根津神社の大鳥居の真ん前の古い染物屋の横丁で爺さんが熱心になにか読んでいた。
とりあえずスナップしてわたしも読んでみた。
ここは根津遊郭の跡地である、と書いてある。
根津神社の参道の大鳥居の真ん前が遊郭なのかあ、と驚いたが、江戸以来の古い遊郭で、明治15年の調べでは娼妓数は吉原1019人、根津688人で、吉原に次ぐ遊郭であったと盛んだった往時を偲んでいる。
ところが、一高・東大がこの地の坂上の本郷台の加賀屋敷に出来るに及んで、明治20年12月をもって根津遊郭は廃止と決まり、それなら吉原(元は現人形町にあって、当時の人形町は海が見える文字通りの葦原(よしはら)だったが、江戸時代の明暦の大火を契機に浅草観音裏の浅草田圃に移転して当初は新吉原といわれていたが、江戸時代後期以降は吉原といっていた)に移転させてくれと陳情したが吉原には受け入れる余地はなく、やむなく向島の洲崎に移転したと書いてある。
へー、洲崎って本体は根津遊郭だったのかあ。
洲崎(現東陽1丁目)は永代通り裏の洲崎川と塩浜運河に囲まれた地だが、赤線廃止までは営業していた。
都電15系統、28系統、38系統の停留所があった。
この根津遊郭の由緒を掲げていた染物屋に貼ってあったポスター。「魔性の女」という挿絵展をやるらしい。
この参道奥まで遊郭だったんですかと染物や前の参道をあらためてみたら、なんだかわからないヒラヒラしたものが風にそよいでいたので写してみた。遊郭の由緒を読まなければこんなもの撮らなかった。
この建物はまさか明治20年時代のものではあるまいが、なにか古い旅籠屋か料理屋風に見えてきた。
その葛餅屋の前の古い運送店。こんな細い参道の中でどんなものを「運送」してたんだろう。
ところで、根津、洲崎についての詳しいことは「
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江戸時代の広重の洲崎。広々した海が見えたが、根津遊郭が移転した明治中期でも海が開け眺望は吉原よりよかったという。
明治中期の地図
昭和初期の地図
戦災復興期の地図