情に関連する身体動作を模倣しているとも(少なくとも一度)述べている。
アリストテレスの場合、音楽は、ただ感情的身振りを模倣する視覚芸術とは違い、感情そのものを模倣することができると考える。
アリストテレスの見解に対する一つの有力な解釈は、彼は音楽が聴き手に対して感情を喚起する能力をもつと見なしており、この能力が、感情そのものを模倣する能力を最終的に説明する、というものである。
二人の見解の違いは、(声楽と対比される)器楽に対する二人の態度の違いを説明するかもしれない。
プラトンは器楽にほとんど価値を認めていないが、それは、器楽が勇気や節度をうまく模倣することができないと見なしていたからだと思われる。
他方で、アリストテレスは器楽に対して批判的ではなく、器楽が識別可能な感情を喚起することができるとはっきり認めている。
十八世紀
十八世紀に入ると、器楽の段階的な発展が音楽理論に大きな影響を及ぼしていた。
器楽の旋律的、和声的な複雑さが増すにつれ、それが話し声を模倣していると主張することは妥当でなくなり、それにもかかわらず、その複雑さは、感情を表現し、喚起する音楽の力を高めていたのだ。
結果として、音楽を模倣芸術とする見解は徐々に否定されていったが、ある時期まで、この見解はたしかに支持されていた。
芸術の模倣説の支持者として有名なシャルル・バトゥーは、音楽が感情的身振りを模倣すると考える(1746年)。
彼は模倣的でない音楽の存在を認めていたものの、「心を退屈させる」として、それを価値あるものとは認めない。
バトゥーに先立って、ジャン゠バティスト・デュボスもまた、音楽を模倣芸術と捉えている(1719年)。
彼によれば、声楽は熱弁を模倣するものであり、器楽は自然音を模倣するものである。
デュボスは音楽が感覚を魅了することを認めつつ、音楽に対する唯一の価値ある反応は模倣としての鑑賞から得られると考える。
1770年代以降になると、音楽を模倣芸術とする見解はますます通用しなくなり、音楽が感情的身振りを模倣することで感情を表現するという考え方も攻撃されるようになる。
ミッシェル゠ポール゠ギィ・ド・シャバノンは、この新しい潮流のもっとも代表的かつ過激的な思想家である(彼は作曲家でもある)。
シャバノンは、音楽による感情表現が声色の模倣に依存するという考え方を三つの点で批判している(1779年)。
第一に、子供や、西洋音楽の伝統に馴染みのない人々は、音楽に感情的に反応するが、音楽による模倣を理解することができない。
第二に、模倣は表現にとって不十分であり、たとえば、笑い声は愉快さに関連するが、笑い声を音楽で模倣しても、愉快な音楽にはならない。
第三に、「私たちの情念の多くは、それらに関連する特定の叫びをもたないが、音楽はそれらを表現することができる」。
このような次第で、音楽理論では、表現概念が前景化するとともに、模倣概念が後景化していったようだ。
最後に、興味深い見解を採っている二人の思想家を取り上げよう。
フランシス・ハッチソンは、音楽と模倣の結びつきについて語っているが、その見解はやや複雑である(1725年)。
彼は本来の美と関係の美を区別しており、前者は比較とは独立に判断されるが、後者は模倣に依存するとしている。
音楽は本来の美の一例だが、その旋律的要素が熱弁に類似しているために、比較の美も可能にする。
そして、この類似性を認識するとき、「ある種の共感ないし伝染によって」、聴き手の心に感情が沸き上がるとハッチソンは考える。
これは、音楽が声色を模倣することで感情を表現しつつ、同時に聴き手に対してそれを喚起すると見なす立場として興味深い。
経済学者としても知られるアダム・スミスは、声楽と器楽を峻別しており、前者は模倣芸術だが、後者はそうではないと考える(1795年)。
彼は、媒体と模倣される対象との格差が大きければ大きいほど、模倣芸術はより多くの喜びをもたらすとする。
そして、声楽は熱弁にわずかに似ているだけかもしれないが、だからこそ、うまく模倣したときには私たちを喜ばせる。
他方で、器楽は、テキストによって促されないかぎり、私たちがそこに何かを認識することはほとんどできないため、いかなる対象もうまく模倣することができない。
しかし、スミスは自然景観が何も模倣することなく陰鬱でありうることに注意を促し、同じ仕方で音楽も陰鬱でありうると主張する。
景観や音楽がもつ「陰鬱さ」は、私たちを陰鬱にさせる能力と見なされる。
ここでも、模倣と表現は別々の道を行く。