最近、芸術実践における作者の意図の役割がまたもや話題になっている。
そのきっかけはさておき、私は人々の意図理解が気になっている。
とりわけ、自分の意図に関する作者の報告の受け止め方に関して。
みんな作者の意図の役割についてよく議論するのに、そもそも意図とは?という話になかなかならないから、意図というものがどう捉えられているのかずっと気になっている。
— Masahiro Murayama (@Aizilo) 2021年8月27日
意図はすべて意識的か、一人称特権はいつでも認められるか、それは言語化可能性を含意するか、等々
ある人が作品の意味は作者の意図が決定すると言ったとしよう。
作品の意味を特定することが鑑賞/批評のやりがいのあるプロセスだとして、この人の意見は魅力に乏しく聞こえるかもしれない。
作品の意味を突き止めたいとき、私たちはただ作者に尋ねればよいと言うのか。
そんなことして、何が楽しいのか。
ここで待ったがかかる。
芸術家は自分の意図に関して不正直かもしれないし、そもそも何も言おうとしないかもしれない(あるいは文字どおりの意味ですでに死んでいるかもしれない)。
作者に聞けば万事解決などということはない。
これは的確な議論である。
しかし、ここで問題にしたいのは、作者の意図とその正直な報告の関係である。
はたして、この二つはぴったり重なりあうものなのか。
私はそうではないと考える。
デレク・マトラバーズも同意見のようだ。
この記事では、以下の著作におけるマトラバーズの作者の意図とその報告の関係を扱う短い議論を訳出して紹介しよう。
まずは本書『芸術哲学への招待:八つのケーススタディを通して』について。
副題にあるとおり、この本の特徴はケーススタディを通して(分析)美学の議論を学ぶことができる点である。
そのおかげで、抽象的な分析美学の議論がどのように個別の作品の理解に貢献するかが明確になっている。
八つの章の主題となる事例はすべて現代アート作品であり、ステッカー本(『分析美学入門』)とはまた違ったかたちで分析美学に入門できる一冊だ。
正直に言えば、私は関心に応じて四つの章しか読んでいないが、その一つは「意図」と題されている(五章)。
主題はルイーズ・ブルジョワの『ママン』(六本木でも見られる巨大なクモの彫刻)であり、ステッカー本でもおなじみの現実/仮説/反意図主義を検討する議論が含まれている。
そこで、マトラバーズは作者の意図を特定するうえで、作者の(正直な)報告は特権的地位をもつわけではないと注意を促している。
私が紹介したいのはその議論だ。
結局のところ、作者が私たちに伝えるものは、自分が何をしていたかについての作者の見解にすぎない。もし、作品がそこで述べられた意図の産物ではなく、別の意図の産物であるようにみえる状況にあるならば、それが示唆するのは、自分の意図についての作者の見解が間違っている、ということだ。つまり、自分の意図についての作者の発言は作者の意図に至るための一つのガイドではあるが、作品のうちにあるものもまた一つのガイドであり、さらに、それは外的知識〔ここでは作者の発言〕から得られるものよりも信頼性が高いものでありうるガイドなのである。
これは一見、信じがたいことかもしれない。自分の意図については、自分自身が一番の権威ではないか。たとえば、ブルジョワはたしかに自分が何をしているか知っていたはずであり、ゆえに、自分の意図に関する彼女の発言は、彼女が何をしていたかについての私たちの「最善の推測」を裏づける〔作品そのものと並ぶ〕もう一つの証拠として受け止めるべきではないか。多くの状況において、私たちは自分の意図について最高の権威をもつとはいえ、そうではないごく普通の状況もある。ある人は、本当の意図が私欲に支配されていることが誰の目にも明らかであるにもかかわらず、他人の利益を最優先に行為していると純粋に信じているかもしれない。しかし、日常生活の限界事例に訴える必要はない。芸術制作はそれ自体、自分が何をしているかについて芸術家が明確なアイデアをもつ可能性が低い特別なケースなのだ。芸術家は芸術制作を行う前から明確なアイデアをもっており、彼/彼女の課題はただそのアイデアを伝える手段となる何かを制作することだとする芸術の単純な伝達説は、芸術的努力の一般的説明として説得的ではない。もちろん、うまく当てはまるケースもあるにはある。しかし、より典型的なケースでは、芸術家は自分のやりたいことについて漠然とした見解しかもたず、その見解をより具体的にするためにメディウムを用いて作業する。芸術制作のプロセスは神秘に包まれているが、意識的であれ無意識的であれ、心のあらゆる部分を活用して行われる。このようなケースでは、自分が何をしていたかについての芸術家の意識的な認定よりも、制作されたものの方が信頼できる意図のガイドであると見なす理由がある。(p. 98)
自分の意図に関する作者の報告は無視してよいものではないが、絶対的に正しいという意味で特権的地位をもつわけでもない。
それはあくまでも判断材料の一つに留まるのだ(芸術形式や意図の種類などに応じて、その信頼性は変化するだろう)。
結局のところ、私たちの究極的な拠りどころは作品そのものにほかならない。
作者の意図を特定しようとする試みがうまくいけば、私たちは作者の心の声を復元することができるかもしれない。
しかし、私たちはさらに、作者が言語化できていない(もしかすると、意識に上らせることもなかった)何かを浮かび上がらせることもできるかもしれない。
これは作者の意図の特定という営みをスリリングなものにしている一つの理由である。